貴方のための銀の牙

崩れゆく君の指先

透が目を覚ますと、とうに昼をすぎていた。

学校をさぼってしまったことが一番最初に頭を過ったが、まぁ一日くらい良いか、と倦怠感に体を動かす気にもならず目だけ開いて部屋の中を見回す。
魔力がぐつぐつと沸騰したお湯のように波立って安定しないうえ、魔術回路もところどころ巡りが良すぎて変だ。乗り物酔いをしたように気持ち悪いなと、もう一度目を閉じた。


体の奥に招いた男の温もりを思い出して、愛着と寂しさが同時に押し寄せる。
これが最初で最後だろう。
人ではなく、人の心を理解していながらも決して同じようには感じてくれない英霊は、気まぐれに自身の持ち物を可愛がっただけなのだ。戦闘に使用した魔力を補うことが第一の目的で、それに付随して女の体を王の本質が求めただけの事。

愛おしいから、大事だから。
そういう綺麗な感情や動機で体を繋げたわけではない。
いくらそう言い聞かせても、愛おしく思う感情は消えてくれそうになかった。



日が沈む頃には幾分体が楽になり、空腹を訴える体に従い夕飯の買い出しを終えた帰り道に、よお、と背後から掛けられた男の声に今回は驚かなかった。
魔力の感知がいつもより敏感になっているからだろうか、商店街を抜けたあたりから感じていた魔力の気配に振り返ると長髪のランサーが前回よりも幾分気安げに立っていた。

「嬢ちゃんこの前とは随分雰囲気が違うじゃねぇか」

ランサーの言葉に透は首をひねる。前回彼と出会った時からそんなに変わってないはずだと自分の身なりに目を向ける。

「服じゃねぇよ馬鹿」
「…馬鹿じゃないです」

白い目でこちらを見下ろす槍使いの英霊は、コキっと首を鳴らして槍を肩に担ぎ直す。全体に紋様の入った赤い槍は、神々しい霊気を帯びており、嫌でもこの槍が首筋を掠めた日が思いだされた。

「お前よーあの金髪とは離れた方がいいんじゃねえか?あいつろくでもないぜ?」
「ギルガメッシュは…確かに、ろくでもないかもしれない」
「…へぇ真名を知っていたのか」
「最近ですけど…。何かあなたのマスターから言われたのですか?」
「俺のマスターは関係ねぇよ。マスターもあいつと変わらずいけすかねぇ男だしよ…俺も肝の座った勝気な女がマスターだったらもうちっとやる気も出たことだろうよ」

英霊はマスターを選べないのだろうかと頭の隅の聖杯戦争の知識をかき集めるも、いまいちよく分からない。

「あなたのマスターは知りませんけど……王様はろくでもなくても、そんなに嫌な人ではないです」

ギルガメッシュは良い人ではない、それは分かっている。けれど彼の言葉は耳を傾けていたくなる。真っ暗な闇の中で唯一光る、明星のようでどうしたって透は嫌いにはなれないのだ。

「嬢ちゃんが選んだっつーことか。いやあいつのことだ、お前が選んだように思い込ませているだけだろうな」

ランサーが透を見る目にはほんの少しの哀れみが混じっていたが、その目を向けられた透はそのことに気がついていなかった。

「今の魔力は嬢ちゃんの本来持ってたもんじゃない。神なんて面倒なもんと関わっちまうからそうなるんだぞ」
「半分だけ神様なんだっけ、王様…。ランサーはこの後どうなると思いますか?マスターでもない、契約もしていない魔術師の体にこんなにたくさん神様の力が入ってるの」
「どうなるもこうなるも、もうすでに嬢ちゃんは人の子の領分じゃねえだろ」

ランサーの言葉を聞きながら、両手の指をゆっくり曲げ伸ばしした透は苦笑いを浮かべる。

「そっか…困ったな。でも大丈夫、なんとかします」
「なんとかなんのかよ…」
「ありがとう、心配してくれて」
「やっぱ馬鹿だろお前」

盛大に顔を顰めて悪態を吐くランサーの方に透が一歩踏み出す。色素の薄い瞳が滲むように弧を描いて、ランサーの赤い瞳を見上げる。

「あなたは良い人だね、ランサー」
「嬢ちゃんは魔術師には向いてねーな」



透はランサーと別れて誰もいない家に向かって歩き始める。
昨夜、ギルガメッシュは次の余興があるのだと楽しそうに笑っていた。ベッドに横たわり、自分が付けた鬱血跡を指で辿っていた男の言葉が蘇る。聖杯を欲しがる理由、ギルガメッシュの望む世界の話は、納得も理解も出来たものではなかった。


「お前には特別に教えてやろう」

高慢な彼らしい言葉で始まった、聖杯戦争を巡る話は私の知るものではなかった。
万能の願望機、それは兵器だという。

「あれは地獄の門、一度開けば数十億の呪いが溢れ出す。人間を呪い殺すことに特化した人類悪の一つ、それを使ってこの度し難い世界を王自ら作り直してやろう」
「作り直すって、それって人類を滅ぼすんですか?でも、王様はこの世の全てを背負うって…」
「そうだ、人類は我の背負うべき民である。しかし我の民はな、こんな凡百の雑種共を指すのではない。地獄の中ですら生きる者こそ支配されるべき価値がある……そうさなぁ、お前であれば生き残ることもたやすかろう。どうだ、聖杯の死の炎がこの世界を覆う様を隣で見せてやろうか」

サーヴァントを生贄に発動する魔術など、想像するだけでその威力は凄まじい。
地獄の門というのは例えでもなんでもなく、事実なのだ。この街が、国が、世界が、炎に飲まれる様子を王様と二人で生き残って見たって何にもならない。

「私は、見たくない……です。私、王様のことがすきです。世界を破滅させようとしているのに、どうしてでしょうか。でも、同じように私はこの世界を愛しています、朝の澄んだ空気や、雨の匂い、見知らぬ人が紡いでいく縁が重なって出来たこの世界が、美しくて大好きなんです」
「王と世界を天秤にかけるか、小間使い風情が」
「ここで、王様の作る世界ならなんでもいいっていえるような、そんな盲目的にはなれません」
「愚かよなぁ、透。お前は誰の持ち物だ?」

怒ったのだろうか、片手で顔を掴んだギルガメッシュの蛇のような鋭い双眼に睨まれた透は、その手の甲に両手をそっと沿わし、目線を逸さずに答えた。

「あなたです、王様」

その言葉を聞くとギルガメッシュは、透の額に右手を載せると何かの魔術をかけたようだ。
スイッチが切れるように意識を失った後は、彼がどこに行ったのか何も分からない。
お前では止められないと、甘く見られたのだろうか。隣で世界が終わっていく様を見る相手は、あの意地悪なシンジが勤めるのだろうか。

透に分かることは、ギルガメッシュの望む世界を受け入れることはできないということだけだった。


二人で生き残って幸せに暮らしました、なんて結末はありえない。
地獄の中でも生きていけるのかもしれない、でも出来るなら天国みたいな幸せをありったけ掴んで生きていきたい。それなら二人きりでもいいと言えただろう。

透は残された時間で、自分に出来ることはあるだろうかと考える。
この世界を壊さないようにするために、そしてたった一人の王のために。