恋
テスト週間も終わり、いつも通りの日常に戻ってもふとした瞬間、思い出してしまう。ノートを見つめていた俯き加減の横顔を上げてこちらを見上げる名前の驚いた表情が、スローモーションのように再生される。その前に自分が零した言葉を意識すると、堪らなくなって低い唸り声をあげてしまう。同室の治からはもう何度も「うっさいねん!」と怒鳴られている。いつもならば一言二言言い返し、そのまま胸ぐらを掴み合うなんてことになるのだが、今は到底そんな気分にはなれない。
バレーボールに触っている時だけは、あの失態と言わざるを得ない場面を思い出すことはないので、授業が終わると逃げるように体育館に駆け込んでいた。
「なんや侑、昼休みまで自主練か」
「ひえっ北さん!」
「人の顔見て叫ぶなや」
北は休み時間にも関わらず、部誌を片手に倉庫の中で備品の確認をしていたらしい。すいません、と頭を下げながらそそくさと倉庫からボールを取る。背中にあの眼力の強い視線が刺さっている気がするが、知らないふりをして壁に向かってトスを上げる。トン、トン、とリズムよく跳ね返ってくるボールを、指先で少しづつ高さを変えていく。いつも通り、とはいかずブレるボールに焦燥感が出てきてしまう。
「集中できてへんのに練習しても、意味あらんのとちゃう?」
「うぐぅっ!」
北らしい正論だ。バレーは好きだが、がむしゃらにやり続ければ上手くなるものではないと、もう流石に知っている。てん、と力なく床に落ちたボールを拾った北は、そのまま侑の前までやって来る。感情があまり出ない北から真っ直ぐに見つめられると、どうしても自分に非があるように感じて逃げ出したくなる。そう、逃げ出したい。ふ、とまたあの図書館でのやりとりを思い出してしまった。途端に感じる羞恥と後悔に、北の前だということも忘れて呻いてしまう。
「……なんやねん」
流石のミスターポーカーフェイスでも、急に頭を抱えて座り込んだ後輩には驚いたようだ。もうこの際だ、北に相談してみるか。何を言われてもこれ以上落ち込んだりすることはないはずだ。
「北さぁん……失敗した場面ばっか思い出してまうん、どないしたらええですか」
「お前はあんまり後に引きづらんと思っとったけど。あぁ、バレーとちゃうんか」
好きな子に告白するつもりちゃうのに告ってしまった、とは言えないので無言で頷いておく。顎に指をかけ、ふむ、と首を傾げた北はじっと色素の薄い瞳で侑を見つめる。
「過去は変えられん。悩むだけ時間の無駄やな。次に進む、という意味では失敗したことを成功させて上塗りするんが一番ええんちゃう」
「成功、するんですかね」
「……何に悩んどるんか知らんけど、上手くやろうとすると難しいんちゃうか。いつも通りの素直な侑で勝負したら成功するんちゃう」
上手くやろうとして、というところでグサリと言葉が刺さった。名前と良い感じになった、と感じた頃から告白するなら場所もちゃんとこだわって、海とか夕日とか花束とか、そういうロマンチックな何かを用意しなくてはと勝手に意気込んでいたのだ。そういったプランがあったからこそ、上手くいかなかったと落ち込んでしまっている。それに、名前は侑にもう一度チャンスをくれた。あの場で断らなかったし、いつものメッセージだって今日もちゃんと続いている。急に何も問題ないような気がしてきて、気分が明るくなった。そうだ、北の言う通り素直に思いのままを彼女に伝えれば良いだけだ。今度はちゃんとそのつもりで彼女に会えば、きっと上手くいくはずだ。
「北さん!ありがとうございます!」
「まぁどうなるか知らんけどな」
にやりと珍しく揶揄うように笑った北には何年経っても敵わないと思う。
次に会う時に気持ちを伝えよう、そう決めた途端に予定が詰まってしまった。神様の悪戯のように、土日には丸一日の練習試合や県外への遠征が入った。バレー漬けの日々が嬉しくないとは言わないが、中途半端な状態は好きじゃない。
