紙の月

羽化の手解き

  呪物として登録されている月島透が呪いを祓えるようになったことで、今まで興味を示さなかった上層部からも透について聞かれることが増えた。本当に外に出して大丈夫なのか、あの目は術師にも効くものなのか、と。彼女に与えられる自由と引き換えに、その体に術師への術式行使を禁ずる封印具を付けさすことになってしまった。透は夏油に開けてもらったと両耳を夜蛾に見せにきた。少し赤くなっているが、透は外出できる様になることが楽しみだと笑っていた。彼女は制約をつけささずとも、術師にその目を使うことなどなかっただろう。魅了という術式の性質とは正反対の大人しく控えめな性格は出会った頃から変わらない。
 ただ一つ問題が起きた。魅了の魔眼を携行したいという術師からの申し入れが何件か来たのだ。人形めいた整った容姿に物憂げな眼差しの美少女を合法的に囲えると勘違いしているのだろうか。目を通さずに却下していくが、このままでは断ることのできない人間から依頼が来るかもしれない。それを考慮した結果、夜蛾は今年入学した夏油傑と月島透を任務で組ませることにした。
 一年の五条悟と夏油傑はその強さは折り紙付きだが、言わずもがな問題児である。器物損壊、補助監督への暴言、任務内容の拡大解釈に加えて報告書の改竄と、夜蛾にとっては頭痛の種だ。出来るだけ別の人間と組ませた方が被害が減るだろう。五条と夏油を組ませて任務に行かせるよりは、透と夏油を組ませる方が遥かに良いはずだ。それに夏油と透の術式はかなり相性がいい。魔眼で呪いを集め、呪霊操術でそれらを取り込むことで透は実戦経験が積め、夏油は手持ちの呪霊を増やすことになる。大義名分のしっかりとしたこの二人以上の組み合わせはないだろう。


「というわけだ。傑、質問はあるか」
「はい! なんで俺じゃないわけ!?」
「…悟には聞いていない」

 担任の提案になるほどな、と思いながら傑は夜蛾の隣で成り行きを見守っている透に目を向ける。目にかかるほど長い前髪の隙間から覗く黒い瞳が術式を使うところをまだ見たことはない。だがずっと興味はあった。透が呪物だと分かった時、彼女の持つ魔眼というものの性質は使い方次第で自身の呪霊操術と相性がいいだろうとすぐに気づいていた。一気に手駒を増やせるだろうな、と便利な道具の様に感じたが流石にそれを口にして良いとは思わないので心の中に留めていた。

「透は等級はどのあたりになるんです?」
「正式には術師にはまだなれていない。転入が認められないようで、次の四月までは透は呪物としてしか登録できない。まぁそうだな…現時点では2級といったところだろう」
「分かりました。まぁやってみないとなんとも言えませんね。透、明日からよろしくね」

 透は夜蛾をちらりと見た後、傑に向かって律儀にぺこりと頭を下げた。

「調子こいて怪我すんなよ」

 むっつりと不機嫌なオーラを放つ悟は、そう言って透の頭を乱暴に撫でると教室を出て行ってしまった。



「透、終わったよ」
「はやいね、夏油くん」
「そういう君も祓い終わってるじゃないか」

 透との任務は初回のお試しの後、続々と舞い込んだ。とにかく数が多いもの、どこにいるのか掴めていないもの、そんな案件が多い。
 透は食堂からの支給品だというコックコートに黒いパンツという今までの格好から変わらない。日本刀に近い形の呪具を斜めに背負うようになったことだけが新しい変化だった。

「目はどう? 今日はちゃんと見えてる?」
「ちょっとまだ、ぼやけてるけど大丈夫」
「無理をしてはいけない。帳上げてもらうように連絡したから迎えが来るまで動かなくていいよ」

 魅了の魔眼と呼ばれる彼女の術式の発動には手印や面倒な詠唱は必要ない。スイッチの様に彼女自身が切り替えるだけらしい。血の様に赤くなった瞳を向けるその視界に映るあらゆるものに彼女の術式は発動する。
 見るということは、彼女自身も見られるということだ。彼女の視線に触れたものは皆、彼女を見つめる。透がそこにいるだけで、どうしてもそちらが気になってしまうようだった。また長時間目を見つめると、対象は攻撃してくる気配がなくなることが多かった。蠱惑的な微笑みを口元に浮かべ、戦意を喪失した呪霊を呪具で一突きする透はぞっとするほど美しかった。
 補助監督や窓の人員がそんな透の容姿や戦闘スタイルを垣間見て、『魔女』と噂するようになった。魅了の魔眼で見られたものは皆彼女の意のままに操れるだとか、あの子は笑いながら呪いを祓う恐ろしい人間だとか、見たものを石化させるだなんてどこかの神話の化け物のように言われることもある。透がそれらの言葉に困った様に眉を下げるだけで、何も反論しないことをいいことに彼女はより一層遠巻きにされるようになった。そういう人間の世話を焼いてしまうのは自分の性なのだろう。勿論、大人しく聞き分けのいい透は悟に比べれば随分可愛いものである。

