紙の月

悪戯と本音

  ほんの小さな、紙で指先を切ったくらいの傷だった。
 それなのに膿んで熱を持った傷口から生まれる痛みはずっと消えず、じとりとし熱気の残る空気と一緒にいつまでもあの日を、夏の名残を感じさせた。


「おはよう。少し久しぶりだよね、透と任務で組むの」
「そうだね、夏油くん忙しいから…大丈夫?」
「このくらい平気だよ。透だってここのとこ任務続きだって聞いたよ」
 
 呪霊の持ち数が増え、元々高かった戦力がさらに上がったことで立て続けに任務が入っている夏油くんとは、任務先で現地集合することになっていた。一、二週間ほどまともに顔を合わせていない間に彼の肌はほんのりと健康的に日に焼けていた。五条くんの白皙とは対照的なその色に、またあの出来事を思い出して胸が痛いような、何かを壊したいような、沸沸とした感情が湧き出てきた。言葉には出来そうにないそれらのぐちゃぐちゃとした気持ちに無理やり蓋を閉めて、補助監督の下ろしてくれた帳の中に一歩踏み入れる。濃い呪いの気配に一気に気が引き締まり先ほどまでの雑念と痛みを忘れることができた。任務に行くことを嬉しく思ったことはない。けれど、神経を研ぎ澄まして集中することで、四六時中頭に浮かぶ五条くんについて考えなくてすむことにほんの少し助かっていた。


「悟となにかあった?」

 無事に任務を終えると、切れ長の涼やかな目を前に向けたまま、何でもないことのように夏油くんに尋ねられた。聡い彼には隠した気持ちもすぐにばれてしまうようだ。それとも私がそんなにわかりやすいのだろうか。高専へと帰宅する車内は茜色の夕日が差し込み、運転席の方から流れてくる控えめなラジオの音と相まって感傷的な気持ちにさせる。

「……一緒に出かけたら、女の人に声かけられてた」
「へぇ、透がいたのに?」
「少し離れてる間に。人懐っこくて、お洒落な服をきてて、明るい感じの人だった。それで……」

 詰まった空気を吐き出すように軽く喉を鳴らす。

「五条くんその人の連絡先を受け取ってた。電話して欲しいって言われてた」

 あの場面を思い出すと呼吸が浅くなって、胸がひどく苦しくなる。言葉を選びながら、目の前で行われた事実をもう一度言葉にすると急に口の中が苦くなったような気がした。夏油くんはしばらく黙った後に、くすりと口元で笑いながら車のシートにその大きな体を沈める。夏油くんに笑われてしまうとは思っていなかったので、やはり恋人といってもこういったことはよくあることなのだろうかと居心地の悪さを感じる。私が気にし過ぎているだけなのだろうか。けれど、あの日から五条くんとまともに会話ができないのだ。

「透、ちょっと悪戯しようか」
「へ?」

 人の悪い笑みを浮かべた夏油くんの言葉の意味を測りかねているうちに、車は見慣れた街並みを走っていた。


 夏油くんに言われるがまま、その日の夜はお風呂を済ますと硝子にも何も告げずに談話室へと向かった。任務をこなすことで少しずつ貯まってきたお金で、硝子と色違いで買った部屋着のパジャマはもこもことして肌触りが良い。先生が買い与えてくれていたものよりも丈の短いパンツは少し気になるが、寮で着る分には問題ないと思う。

「ごめん、おくれちゃった?」
「大丈夫、私が早く来ていただけだから」

 廊下にぼんやりと淡い光が漏れているドアを引くと、すでに夏油くんがくつろいでいた。彼もお風呂上がりなのだろう、少し湿った長い髪を下ろした夏油くんは同い年とは思えないくらい大人っぽい。五条くんよりも厚みのある身体に、ゆったりとした無地の部屋着をまとった姿からは言いようのない余裕のような、色気のようなものが溢れている。