「会う時間があらへん!!」
「御愁傷様」
部活の休憩時間中に2年のレギュラーに対して愚痴を吐くも、治は間食に夢中で聞いてなさそうだし、銀もストレッチしたままドンマイ!と笑顔だ。角名だけがスマホを弄りながらも聞いてくれる。
「名前ちゃんも塾やら生徒会やらで忙しそうにしとるし、俺もバレーやし、もうこのまま夏休みまで会えんのか……」
名前はこの前の試験結果が良かったので、親から塾の授業を増やすことを勧められたらしい。良かったのに増やすってどう言うことなのか、侑には理解が出来なかった。名前が言うには受験で狙える学校のレベルをもう少し上げられそうなので、今からそっちにシフトする為だそうだ。偏差値の高い学校は今から大学受験に備えていると思うと、ますます住む世界が違うような気がする。
「残念だね、夏休みは合宿だよ」
「困ったな、侑!」
「ふぉんふぁふぁ」
「余計時間ないやん……ほんで治は何言うとるか分からん!」
去年だって夏休みだからと、夏らしいことなどする時間もなくあっという間にインターハイがやってきた。今年もうかうかしてたらあっという間だ。名前はどう思うだろう。思わせぶりな言葉だけ残して、忙しい事を理由に会えない男などもうどうでもいい、と思うんじゃないだろうか。それは絶対に避けなくては。どんどん後がなくなって来ているように感じて、足先から深い穴に落ちていくような心地がする。
その時、タオルの横に置いていたスマホが短く鳴る。彼女だけ変更しているメッセージの通知音に、すぐに反応して確認すると、今から塾に行ってくるという内容だった。部活がんばってね、と締め括られた文を読み終える頃にはふっと決意が浮かんできた。いつも通りの自分、が分からないけれどもう散々カッコ悪いところは見られたのだから、今日でも明日でも早い方がいいに決まっている。
「なんかあったん?」
食べカスを口元につけたまま首を傾げる治の腕を引っ張って体育館の端へ移動する。
「おい、ツム。なんやねん……」
「一生のお願いや」
「……お前の一生何回あんねん。いやや」
「ちゃう、これはほんまのやつや! 今日おかんに帰り遅なるん上手く言っといてくれ」
「はぁ? ……どこ行くねん」
「ちゃんと、ちゃんとせなあかんねん」
それ以上の言葉が出てこなくて黙り込むと、しばらくして治は大きくため息を吐く。
「購買の焼きそばコロッケパン」
「わ、分かった! 明日買う!」
「1週間」
「はぁ!? 長すぎやろ、せめて3日!」
「嫌ならおかんにフォローせん」
「ぐぬっ、」
「決まりやな」
治はペロリと唇を舐めると、集合をかける北の元へとさっさと歩いて行ってしまう。予想外の出費に、果たして今月の小遣いは足りるのかと不安が過るが背に腹はかえられない。急いでスマホのアプリを開いて名前とのトークルームにメッセージを送る。もうこれで逃げられない、と心臓がどくどくと大きく脈を打つ。投げるようにスマホをタオルの上に置いて、慌てて集合の輪に加わる。今日、練習が終わったら、ちゃんと名前に伝える。今度こそ――
部活後に大急ぎで身支度を整え、いつもとは違う電車に乗った。緊張していたせいか、あっという間に感じた道中に名前から部活中に送ったメッセージに返信が来ていた。『塾終る頃に、入口のとこで待ってる。ちょっとだけ話させて』『分かった』いつもの彼女ならスタンプでか可愛らしいネコやウサギを送ってくれるが、今日はそれもなくこちらの緊張が文面から伝わってしまったのだろうかと思う。
自分から告白するのは一体いつぶりだろうか。高校に入学してからは好きだと言われることばかりで、そう言われると自分もそんな気になって付き合っていた。でも結局誰とも長続きしなかった。面倒になってふることもあれば、最低と言われふられることもあったが、どの別れも後に残るなんてことはなく、1週間もすればどうでもよくなった。
