熱に浮かされる
眠る前に五条くんに言われた言葉を思い出して、無意識に唇に触れていた。あの日キスをしたことを忘れていたわけではない。むしろ忘れられなくてもやもやと考え込んでしまうので、三日間みっちり術式を使って呪霊を祓い続けていたくらいだ。
それでも一人になるとあの宝石のような透き通る青が脳裏に浮かんで来た。海の様な、空の様な、美しく強い色。どんな顔をして会えば良いんだろうかと思い悩んでいたが、任務帰りの三人を出迎えた時はいつも通りだった。夏油くんの部屋で会った時も、特になにもなかったしあのキスは夢だったのかもしれない。時間があると五条くんのことばかり考えていることに気づいて、ぎゅっと目を瞑って眠ろうとベッドの中でもぞもぞと体を動かす。眠ろうと頑張るだなんておかしいな、と滑稽に思いながら閉じた瞼の裏にも、やはりあの青が広がっているように感じた。
金曜日の放課後に五条くんは「明日。11時。校門前」と単語だけの待ち合わせを指定してきた。了承する前に男子寮に向かって歩いて行ってしまった後ろ姿を、ただ呆然と見送るしかなかった。当日、5分前に校門まで行くとすでに五条くんは、Tシャツに膝丈のハーフパンツという私服姿で待っていてくれた。私は先生が買ってきてくれた普段あまり着る機会のない白いワンピースにしたが、久しぶりのスカートに足元が落ち着かなかった。
「そういう服も持ってるんだ」
「先生が買ってくれたのがいくつかあるの」
「げ、オッサンの趣味かよ。まぁ…似合ってるけど」
不躾な視線が頭の上から爪先まで往復する間、ついつい今までの癖で下を向いてしまった。青い瞳になぞられた軌跡が熱を持つ様な心地がして、心臓がと脈打つ音が外まで聞こえてしまいそうだ。
「どっか行きたいとこある?」
校門を超え久しぶりの外界をしばらく歩くと、五条くんに尋ねられた。一つだけ思い当たる場所がある。外に出ることができたら一度行ってみたいと思っていたのでそのまま「コンビニ」と答えると五条くんはしばらく固まってしまった。
「…あのさ、なんでコンビニ?」
「みんなが、よくお菓子買ってきてくれるからどんなものがあるのか気になってて…」
「他には? お前ずっと…高専に来る前もほとんど家から出てねーんだろ?」
私の答えはお気に召さなかったのか、五条くんは顔を顰めた。
確かに高専に来る前も、自由などほとんどなかった。中学は途中で通えなくなったし、小学校も休みがちだった。私は母親に家に居ることを望まれていた。可愛いから誰にも見せたくないの、とうっとりと微笑む母親を訝しみながらも、外に出れば気味の悪い呪霊に出会うので言うことを聞いていた。だからきっとこの世界には私の知らないものがたくさんあるのだろうと思う。でもそんな場所を急には思い描けなかったので、やっぱり行ってみたい場所はコンビニである。
「…コンビニ行くのは嫌?」
「いやじゃねーけど…もうちょっとないかなー…もうちょいなんかデートっぽいやつさぁ」
「でーとっぽいやつ?」
「…お前に聞いたのが間違いだな。もういい、コンビニ行って甘いもん買って傑と硝子と食べようぜ」
割り切ったのかコンビニに行くことを了解してくれたらしい五条くんから、セブン、ファミマ、ローソン、全部行くぞと言われて大きく頷くと、今日初めて笑ってくれた。
各店舗のスイーツコーナーで目に留まったものをぽいぽいとカゴに入れていく五条くんは、これがうまい、これはイマイチ、と私に説明してくれた。気になるのは全部買うというのが今日の彼のルールの様で、私が手に取ったものは問答無用でカゴの中に入れられてしまった。俺が誘ったからと言って、お会計はすべて五条くんが出してくれた。呪術師のお金事情は分からないが、五条くんのお財布には見たことないくらいたくさんお札が入っていたので、申し訳ないがお言葉に甘えることにした。
いかに食べ盛りの高校生といえど、この量はたとえ四人でも完食できないのではないだろうかという量を購入してしまった。五条くんは両手に四つのビニール袋を下げながらも、足取りも軽く寮への帰り道を歩いていく。一つだけ頼み込んで持たせてもらったビニール袋を左手に持ち、五条くんの隣を同じペースで歩いているとすれ違う人が毎度こちらを見ていることに気がついた。
「新商品出てたなー、硝子も傑もどうせ部屋にいるだろうし呼び出すか」
「うん」
五条くんは少し背を屈めてこちらに話しかけてくれるものの、身長差が大きいので見上げる様に首を伸ばして会話することになる。青い目にかかる白い髪とお揃いのふわふわしたまつ毛が瞬く。見慣れているはずなのに、五条くんがとても整った顔をしていることを改めて思い知る。すれ違う女の人が送る視線に彼は気づいているだろうけど、そちらには一切目を向けない。あしらい方をよく知っているのだなと、意外に思う。もっと軽い人かと思っていたが、そうでもないようだ。
「サングラスかキャップかつけさせるべきだったな」
「え?」
「お前にだよ、さっきから男の視線がうざい」
「…みんな五条くんを見てるよ?」
「…馬鹿。外出る時はなんか対策しねーとな…お前抜けてるし、世間知らずだし」
はぁ、とわざとらしいく大きなため息を吐く五条くんの言葉にむっとして彼を見上げると鼻で笑われた。世間知らずというのは私じゃなくて五条くんがよく夏油くんに言われているセリフのはずだ。それでも言い返すには心当たりが多いので口を閉ざすことにした。