「ねぇ…悪戯ってなに?」
「あぁ、それは君は気にしなくていいよ。私が仕掛けるだけだから、君はただこの場に居合わせただけってことで」

 にこりと笑った夏油くんに促されて、彼の斜め向かいに座る。この場所は本来4人で集まった時は五条くんが座る位置だ。いつもよりも近い距離で何か企んでいるらしい夏油くんを見上げる。滑らかで少し日に焼けた頬に笑みを浮かべ、内緒話をするように小さな声で顔を寄せる彼に合わせて、耳を近づける。

「人を好きになったとしても、ただ大事にしたいというだけじゃないよね。好きなのに憎くなったり、傷つけたくなったり、いろんな気持ちを抱くものだ。魅了の魔眼を持つ君ならその辺の感情はよく知っているだろう?」
「それは、そうだけど・・・」
「自分だけはそうじゃないと思ってた?」

  夏油くんの静かな声に導かれるように、もう一度あの場面を思い出す。
 私は一体なにを思ったのだろう。どうして急にあんな乱暴な気持ちになったのだろう。嫌な気持ちの本当のところは、なんだったのか。

「おい! 傑…テメェなにしてんだよ」

 大きな声とともに、扉が外れるんじゃないかというくらい強い音を立てて開いた。白い額に青筋を立てた五条くんの瞳は鋭く、射るように夏油くんを睨みつけている。

「やぁ、悟。たまたま透と会ったから少し話してただけだよ」

 私の耳元に寄せていた顔を離した夏油くんは、なんでもないように背もたれに体を預けると普段と変わらない口調で返した。その態度に大きな舌打で返事をした五条くんはずかずかと談話室に入ってくると、なりゆきを見守っていた私の腕を掴み、強い力で夏油くんの隣から引き離した。眉をきゅっと寄せた五条くんに一瞥されると、まるで何か悪いことをしたような気になってくる。助けを求めるように夏油くんに視線を向けるも、彼は「おやすみ」と大きな手を振るだけだった。

 満足に夏油くんへ別れの挨拶をすることもできないまま、五条くんに引きづられるようにして談話室を出る。五条くんは消灯時間の迫った寮内を大きな歩幅でずんずんと進んでいく。真っ白なTシャツの背を見上げながら、何か言わなきゃいけないと思うのに何をどう言えばいいんか分からなかった。掴まれた腕は振り解けそうになかったけれど、痛くはない。そこには彼のいつもの優しさがあるように思え、無理に振り解くことは躊躇われる。しかし、小走りで半歩後ろを進んでいるといつもの女子寮への分かれ道を過ぎてしまったことに気づく。

「五条くん、もう消灯だから帰らないと…」

 慌てて足に力を入れて立ち止まろうとするが、不機嫌を隠そうともしない顔で振り返った五条くんにひょいと抱き上げられてしまった。軽々と肩に乗せるようにして俵担ぎされると、急に高くなった視界にひゅうと喉が鳴る。無言で歩き続ける五条くんにこれ以上拒否しても通じないことは明らかだ。仕方がなく振り落とされないように、そろりと腕を首に回すと少しだけ歩くスピードが緩やかになった。


 連れてこられたのは、何度も足を踏み入れた五条くんの部屋だった。真っ暗な部屋のベッドに下ろされると、逃さないというように後ろから覆いかぶさってきた彼の重力に負けて二人でベッドに倒れ込む。ギシ、と軋むベッドの上で大きな身体に抱え込むように抱きしめられた。五条くんの醸し出すいつもと違う空気のせいで知っている部屋なのに、まるで知らない部屋のようだ。首筋に埋められた彼の頭を横目で見ながら、じっと言葉を待つ。しんとした静寂の中、大人しくされるがままの私の様子にそろりと少しだけ顔を上げた五条くんの青い瞳は、暗い部屋の中のわずかな明かりを拾って濡れた水面のように輝いていた。

「傑となにしてたんだよ」

 なじるような響きの言葉に、任務前に心の奥に押し込んだもやもやが漏れ出してきた。

 あのとき、あの女の人と何していたの。どうして連絡先を交換していたの。なんで五条くんは怒ってるの。

 どれを言葉にしていいのか分からず黙り込んでいると、耳元で舌打ちが聞こえた。大きな手のひらに顎を掴まれると、無理やり上を向かされて唇にキスされた。いつもしてくれるような、柔らかく、優しさを具現化したような触れ方ではない、食べられてしまいそうな暴力的な口づけに顔を背けようとすると、唇をぬるりと大きな舌で舐められる。

