紙の月

溶ける温度

  キスというものに特別な意味を感じたことはない。初めてのキスからずっと、キスはただのキスだった。
 初めてキスをした相手は、五条家に勤めいていた女中だった。少し年上だったその女に導かれるようになんとなく唇を交わしてみたが、正直こんなものか、と思った。その女とはその後興味本位でセックスもした。それから性欲の解消目的で関係を持った女たちと、舌を絡めるようなキスだとか、洋画のような深いキスもやってみたことはある。だが大して気持ち良いとか、もっとしたいということはなかった。セックスの方が唇を合わすだけのキスよりも刺激的で、直接的に欲を満たしてくれた。だから相手に求められない限りキスすることはなかったのだ。

 それなのに、透とのキスは全然違う。
 
 好きな女とするとこうも違うのか、と正直驚いている。ガキみたいに色気のない、本当にただただ唇を合わせるだけの行為でも心が満たされる。何度かしているうちに、キスするのだと分かると透はきゅっと目を閉じるようになった。人を惑わすという魔眼が薄い瞼に覆われ、無防備な表情を晒す透を大事にしなくてはいけないと思うのに、欲望のままに貪りたいとも思う。柔らかな唇を合わせ、その閉じられた口内に舌をねじ込んで深いところで口付けてみたい。それはきっとたまらなく気持ちがいいだろう。そう、きっと、今まで感じたこともないくらいに。


「透、もう一回キスしていい?」

 照れているのか、まだ怒っているのか微妙な表情で顔を上げた透は小さく頷いて了承してくれた。受け入れてくれたことへの喜びで勝手に緩む頬のまま、さっきの乱暴なキスを打ち消すように柔らかく口付ける。その弾力と潤いを楽しむようにふにふにと何度か繰り返すと、透の小さな手が制止を求めるように首元を押し返す。離れ難くて、舌先で透の下唇をゆっくり舐める。

「っ! 五条くん、なにするの」
「んー、キスの続き?」
「キスなら、その、今したよ」

 腕の中で少しでも距離を取ろうとする透を宥めるように抱き直す。子猫が逃げ出そうとするかのような可愛らしい抵抗を抑え込み、鼻先が触れる距離で黒い瞳を覗き込む。

「今までのじゃなくて、もうちょっと中で繋がりたい」
「…どうやってするの?」

 頬を赤くして聞き返してきた透に思わず喉が鳴る。何も知らない彼女に教え込む最初の男であるということが、ぞくりと背中に刺激を送る。このままその小さな口に舌を捻じ込んでやりたい。だけど、だめだ、ここで焦ったらもう二度と部屋に来てくれないかもしれない。せっかく懐き始めたのだ、怖がらせては意味がない。我慢しないとまた昨日までのように距離を取られてしまうだろう。

「……透の口の中に、入れて欲しいんだけど」
「口の中……?」
「そ。舌でキスすんの。お前が嫌なら、その、やめるけど」

 何をするのか想像したのだろうか、さらに顔を赤くした透の薄い胸からどくどくと早くなった心音が伝わってくる。そもそも夜に自室でベッドで二人きりという状況なのだ。キスで我慢しようとしている俺はめちゃくちゃ偉いと思う。あざといと分かっていながら、透に甘えるように鼻先を合わせると、緊張からか涙目になった透の視線が揺れる。困り顔で唇から言葉を紡ごうとした透の様子に、これはだめだったか、と諦めることにした。

「あーー、別にいいよ。普通のキスでも十分だし」

 本当はもっといやらしいキスがしたいし、何なら肌だって触りたい。布団の中で触れ合った足先を絡めて、ショートパンツから伸びる白い脚を掌で思う存分撫でてみたい。だけど。透にはまだ早いことはよく分かっている。恋愛よりも前の、好意を持つということを避けていた彼女とこうして付き合えているだでも十分な進歩なのだ。少しづつ進めばいい。少しづつ、同じ熱量で求めてくれるようになれば、それでいいのだ。

 しかし、抱きしめていた腕を緩めて距離を取ろうとすると、透の指がTシャツの襟元をきゅっと掴んだ。珍しく透から触れてくれたことに驚きながら動きを止める。

「五条くんが、したい、なら。で、でもやめて、って言ったらやめてね」

 震えるような小さな声からは緊張がありありと伝わってきた。そんな風に言われると、止める自信がなくなるんだけどなと思う。赤い顔で怯えているくせに、受け入れようとする透が可愛くて、愛おしくて、感じたことのない衝動でどうにかなりそうだ。もちろん、と返しながら体温が一気に上がるのを感じる。透の滑らかな頬を撫でた手で後頭部を掴み、顔を寄せると長い睫毛がゆっくり降りた。



 そうやって秋の訪れとともに、透との付き合いが少しだけ先に進んだ。
しかしまるでその日を区切りとしたかのように、任務が立て続きに舞い込んだせいで透とはしばらくゆっくり会えなくなってしまった。一晩一緒の部屋で過ごしたあの時の透の様子を思い出しては、任務先で苛立ちを募らせていた。次に彼女とあのような時間を過ごせる目処が立たず、もっと先まで手を出しておけばよかった、ともったいなく思う。

「透いねーの?」

 帰宅した寮の談話室を覗けば、硝子が一人で雑誌をめくっていた。気怠気な雰囲気で首を横に振る彼女の隣に座ると嗅ぎ慣れない煙の匂いがする。

「夜蛾センと任務で昨日から出てるよ」
「あっそ……あいつ携帯持ってねーのマジで不便だわ」
「術師にカウントしたんだったら支給すると思ったんだけど……まだ上層部の呪物扱いは抜けてないみたいだね」
「オッサンもオッサンだよな。術師として扱わないなら誰に何言われても任務になんて連れ出したりしなきゃいいのに」
「透が行きたがってるんでしょ。いいことでもあるじゃん、あの子初めはここから一歩も出ないで生きてくつもりだったわけだし」
「それはそーだけど。だからってこんなに忙しくなるなんてきーてねぇ」

 硝子は肩を竦めて、明日には帰って来るって言ってたよと視線を紙面に落とす。いつもならばその隣で興味深そうに洋服やらメイクやらを眺めている透の姿を思い出し、大きく一つため息を吐く。

「使えるって思われたみたいだし、しばらくは透が一番忙しいかもね。メンタルやられなきゃいーけど」
「何でだよ? あいつの術式は傑くらいしか相性良くねーだろ。いるだけで呪霊寄ってくるなんて、下級術師と組ましたら収集つかねーじゃん」
「……聞いてない? 透の最近の任務って呪詛師相手っぽいよ」

 呪詛師。その存在を知らぬわけではない。ただ自分たちが戦うものは呪霊だと思い込んでいた。呪いを祓うのが呪術師だ。しかし、呪いを悪用する呪術の才を持った人間を捕らえ、裁き、戒めるのもまた呪術師だ。けれど透は、人が苦手なのだ。呪ってしまった過去の人々を恐れているような、そんな弱いやつだ。呪力を、術式を使いこなせるようになって欲しかったのは、そんなことを透にさせたかったわけじゃないのに。

「なんで俺には言わねーんだよ」

 
 一つ近づいたと思ったら、また一つ遠ざかる。
どうすれば、透をただそばに置いて置けるのだろうか。透からそうしたいと望んでくれるのだろう。いつもどこか寂し気な黒い瞳から、その憂いを祓ってやれるのは、いつになるのだろう。