「夏油くん、この呪霊ちょっと可愛いね」

 呪霊は奇怪な見た目のものが大半である。透への警護として一体だけ彼女のそばに残しておいた呪霊はふよふよと二人の周りを回遊する。魚とも虫ともとれるフォルムはまだマシな方だろうか。

「可愛いかな…? 女の子の言う可愛いは信用しない様にしてるからなぁ」
「そうなの?」
「まぁその、いろいろ経験的にね」
「ふうん。でも夏油くんによく話しかけに来る補助監督の女の人たちみんな可愛いよ」
「…そういうことだよ、透」

 透は自分のルックスに興味がないというか、理解していないのだろうか。陶器の様な白い肌に大きな瞳を少し陰らせ、淡い微笑みを極稀に見せてくれる謎めいた美少女に誰もが目を奪われているというのに。そんな彼女より「可愛い」人間などそう簡単にいない。芸能界などにいけばそれこそ様々な美女が揃っているだろうが、それでも透は異彩を放つだろう。きょとんとした顔で傑を見上げる透は、分からないというように首を僅かに傾げた。

「まぁ君に悪意がないのは分かってるからいいよ」

 傑はまだ彼女の差し出した手に甘えるように体を寄せる呪霊を回収しようとして、ふと気づく。透の魔眼は、呪霊操術で自分が調伏した呪霊にも効果があるんじゃないだろうか。透がその気になれば、自分の呪霊の支配権を一時的であれ乗っ取られる可能性が脳裏を掠める。

「透、この呪霊にその目を使った?」
「ううん。見てない」

 透はどんなに数が多くても自分が「見た」ものかどうかの区別がつくと言う。術式の話を素直に話す彼女のことをだ、きっとこの回答も真実だろう。

「もし見たら、君はこいつに魅了の力を使えるの?」

 透は大きな目をはっと見張って、すぐに意図に気がついたのだろう考え込む様に黙ってしまった。やったことがないから分からない、というのが答えだろうが可能性はある。傑は透が自分にとって便利な道具だと思っていたが、諸刃の剣であると知るやいなやこうして問い詰めている自分の保身的で狡猾な思考に嫌気がさした。

「ごめん、答えなくていい」
「でも、私の術式はなんでも夏油くんに知ってもらった方がいいよ」
「…透は私の術式のこと全ては知らないだろう。フェアじゃないよ、透の方だけ全部開示させて自分は手札を見せないなんて」
「けど…夏油くんは特級術師だし、私は呪物だし、全然違う。フェアである必要なんてないと思う」

 透は自分を抱きしめる様に両腕をぎゅっと体に引き寄せる。小柄な体躯がより一層小さく見えた。彼女はきっと自分自身が何よりも恐ろしいのだろう。

「私と君に差なんてないよ。同い年の、同じ学校に通う、友人だろう」

 透は長い睫毛を瞬き、じっと傑を見つめていた。そんなに熱心に見られると恥ずかしいなと意味もなく首の後ろに手を回していた。 

「ありがとう。お友達だと思ってくれてたんだ」
「私は随分な冷血漢だと思われているんだね」
「そういうつもりじゃないよ、ただ…うん。嬉しい」

 不意打ちで柔らかな微笑みを向けられ、胸がときめいた。美少女の笑顔の威力はすごいものだ。悟が彼女に執着していることは出会ってすぐに気づいた。だからこそ自分はあくまでも悟の友人としてしか透に対して接してこなかった。悟の好きな子と、悟の友人、という五条悟なくしては成り立たない関係だったが、いつの間にかその隔たりはなくなった様に感じる。

「じゃあ友人としてもう一つアドバイスしよう。透は何でも正直に答えてくれるけれど、答えなくていいことは黙っておきな。沈黙は金だ。相手が勝手な想像で結論を出してくれる場合もあるからね」
「…夏油くんは、そうやって私たちにもなにか隠していることがあるの?」
「さぁ、どうだろうね。自分の身は自分しか守れないから、保険はたくさん掛けておくべきじゃないかな」

 透の質問をやんわりとかわし、にこりと笑って見せる。難しそうな顔で眉を顰めた透は戸惑いながらも頷いた。素直な彼女の反応にくすくすと笑ってしまうと、珍しく悟に向けられるのと同じ困った様なじとりとした目で見られてしまった。

「五条くんと夏油くんが仲が良い訳が分かった気がする…」


 視界の端に見慣れたセダンが映る。後部座席に並んで座ると、一気に疲れを感じて二人でもたれ合いながら帰るまでぐっすりと眠ってしまった。左肩に感じる重さは随分と気安いものになっていた。