貴方のための銀の牙

哀しみを問うた

それは真夜中のことだった。
ベッドで眠ることもできずに、一人じっと暗闇を見つめていると、パキンと一番外側に貼った結界の中に誰かが踏み込んだ気配を察知した。
結界を踏み抜いたままそれ以上近くでもなく、じっとそこに居座る魔術師の気配は自分のよく知るものだった。


「透、やっと見つけたわ」

マンションの手前にある人気のない公園の入り口で背筋を伸ばして佇む人影に、透はついにこの時が来たのだと、改めて自分が逃げ続けた相手と相対する。自身によく似た容姿の姉は、かつてあの家で顔を合わせた時と同じ昏い眼をしている。

「姉さん」
「随分とうまく隠れたものね。あの結界、どうやって張るのか教えてくれる?やっぱり貴女の持つ本にしか載ってない魔術が多すぎるわ」

透の持つ魔導書と同じような本を片手に、彼女の足元から円形の術式が形作られていく様子にこちらも同じように魔導書を開く。

「透が持つその月島が代々受け継いできた原典と、私が持つこの写本は何が違うのかしら?」


本来、月島の写本師が写しとった魔導書は、月島の血筋のものであれば扱える。ただ絶対的な魔力量と回路の少なさ故に、月島の魔術師たちは魔術協会からも「魔術師」と認められなかった。それ故に、ついた名前が「写本師」なのだ。協会御用達の魔導書の保存・複製者として安全を保証する代わりに、月島の家は長年に渡り協会に絶対服従を誓わされてきたのだ。
その過程で何があったのか、透たち姉妹を作り出した両親は多くを語らなかった。分かっていたことは両親が協会を憎み、復讐するために自身の子供達を科学者の力をもって作ったということだけだ。
そして月島の叡智の結晶である、魔導書の原典を受け継ぐ子供として選ばれたのが透だった。

両親は透を中心に古今東西のあらゆる魔術を駆使して、協会への復讐を計画していた。ただ、それは計画で終わってしまった。透の持つ原典を求めての姉妹間の争いが全てを焼き払ったのだ。
先にあの家から逃げ出した透は随分と後で知ったことだが、両親も家も多くの他の姉たちも、今目の前にいる姉が全部燃やしてしまったのだ。


「貴女の本は、私のものになるはずだったのよ」
「ごめんなさい、姉さん。この本は渡せない」

苛立った姉さんの「リリース」という呪文と共に、炎の矢が次々に飛んでくる。五大元素の中でも彼女の炎の魔術は別格だ。ちょっとやそっとでは消えない、まさに聖書の「地獄の門」だ。あっという間に周りを燃え盛る炎で囲まれてしまう。

「渡せないじゃないわ、透。私がもらうのよ」

奇しくもギルガメッシュの語った聖杯の泥も、地獄の門と喩えられていた。
英霊の彼を止めたいのだ、身内の魔術師に手こずっているようではそれこそ話にならない。
今日は誰も助けてくれない、逃げることもできない、一人で戦って勝つしかない。勝って、ギルガメッシュを止めに行かないと。
透は戦いたくない、傷つけたくないと叫ぶ心を閉じ込めて、覚悟を決める。

「この本の使い方は、そうやって貯めた魔術を無詠唱で即座に発動するのが目的じゃないんだよ」
「どんな魔術でも写本したものならば貯蔵して発動できるじゃない。それが一番の強みでしょう?」

轟轟と燃え盛る炎の柱が四方から立ち上り、肌に触れる空気すら熱い。
透が本を開いたまま詠唱を始めると、彼女を取り囲んでいた炎はその形を維持できなくなって砂のように崩れていく。忌々しいと言いたげに睨み付ける姉の目をじっと見つめ返し、透は自身の手にある魔導書の背表紙を撫でる。

「この本に記された何百、何千、何万冊の魔導書を受け継ぐということは、あらゆる時代の魔術師の叡智を受け継ぐこと。だから、この本を正式に継いだ時からどんな魔術もその術式を演算し、解明できる。どんな魔術でも発動を妨害し無力化できるということ、それがこの本の使い方」

透の向かいに立つ姉から、焼き切れそうな憎悪に満ちた視線が飛んでくる。自分の知らないことをひけらかし、その身が特別だと、正当な継承者であることを見せつけるような透の姿に苛立った彼女はページを捲り間髪を入れずに轟音を立てる炎を放つ。

「いつ知ったの、そんなものだって誰も、あの家でもあいつらも言ってなかったわよ」
「最近、治癒魔術をかけてもらったの」

姉の魔術の発動と同時に解析を行い、魔術自体を打ち消す。透の体に届く前にその威力を失って消失する炎は、千切れたように深夜の空に闇に消えていく。

「…治癒魔術?」
「そう、でも姉さんたちに掛けられた呪いまでは解術できなかった。それから治癒魔術を調べているうちに、解く魔術を探すんじゃなくて、呪いを根本から解明してしまえば打ち消せるんじゃないかって気付いたの」

もちろんとてもじゃないが連続使用には耐えられないし、自分の頭がショートしそうな演算の数々に何度も意識を失いかけた。だがそれで呪いを消すことができたのだ。

「誰かを傷つけるためにこの本を使いたかったんじゃないんだよ……きっとはじめに写本した私たちの始祖は、何かを守るためにこの本を作り始めたんだよ。魔術師になれないことを、写本師であることを疎んだ人ではなかったはず」

むしろ透や姉のように、潤沢な魔力を持った魔術師の手にこの本が渡ることを望んでいなかったのではないか。

「…なにを勝手なことばかり!知らないわよなんでこんな魔導書作ったのなんかっ……争いもせずにあなたが手に入れたその特権を、どれだけ私が、私たちが欲しかったと思っているの?私は、その本を手に入れるためだけに生まれたんだから!」
「それが間違いだって、どうして分かってくれないの!そんなことのためだけに生まれたわけない!もっと、もっと他に手に入る幸せがこの世界には無数にあるのに」
「それじゃなきゃ意味がないのよ!」

炎の光と共に黒煙が立ち上る。ガンドのように炎を撃つ姉の魔術にもう一度解析をかけようとすると、どくりと心臓が不自然に大きく脈を打つ。息の詰まる胸の痛みにめまいがした。なんとか飛んでくる攻撃の照準をずらし、倒れ込むように膝を着く。黒煙で遮られた視界から、目の前できらりと鈍い銀色の刃が街頭の光を反射して輝いた。

人の身でこの膨大な知識を有し、演算と魔術の発動を行うことが果てしなく自身の命を削っていると気づくのにの時間はかからなかった。長期戦には向かないと知っていたし、結局は止めを刺すという覚悟を私が持てないのだ。

燃えるような痛みがお腹に広がる。体に突き刺さった銀色のナイフを握った姉の骨張った白い手は、小刻みに震えていた。

「…もう嫌なの、手に入らないものを見るのは、嫌なの」

どくどくと流れ出した生暖かい血が魔導書にぼとりと赤い染みをつける。痛みで意識が遠のいていく間際に透が思い出すのは、いつかのギルガメッシュの言葉だった。


『魔術が使えずとも人を殺す手段はいくらでもあると理解しているか?』


そうだった、魔術なんて面倒なことしなくたってもっと簡単に、なんでも出来るのだった。
またぬるい、あまい、間抜け、とぐちぐちと言われてしまう。
あぁ、でももう、会えないかもしれないな。