花園に住まう君

移りゆく心

 聞き間違いかもしれない。
 
 月、って言ったのかもしれない。それか雪とか、季節外れだけど。そんなことを脳内でぐるぐると考えていると、宮くんがガタンと音を立てて立ち上がる。頬どころか耳の先まで赤くなった宮くんは、無言で私の手を握る。彼の指先が震えているような気がして、慌てて同じように席を立つと緩い力で自習スペースの出口へと手を引かれた。どこへ行くのだろう、と前を歩く宮くんの広い背中を見つめていると先程の言葉がまた浮かんできた。

『すき』

 思い出すと余計にどくどくと脈を打つ心臓が早くなっていって、体が中から壊れてしまいそうだ。

 図書館の通路を足早に歩く宮くんは本棚の林を奥へ奥へと進む。一番奥の突き当たりは専門的な学術書が整然と並んでいるだけで、人気はない。紙とインクの匂いに満たされた空間で、空調の音が大きく聞こえるほどあたりは静かだ。繋いだ手を解かないまま、立ち止まった宮くんが振り返る。

「名前ちゃん……」
 
 弱々しい声で名前を呼ぶ宮くんは、いまだに赤み引かない顔で項垂れている。

「宮くん、あの――」
「ちゃうねん!」

 大きな声を出した彼にびくりと驚くと、彼もしまったというように口元を押さえる。ついて出たのだろう否定の言葉に、早っていた胸が急に静かになってツキツキと痛み出す。やっぱり、そんなわけない。好き、だなんてやっぱり、違うんだ。宮くんになんでもない顔しなきゃ、と分かっているのに表情がうまく作れず頬がひくりと引き攣った。
 
「あっ、ちゃうっていうのはその、そういう意味とは違って! 俺ちゃんと言うつもりしとって……あんな感じで名前ちゃんを困らせるつもりじゃなかったんやけど、――あかん、ほんまにかっこ悪過ぎて死にたい……」

 どんどん小さくなっていく言葉に比例するように、宮くんの背中も丸まっていって大きな手に顔を埋めてしまった。ちゃんと言うつもり、という彼の言葉に一度萎んだ気持ちがまた上を向く。我ながらなんて単純なんだろう、と思いながら宮くんになんと言葉をかけていいのか分からず黙って彼の前に佇む。暫くして節の目立つ指先から大きな瞳を覗かせた宮くんと目が合う。垂れ目がちの瞳が探るようにこちらを覗き込んでいる様子が可愛くて、バレーをいている時のかっこいい彼とのギャップに胸がきゅうと狭くなるような感覚がする。

「名前ちゃん――もっかい、ちゃんと準備してから言うから、やり直しさせてくれる?」

 宮くんにこんな言い方をされて断る女の子はきっといない。繋いだ手をこちらから握り返しながら、こくりと頷くと宮くんの顔がぱぁっと明るくなる。

 『ちゃんと』彼の気持ちを伝えられる時までに、彼に返す答えを見つけなくちゃいけない。自分の中にある気持ちはもう無視できない大きさになっている。彼の言葉に一喜一憂している私の心をどうにかして宮くんにも見せてあげられたら、あの大きな掌で受け入れてくれるのだろうか。期待と不安で逸る心臓に揺さぶられて、身体中が震えているような心地がする。二人で席に戻っても、お互いの存在に落ち着かなくてなかなかペンが進まなかった。ノートを開きながらも触れそうで触れない宮くんの腕ばかり気になってしまったことが、どうかバレていないことを祈るしかない。

 
 そうして二人の距離が変わりそうで変わらないまま、テスト週間が始まった。稲荷崎高校と偶然にも日程が重なったので、きっと宮くんも今頃試験を受けているのだろう。図書館でのやりとりがあった日は、ベッドに入ってもずっと宮くんの言葉が頭の中をぐるぐると回っていて、布団の中で何度も声にならない声をあげてしまった。ぼんやりすると宮くんのことばかり思い返してしまうので、逃げるように教科書を開いていた結果、いつものテスト期間よりも集中して勉強できてしまった。そのおかげで、どの教科も良い手応えで終えることができている。

「やっとあと1つや……」

 昼休みに教科書を開き最後の見直しをしていると、お弁当を食べ終えた小百合が前の席にやってきた。テスト期間は出席番号順に座り直すので、せっかく席替えで近くの席になった彼女とも離れてしまった。テストが終わればまた席替えがあるだろうから、運次第ではまた前後左右に座れるかもしれない。

「ふふふ、小百合の顔に早くバレーしたいって書いてある」
「体鈍るんよ。毎朝のランニングとか筋トレは続けてるけどやっぱり体育館使えんとなぁ」

 同じようなことを宮くんも思っているのだろうと想像すると、勝手に頬が緩んでしまう。目敏くそれに気づいた小百合から、じとりとした眼差しを向けられ慌てて教科書に視線を落とす。
 
「……宮のこと考えてるの、バレバレやで」
「……そんなに分かりやすいの?」

 教科書を壁のように立て、目元だけ覗かせる。小百合にもすぐ勘づかれるほど態度に出ているなら、宮くんにもちょろい女だと思われているのかもしれない。恋愛経験値0の私にはなにが正解で間違いなのか、全く分からない。誰かと付き合った経験があれば、こんな風に心が揺さ振られてどうして良いのか分からなくなったりしないのだろうか。

「好きって顔に書いてあるもん」

 にやりと桃色の唇が弧を描く。小百合の視線に耐えきれなくなり、教科書に顔を隠す。これ以上宮くんにことを考えると、また叫びたいような逃げ出したいような気持ちになってしまうので、必死で教科書の文字を追う。同じ行を何度も読んでいることに気づき、慌ててその先を読もうとするもまた同じところを読んでしまう。動揺する心をどうやって鎮めていいのか分からなくて、ぽすんと教科書ごと机に倒れ込む。

「……バレーしてる姿がかっこいいなぁって思ってただけのはずだったんだけどな」

 鍛えられた身体をめいいっぱい動かして、コートの中を躍動する彼の楽しそうな顔は今でもよく覚えている。美しい軌道を描いてアタッカーの元へと届けられるボールを見つめる明るい瞳に宿る輝きが、眩しくて、羨ましくて目に焼きついたのだ。プレー中の好戦的な宮くんの目が、二人で会う時は少し柔らかい印象になる。180cmを超える大きな体を屈めて、気づかないふりなど許さないような熱のある視線を向けてくれる。その目を向ける人が私だけなら良いのに、と願ってしまう。

「もうバレーしてる宮くん見てるだけじゃ、ダメみたい」

 観念するように教科書から顔を上げると、小百合は姉のような顔をしてくしゃりと頭を撫でてくれた。試験が終われば、もうすぐ夏がやってくる。

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