花園に住まう君

落とし物

 まだ完全に目覚めきっていない頭で乗り込んだバスは、休日の早朝ということもあり随分と空いていた。欠伸を噛み締めながら最後列の広い座席に双子の片割れと共に腰を下ろすと、運転手の演技がかった声と共に心地よい揺れがやってきた。

「……ねむ」
「合同練習やったらウチでやったらええのになぁ」

 強豪校である稲荷崎の体育館は設備も整っているし、コートも多い。普段ならば他校を招いて行うことが多いが、今日は少し離れた市立の体育館で合同練習が実施される。強い相手と戦えることは純粋に楽しみだが、早朝からの移動が億劫であることは否めない。
 治もそれは同じようで、まだ開ききっていない眼でぼんやりと車内を見ていた。いつもどこか怠そうに見られるお揃いの垂れ目が、不意に少し見開かれた。

「なぁツム、あれ見てみぃ」

 バスのドアが開くプシュ、という空気の漏れる音が響く中、治の視線の先へと目を向ける。
 そこには県内でも有名な女子校の制服を着た二人の女子高生がいた。紺色のプリーツスカートはきっちり膝丈、白い丸襟のカッターシャツの首元に揺れる細い臙脂のリボン、そして胸元に校章の入ったスカート同じ色のブレザー。他とは少し違う可愛らしい制服にちょっとした憧れを抱く女子も多いと聞く、芦谷女学院の生徒たちだ。バス停の先頭にいた背の高いすらりとした少女がステップを軽やかに登って前方の2人がけの座席に座った。その彼女を追うように同じ制服に身を包んだもう一人の少女がバスに乗り込んでくる様子をじっと盗み見ていると、さらさらと揺れる黒髪の隙間から丸い瞳と一瞬目が合う。どきりとしてしまったことは顔には出ていないはずだが、どうだろうか。

「名前、こっち」
 
 先に乗り込んでた背の高い方の女子が声をかけたことで、こちらを向いた視線はすぐに彼女の元へと逸らされてしまった。名前。彼女の名前で間違い無いだろう。ええ名前、と何度か口の中で唱える。

「芦女やん。やっぱしレベル高いな」
「おん。二人とも別嬪さんやなぁ」
「……女子校てええよな」
「そう言えば角名が今メッセしとるんも女子校の子やて自慢しとったわ」
「あいつ先輩おらん時にしれっと連絡先交換しとるよな」

 数列先に座った二人を乗せてまた動き出したバスの中で、治とこそこそと話す。同じバスの中、ガタンと揺れる振動は等しく伝わっているはずなのに、彼女たちの席の周りだけ違う世界のように見えた。女子しかいない学校というのは、男の自分にとっては全くの未知である。蝶よ花よと、さぞや大事にされておっとりとした可愛らしい子ばかりなのだろうと想像する。双子の母のような恐ろしい大阪のオバチャンとは絶対的に違う生き物、そうに違いない。しかし男が覗いてはいけない秘密の花園で過ごす彼女たちと自分の人生が交わることなどこの先一生ないように感じる。きっと同じように良いとこの坊と出会って付き合うのだろう。

「まぁ俺にはバレーがあるしな」
「何言うてんの、ツム。もうボケたん?」
「ちゃうわクソサム!」
「静かにせえや、下ろされたらどないすんねん」

 乗客の視線がちらちらとこちらに向いていることに気づき、口を噤む。勝ち誇ったように薄ら笑いを浮かべる治には腹が立つが、ここでこれ以上騒いで本当に降ろされたら洒落にならない。周りの視線を跳ね除けるように前方を睨んで座席に深く座り直すと、先程の女子校の名前ちゃんともう一度目が合った。不思議そうにこちらを見ていた丸い目が弧を描いて細くなる。くすくすと小さく笑って前を向いたその一連の動作がスローモーションのようにゆっくりと映る。可愛い、笑うともっと可愛い。けれど自分の失態を笑われるのは格好がつかず両手で顔を覆う。

「サムのせいで笑われてしもたやん!」
「はぁ?自業自得やろが!」

 落ち込んでいる間もなく、体育館前のバス停へ車両が停車する。逃げるようにバスを降りると、見慣れた体育館へと足を向ける。その時、後ろから柔らかな声が降ってきた。

「あの!」

 振り向くと笑顔の可愛いあの子が、駆け足でバスを下りてきた。軽やかにステップを踏んで目の前に来た彼女は、遠目で見るよりもさらに可愛くて思わず背筋がしゃんと伸びる。

「ハイ!」
「これ落としましたよ」

 差し出された右手には、稲荷崎高校の生徒手帳が載っていた。

「え!あれ、俺落としてもうたん?!」
「何やっとん。ホンマに……」
 
 慌てて鞄の外ポケットを確認するもあるはずのものは無く、彼女から受け取った手帳を裏返すと見慣れた入学当時の自分と目が合う。バスの運賃を支払った際に一緒に取り出してしまったのだろう。無くすとまた主将の北や母に怒られるところだった、と安心感から息を吐く。

「オイ。お礼くらい言えや、ツム」
「今言おうと思っとったわ!」
「ふふふっ。どういたしまして。それじゃあ」
「あ、ありがとぉ!」

 さらさらの髪を揺らしてバスに戻る彼女の背中に大きく声を掛ける。ドアが閉まる前にくるりとこちらを向いた彼女は、小さく頭を下げた。
 
「試合、頑張ってください」

 彼女の言葉が終わると同時にバスの発車音が響く。彼女を乗せて走り出したバスが交差点を曲がって見えなくなるまで見送ってしまった。

「……天使か?」
「はいはい。そろそろ行かんと遅刻やぞ。俺まで一緒に叱られんの嫌なんやけど」

 治に引っ張られながら先程の彼女の声が何度も頭の中をリピートする。高校に入ってイケメンセッターだの、最強ツインズなど、勝手に褒められたり貶されたりと有る事無い事言われ続けているが、今だけはちょっとした有名人であることが嬉しかった。彼女はどこかで俺のバレーを見たことがあるんだろうか、同い年だろうか、もしかして女子バレー部に入っているのかもしれない、と次々に疑問や想像が浮かんでくる。

「名前ちゃん……名前だけしか分からんけど、天使や」
「なんでもええけど一人で歩け!」

 治の怒鳴り声も気にならない。もう会うことはないのかもしれない。それでも先ほどまでの眠気を吹き飛ばすほどに気分が良かった。
 

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