緩やかな登り坂の先に、高専の校門が見えてきた。この景色を見るのは二度目だ。もう一度外からこの建物を見れるとは思っていなかった。古めかしい校舎を感慨深く眺めながら、こうしてここに帰ってくるということがこれからの日常になるのだと改めて感じた。
「あっちー」
硝子と夏油くんにメールを送り、一先ず休日のため人気のない食堂の冷蔵庫に買ってきたお菓子を収納した。五条くんも私も初夏らしい薄着ではあったが、二人の肌にはうっすらと汗が浮かんでいた。冷水をグラスに注いで五条くんに差し出すと、喉を鳴らして飲み込んでいく。それでも暑かったのか業務用の大きな冷蔵庫の扉を半分開けて涼む五条くんの隣で、同じ様にグラスで水を飲むと体の内側からひんやりとして気持ちが良かった。
電気の付いていない食堂は、昼間とはいえ少し薄暗い。開けっぱなしにした冷蔵庫から漏れているひんやりした空気が脹脛に触れた。
「…透」
ふいに五条くんの体が近づいてきて一歩足を引くと、ぱたんと音を立てて閉まった冷蔵庫の扉に背中が当たった。顔の横に手を付いた五条くんの腕の中に閉じ込められるような形になり、この前のキスのことを否が応でも思い出してしまった。
「なぁ、もっかいキスして良い?」
思いがけない問いかけに顔を上げられなくなり、目の前の白いTシャツを見ながら小さく首を振る。緊張から口の中が乾いて言葉がうまく出てこなくなってしまった。体が先ほどまでと比べ物にならないくらい熱い。首筋をそっと撫でられて、慌ててもう一度首を振る。
「だ、だめ」
大きな手が耳を擽りながら顎を持ち上げる。その手に逆らえなくてつい五条くんを見上げてしまうと、美しい青い瞳がじっとこちらを見ていた。だめと言ったのに、五条くんは顔を寄せ柔らかく唇を奪っていく。恥ずかしくてたまらなくなり目を閉じていると、二度三度同じ様に唇に軽く触れるだけのキスをされた。
「だめって、言った」
五条くんの胸を軽く押すと、顔を掴んでいる両手はそのままに少し体を離してくれた。見上げる姿勢のまま、唇を内側にしまうように口を閉ざすと五条くんは綺麗な顔に不機嫌そうな表情を浮かべた。
「…なんでダメなんだよ」
「えっ…、あ、付き合ってない人とはキスしない」
理由を求められると思っていなかったので、それらしい答えを探す。付き合っていない人とキスをするのはよくないことだと、硝子に借りた少女漫画に書いてあった。五条くんと私は付き合っていない。同い年の、少し意地悪で、時々優しい、男の子。それだけだ。
「じゃあ付き合えばいいの?」
「へ?」
「付き合ったらまたしてもいいんだろ」
五条くんはしれっとした顔でもう一度顔を寄せてくる。両手を伸ばしてその唇がこれ以上近づかない様押さえると、指先にぬるりとした感触がした。
「ひゃっ」
舐められている、と分かると同時に赤い舌が指の隙間を撫でていった。なにかとてつもなくいやらしいことをされているような気する。五条くんはこちらを見たまま、指先に歯を立てた。硬くてつるりとした白い歯が、指の皮膚を軽く噛んで離れていく。スローモーションのように感じるその光景から目が離せなくて、どくどくと心臓だけが大きな音を立てている。もう一度五条くんの顔が近づいてくる。
「透さー、俺がいない間に術式ものにしたのはいいけど、ちゃんと考えたの? 俺があの時どういう意味で言ったとか、キスした意味とか、分かってる? 今日だってさ、俺じゃなくても誘われたら出かけるわけ?」
首を傾げた五条くんは相変わらず不機嫌な顔で、おでこが触れそうなくらい詰め寄ってくる。矢継ぎ早の質問に答えることも出来ずに、ただただその冷たい瞳を見上げていると、ぎゅうと体を抱きしめられた。背の高い五条くんの体で全身をすっぽりと包み込まれると、心臓が痛いくらいに強く鼓動を打つ。堪らずに五条くんと名を呼ぶと少しだけ拘束が緩くなった。
「は、離れよう、五条くん」
「やだ」
「えっ」
「次いつ出来るかわかんねーし」
次なんてない、と思いながら抜け出そうと体を捻ると、逃さないとばかりにさらに強く抱きしめられてしまった。五条くんのTシャツから香る石鹸の匂いが私にも移るころに遠くで夏油くんと硝子の声がぼんやり聞こえてきた。
「みんなで甘いの食べるんでしょう、ね、もう二人とも来ちゃう…」
こんな現場を見られたら一体何を言われるか分からなくて焦り出す私に、五条くんは渋々抱きしめる腕を緩めてくれた。一人分のスペースを空けて離れられたことにほっと息を吐くとちょうど食堂の入り口に夏油くんと硝子が現れた。
「何買って来たんだい?」
「コンビニ各社の新作」
「あ、いちごのやつ買った?」
「おー」
五条くんはさっきまでのことなんて何もなかったように、いつも通り飄々と夏油くんに声をかけている。
「透どうだった? …あれ、聞いてる?」
「こいつ暑かったからちょっとバテてんの」
まだ切り替えのできていない私を訝しむ硝子に適当な返事をした五条くんは、冷蔵庫の前に立ち竦む私の腕を引くと『二人には内緒なんだろ』と小さく耳元で囁く。隠したいけれど、隠すと言うことはやましいことのようで、どちらにしてもよくないことだ。それでも悩んだ末に頷いた私に、五条くんはいたずらが成功した子どもの様ににやりと笑った。
彼は、やっぱり少し意地悪だと思う。