3rd

桔梗

「なまえ、今戻ったのか」
「……炎柱」

 任務帰りのくたびれた身体でのろのろと声の主に向かって振り返る。所々泥に塗れて薄汚れた隊服を纏った自分とは対照的に、炎柱・煉獄杏寿郎は白地に炎の意匠が織られた美しい羽織をはためかせていた。それが私と彼の立場の違いを一層際立たせているようで、ただでさえ任務後で疲弊しているというのに、さらに惨めな気持ちになってしまう。こちらに歩み寄ってくる杏寿郎の端正な顔に親しげな笑顔が浮かんでいるのを目に留め、すっと視線を地面に落とし頭を下げる。上官にするように畏まって立っていると、目の前で足を止めた杏寿郎が困っている気配を感じる。

「前のように、呼び捨てで構わないのに」
「いいえ、規律は守るべきです」
「なまえは真面目だな!」

   ――真面目、だなんて。
 杏寿郎は本当に鈍感だ。任務のこととなれば鋭い洞察力を発揮するというのに、人付き合いに関してはとんでもなく素直だ。相手の言ったことをすぐに信じてしまうし、私の作り笑いにも気づかない。

「随分辛い任務だったと聞いた。大丈夫か?」
「水柱が来てくださったので……私はただの残党狩りに駆り出されただけです」
「そんなに卑下しなくても良い。君はちゃんと強いぞ!」
「そう、ですか……あの、そろそろ失礼します」
「なまえ、もし良かったら……」
「すみません、用があるのでこれで」

 はじめは、こんなふうじゃなかった。いつからだろう、杏寿郎と素直に言葉を交わせなくなったのは。同期入隊の間柄であった入隊当初は、任務でもそれ以外でもよく一緒にいた。同じものを食べ、同じものを見て、同じように泣いて、笑っていた。その時の私と杏寿郎には友人以上の何かがあるような気がしていた。甘やかな言葉を交わしたり、手を繋ぐこともなかったけれど、お互いを映すその瞳には特別な熱があると、そう思っていた。
 けれど、すぐにそれは勘違いだったと知ることになる。同じように入隊しても、剣の腕も、体術も、何もかも杏寿郎の方が優れていた。彼は類まれな能力を持って生まれた特別な人だったのだ。階級を一足飛びで駆け上がり、ついには炎の呼吸を習得して柱の一角を担う人物になっていた。  もう杏寿郎と同じ任務になることも、非番の日に街へ遊びに行くこともない。私は呼吸を極めるどころか、傷を増やすばかりで階級も上げられない、ただのその他大勢だ。そんな奴が彼とどうこうなろうなどと、冗談でも口に出来なかった。

 そうして私は、自らの胸に育ち始めていた想いを断ち切ることにした。

 これまでの想いをぷつりと鋏で切り落とし、杏寿郎との付き合い方を変えた。笑顔という仮面を被って、真っ直ぐこちらに向けられる視線を見ないようにした。何か言いたげな彼を避けて、なんだかんだと用事を作っては彼を遠ざけた。早く本当のただの同期になれたら良いのに。そう思っているくせに、完全に離れるなんてことはできなかった。もう自分から手を伸ばさないと決めた想い人を見続けるなど、辛いだけだと分かっているのにどうしても完全に無視することは出来なかった。杏寿郎は眩しいくらいに輝いていて、目を逸らしたくなるのについ見上げてしまう陽光のようだ。たとえ延びた茎を切り落とそうとも、地中にはもうしっかりと根が張っているのだ。

 結局、表面的に距離を取っただけで心の中にはいつも杏寿郎がいる。

 わかっていても、認めることは出来ない。もう何度も繰り返した堂々巡りに胸がずんと重くなる。暗い気持ちでのろのろと項垂れて歩いていると、視界に青紫の花が映った。俯いていた顔を少し上げると、川沿いの土手にそよそよと風に揺れる桔梗の花がその美しい花弁を太陽に向けている。別段珍しい花ではないのに、すっと真っ直ぐに伸びた紫色の花々に目を奪われてしまった。凛とした美しさに、思い出すのはやっぱり杏寿郎の顔だった。

