3rd

菜の花

「夏油様、何作ってるの」
「ん?これかい。菜の花だよ」
「花?花って食べられるの?」

 左右から夏油の手元を覗き込む小さな頭が、物珍しそうに黄色い花をつけた緑の植物へと手を伸ばす。食べる物だから野菜、と形容した方が良いのだろうか。春が旬である菜の花はさっと熱湯で茹で、辛子醤油で和えるのがすきだ。濃い緑と少しの苦味、そして目に美しい鮮やかな黄色い小さな花を口に含むと、春の味だと感じる。

「美々子と菜々子には早いかもしれないね」
「そ、そんなことないです」
「そうだよ、夏油様が好きなら食べてみるもん!」

 調理前のまだふわふわとした柔らかな菜の花を一つづつ手に持った二人に、思わず笑ってしまう。野菜嫌いのこの子たちは、きっと一口で音をあげることろだろう。

 小さな蕾が幾十にも寄り添うように身を寄せる穂先をそっと指の腹で撫でる。脳裏にすっと思い出された抜けるような青空と、この黄色い花が満開に揺れる景色にもう痛むこともなくなった胸の奥で小さく軋む音がする。閉じ込めていた思い出が僅かな隙間からこぼれ落ちるように、懐かしい声が自身の名を呼ぶ。

『夏油! ねぇ、こっち!』

 懐かしい、そう言えるほどに月日は経過しているはずだが、記憶の中の彼女はまるで昨日のことのように鮮明で美しく再現される。呪いを身近に置く人間とは思えないほど、明るく柔らかな表情をする少女に自分はどんな顔をして笑いかけていたのだろう。彼女の持つ絶対的な陽の気にに当てられて、腑抜けた顔をしていたんだろうなと、自虐的に笑みを零す。その表情に何かを勘違いしたらしい菜々子が、拗ねたようにもう一度宣言する。

「夏油様、本当に私たちも食べますからね!」
「はいはい、分かったから先にお風呂行ってきな」

 パタパタと軽い足取りでキッチンを後にする二人を見送って、止まっていた調理を再開する。コポコポと湯が湧く音に、また彼女との記憶がゆっくりと奥の方から浮上してくる。決して嫌な感じのものではない、むしろ甘やかなそれはこうして時折、日々の暮らしの中で唐突に夏油の胸の中に湧き上がる。


 みょうじなまえ。呪術高専で青い春を共に過ごし、決して良い別れ方をしたとは言えないものの、今もなお夏油の心の奥に棲みついている同級生だ。入学当初、彼女は悟や硝子に比べると秀でたところもなく、すぐに死んでしまいそうな弱い呪術師だと思っていたが、悪運だけは誰よりも強かった。感情表現が豊かで、真っ直ぐに人の心に踏み込んでくるなまえのいろいろな表情を見るうちに、気づけばいつもなまえのことを目で追うようになっていた。夏油の捻くれた性格にもめげないと言うのか、通じないと言うのか、仮面を被ったり虚勢を張る必要性を感じさせない、そんな彼女の隣は心地良かった。

「夏油、あそこに名の花が見える」
「行かないよ」
「行くの。ほら、早くして」

 任務後のピックアップを待つ間、暇を持て余したなまえにくん、と袖を引かれる。つむじしか見えないが、きっと彼女はボールを見つけた子犬のようにきらきらと目を輝かせていることだろう。彼女の視線の先に揺れる黄色い花まで、1キロほどだろうか。真っ直ぐに続く上り坂に夏油は大きくため息を吐く。しかし、そんなことで空気を察して諦めてくれるような相手ではない。袖を引っ張る程度だった主張が、腕を掴んでぐいぐいと引っ張られるまでになった。

「そんなに元気なら、もうちょっと働いて貰えばよかったかな」
「うん元気! 次はもっと頑張るね」
「……もういいよ」

 なまえに勝つのは難しい。本気で正論を言い続ければもちろん夏油が勝つのだが、そうするとなまえは大きな目を翳らせてしょんぼりと項垂れてしまい、しばらく口をきいてくれなくなる。母親に叱られた幼児のようにしょぼくれる姿を一度目にすると、もう二度と同じように言い負かすことは出来なくなってしまった。

「やった!ね、早く行こ」
「はいはい」

 子犬に戯れつかれるのはこんな気分だろうな、と想像しながら左腕をなまえに引かれるまま歩き出す。最初はぺらぺらと楽しそうに話していたなまえは、坂道の後半は息が上がってきたようで夏油が手を引く立場になっていた。春先とはいえ、身体を動かせばすでに汗ばむほどに暖かい。

「体力ないなぁ。そんなんじゃ今度の体術の試験落ちるよ」
「うん、頑張らなくっちゃ」

 額に汗を浮かべながらもへらりと笑うなまえの手はほかほかと熱いくらいだ。少し湿ったその熱が嫌じゃないくらいには、夏油はなまえが好きだった。

「ほら、着いたよ」
「わぁっ!」

 谷になっている斜面を覆うように広がる黄色い絨毯はちょうど満開なのだろうか、風が甘く香るようだ。青空に映える黄色は素朴であったが美しく、なまえらしいなと夏油は思う。隣に立つ彼女は、黒い瞳を大きく開いたまま瞬きも忘れたように魅入っている。何か声をかけようかと思ったけれど、なまえの邪魔をしてはいけないような気がして同じように黙って見つめていた。しばらくするとなまえは、ほぅ、とうっとりとしたため息を吐いた。

「ねぇ、夏油。とっても綺麗だね」
「そうだね」
「しかもね菜の花って、食べられるんだよ」
「……そうだよね。君は花より団子だよね」
「何か失礼なこと言ってるんでしょ、そうなんでしょ」

 じとりとこちらを見上げるなまえに思わず笑ってしまう。彼女はもう一度黄色い花畑に視線を戻すと、大きく息を吸い込んだ。深呼吸をしながら視線を動かさないなまえは全身でこの景色を楽しんでいるようだ。

「綺麗なだけじゃなくて、食べられるなんてすごいことじゃん」
「食べたことあったかな」
「嘘、絶対損してる。夏油の好きそうな味だよ」
「何それ」
「うーん、春の味?」
「なまえのくせに生意気な説明だな」

 繋いだままの手を離すタイミングを逃してしまったことに気づき、どうしようかと思ったがなまえも何も言わないのでこのままでいることにした。坂を登ったことで体温の上がった彼女の手は、本当に子供の手のように温い。掌を通してその温もりが夏油にも移ってくる。どくどくと彼女の身体を巡る血潮が自分の体にも流れ込んで一つの生き物になったような気がして、ふ、と一人で笑ってしまう。すると、隣のなまえもくすくすと小さく笑っていた。

「夏油の手、熱い」

 照れたように頬を染めたなまえが目を細める。その笑顔にどくどくと心臓が大きく脈を打つ。そうか、熱いのは自分の方だったのか。


「「夏油様、これにがーい!」」
「春の味、なんだけどやっぱり早かったかな」

 夕食の席で、美々子と菜々子は予想通り一口齧ると盛大に顔を顰めてしまった。夏油は大きな口に一口含むと、ほろ苦い葉を食む。口の中に広がる春の味を、彼女と一緒に味わうことはついぞなかった。だからこそ、春が来るたび思い出すのだろう。春風のような彼女を、これからもずっと。

 
花言葉 快活、明るさ
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