だからこそ自分でも今の状況に驚いている。名前のためだったら部活後のヘトヘトな身体でも会いに行こうと思える。治を買収してでもこうして時間を作っている。名前との繋がりを切りたくない、もっとちゃんとした約束が欲しい。かっこ悪いとこを知られていても、それでも縋りつきたい。すき、なんて簡単に言えたはずなのに、名前に伝えるとなるとたった二文字を口にするだけなのに躊躇ってしまう。
そうして考えもまとまらないまま、侑でもその名を知っている有名な塾の前に着いてしまった。制服姿の高校生が建物から出て来る様子を少し離れた人の少ない歩道の端から見つめる。いかにも部活帰りの侑が入り口の近くにいると、変に注目されそうだ。一応連絡しておこう、とスマホを出して通知の来ていたメッセージをいくつか読んでいると、ふと侑の前に誰かが立ち止まる気配がした。パッと顔を上げると、首を傾げるようにして名前がこちらを見上げていた。
「宮くん、ごめんね。待った?」
急いで出て来てくれたのだろう、珍しく名前の髪がぴょこぴょこと跳ねている。申し訳なさそうに眉を下げる彼女の顔を見ていると、さっきまでの緊張が解けていく。格好つけんでええ、もうかっこ悪いとこも十分見られてる。ふっと、力が抜けると何を話そうと構えていたのが嘘のように言葉が出る。
「待ってへんから、大丈夫やで」
唇に当たりそうな髪を一束を掬って耳にかけてやると、途端に名前の頬が赤く染まる。上目遣いのまま、固まる名前が可愛くてすぐにぎゅっと抱きしめたくなった。けれど、先に言うことがある。夜の街頭に照らされた名前は、今まで見てきた彼女よりもどこか幼く見えた。この子が欲しい。全部、隅から隅まで、自分のものにしたい。
「時間取らせへんから、聞いてくれる?」
桃色の唇がふるりと震える。こくん、と小さく頷いた名前の視線が揺れる。
「名前ちゃん、はじめて会った日覚えてる? バスに乗ってきた名前ちゃん、別嬪さんやなぁって思って見とってん。今も、むちゃくちゃ可愛いなぁて、思っとるよ」
可愛い、そう口にすると名前の頬の熱が耳の方まで広がった気がした。照れたように唇をきゅっと食んで俯く彼女の視線がもう一度侑に戻って来るまでほんの少し待つ。黒い瞳を潤ませて見上げてくる可愛いらしい姿に、頬が緩んでしまった。
「それに頑張り屋さんで、真面目やな。ほんで俺のことよぉ見てくれとる。俺が返事も遅いのに毎日連絡くれるんも、絶対部活のこと応援してくれるんも、めっちゃ嬉しい」
「わ、私も、宮くんと毎日連絡とるの、楽しいよ」
「ん、ありがとぉ。……学校ちゃうし、毎日会えへんのに、いつも考えてしまうの名前ちゃんがはじめてやねん」
通りを行き交う車のエンジン音や、帰宅途中の学生やサラリーマンの話し声が遠くに聞こえる。侑と名前だけが違う場所にいるような不思議な感覚だ。
「すき。はじめて会った時から、忘れられへんかった。名前ちゃん、俺と付き合ってくれませんか」
そう、はじめて会った時にはきっと、恋に落ちていた。一目惚れ、なんて嘘みたいだけど、そうとしか言いようがない。
なんだか小っ恥ずかしいことを言ってしまった気がする、と時間差で羞恥に襲われた侑に、真っ赤な顔をした名前が、私も、と小さな声で返事をする。
「私も、宮くんのことすき」
名前の言葉が終わる前に、身体が動いていた。すっぽりと侑の腕の中に収まる細い身体をそっと抱きしめる。甘い香りがする髪に頬を寄せながら、喜びを噛み締める。
「み、みやくん、ここ外だから、その」
「うん。でも、あかん、嬉しくて死にそうや」
名前の控えめな抗議をきいてやりたいけれど、もうしばらくこの幸福を噛み締めさせてほしい。今まで感じたことがないほど心が満たされる。あぁ、これが恋なのだとこの時はじめてわかった気がした。