「なまえ!」

 ビリビリと鼓膜を揺らす大きな声に、びくりと肩が跳ねる。ぼうっと道端に立ち止まっていた身体を聞き間違えることのない声の方へと振り向くと、さっき別れたばかりの杏寿郎が全速力で駆け寄ってくる。

「炎柱……」
「杏寿郎だ!」
「ですから、それは」
「ここには君と俺しかいない。君も俺も任務は終わっているから、今は階級のことは忘れてくれ」

 有無を言わせない圧力を笑顔でかけられ、うまい言い訳も浮かばないまま口籠もっていると杏寿郎が先程見つけた桔梗の方へと視線を向ける。

「桔梗だな。なまえはあれを見ていたのか」
「花の名前なんて、よく知ってたね」
「母上が好んでいた花の一つだからな。たまたまだ」

 彫りの深い男性的な横顔をしているのに、杏寿郎は笑うと幼児のように柔らかく目尻に皺を寄せる。正面からその顔を見なくてよかった。私のすきな笑い方だ、と胸に痛みを覚えながらなんでもない顔をして、並んで同じように桔梗を眺める。狭い川を挟んでゆらりと風に揺れる花からは、私たちはどういう風に見えているんだろう。眩しいくらい輝いている人の横で、私は一体どんな顔をすれば良いのかわからない。

「俺はなまえを怒らせるようなことを、したのだろうか」

 段々と尻すぼみに消えていくような声は、常時の張りのある彼のものとは大きく違っていて思わず隣を仰ぎ見る。真昼の高い太陽が眼窩の窪みに濃い影を落としていた。寂しげな眼差しを向けられると、喉の奥がきゅうと狭くなって言葉に詰まる。

「俺は、以前のように君と話したいし傍にいたい。飯を食いに行ったり、街へ買い物に行くのも君と行きたい。我儘だろうか」

 困ったように眉を寄せて口元に笑みを作った杏寿郎を見ていられなくなり、足元の砂利を睨みつけるように見つめる。そうしていないと熱くなった瞳から涙が溢れてしまいそうだった。

「杏寿郎は、柱になった」
「だからそれは、」
「私は、何にもなれなかった。私は貴方に見合う人間じゃない、違うの」

 みんなに敬愛されて憧憬の眼差しを一心に浴びる杏寿郎と、何の取り柄もない私が釣り合うはずがない。優しくされるとまた切り落とした芽が伸びてきてしまう。抜くことができないのだから、せめてもう実らないものを育てたくはないのに。

「……何も違わない。なまえは強く優しい人だ。俺に見合うかどうかなど、勝手に決めつけないでくれ」

 遠慮がちに伸ばされた大きな手がそっと肩に触れる。その掌に多数の硬い肉刺があることも、男らしい節の目立つ指が以外に器用であることも、私はよく知っている。いつもは剣を握る手が、こんなにも柔らかく私に触れていることに耐えていた涙が頬を伝う。

 「俺は出会った時からずっと君がすきだ」

 疑う余地などありはしない。彼は私なんかよりもずっと真面目で、嘘のない人だから。

 涙で濡れた瞳で見上げると、杏寿郎はまた困ったように笑いかけてきた。凛々しい眉を下げて、許しを乞うようにこちらを見る杏寿郎にゆっくりと近づいてその硬い胸元に額を寄せる。肩に触れた手と同じように優しく回された腕の中は、何度も夢に見た通り日向のように温かかった。

 私の中に芽吹いたものを育てても良いのだろうか。今度はちゃんと花が咲くだろうか。あの桔梗のように、しゃんと背を伸ばした美しい花が。

 
花言葉 変わらぬ心
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