「口開けろ」
「…やだっ」

 唇をひき結んで、いつのまにか溢れでた涙の滲む視界で睨むと五条くんは大きなため息を吐いた。体を起こして私の上に馬乗りになると、なんでもないように首筋を片手で押さえつけられる。苦しくなる手前の力で圧迫された喉から不快感がこみ上げてくる。

「……あんな風に傑と顔寄せて、キスでもされた? あいつからやったの? それともなに、お前から誘った?」
「そんなことしてない! 夏油くんとはなにも」
「はっどうだか……。 せっかくのデートだったのにその後から口きかねーのお前だろ。なに? もう付き合うのに飽きたわけ? そんな理由で俺が離すと思ったの? しかもよりによって傑かよ」
「…飽きたのは五条くんでしょう」
「は?」
「こんな面倒な呪物の相手なんて、もう嫌なんでしょ。だから女の人の連絡先もらって…もうやだ。勝手に私の中に入ってきてなにもかもぐちゃぐちゃにして…自分勝手、馬鹿、っもう嫌い…」
「はぁ? 連絡先って俺がいつ他の女と……あ?…もしかしてあの日? アイスの?」

 剣呑な目つきから徐々に普段の五条くんの顔に戻っていく。思い出すように後頭部をガシガシと掻いた後に、五条くんはじっと真顔で私の涙の浮かぶ瞳を覗きこんできた。それはあの日、初めて出会ったときのようなもの珍しいものを観察する少年の真っ直ぐな瞳そのままだった。

「透嫉妬してたの?」

 その言葉は暗闇の中に溶けることなくぷかりと浮かぶようにして、二人の間にいつもどおりの秋の夜を取り戻した。私がなにか言う前に、五条くんは私を押しつぶすように大きな体でぎゅうぎゅうと抱きしめてきた。先ほどまでの息が詰まるような攻撃的な触れ方ではなく、頬を擦り付けるようにして力一杯抱きしめられると、彼の胸で口が押さえ込まれて呼吸ができなくなる。

「ははは、なんだ、そっか。そっか」

 一人で勝手に納得して、ころりと上機嫌になった五条くんの胸をとんとんと叩くとようやく腕が少し緩む。ぷは、と水面へ浮上したように息を吐くと、至近距離に青い瞳があった。凍えるような冷ややかな色は消え、穏やかな海のような青に見つめられると堪らない気持ちになる。こんな柔らかな眼差しを向けないで欲しい。愛されているような気がしてしまう。

「なぁ俺が他の女と連絡取るの嫌なの?」
「…たぶん、嫌なんだと思う」
「そっか、そっかー。誰とも連絡とってねーから、勘違いさせて悪かったな。あーゆうナンパは、適当にあしらえって傑に言われて受け取っただけで、あんな紙すぐ捨てたから」
「…ほんとに?」
「マジだって。つーか俺がわざわざ電話なんてするように見える?」
「…するかもしれない」
「透と付き合ってんのに、そんなことしないって」
 
 悪かったな、ともう一度頭を撫でられると胸の中に居座っていたもやもやとした気持ちがすぅと何処かへ消えていく。あんなに暗い気持ちにさせていた原因があっという間になくなったことに自分でも驚く。にこにこと上機嫌な五条くんに顔を見られるのが嫌で、もぞりとベッドの上で体を下にずらす。硬い胸板に額をつけて小さく息を吸うと、もう何度も嗅いだことのある彼の香りがした。

「透、もう一回キスしていい?」

 付き合ってからは何も言わずにキスをしてきたくせに、こんな時だけ彼はずるい。
私が嫌だと言わないと知っていて聞いている。そろりと胸元から顔をあげて、小さく頷けば五条くんは今日一番の柔らかな表情で、微笑んだ。

 唇に触れる熱を受け入れると、絡まった糸が解けるように答えが見つかった。きっと、そういうことなのだろう。私は彼を好きなのだろう。愛して、憎んで、愛おしく思っているのだ。