リクエスト企画

心の臓の喪失感

いつだって不安を抱えている。

正体を見破られないように用心深く、出来るだけ人の記憶に残らないように無難に生きてきた。特別に仲の良い間柄にならないよう、線引きをして一定の距離で社会に関わってきたのだ。
第二の性だなんてものが無ければ私はきっともっと違う人生を歩めたのだろう。

オメガなんて生殖の為の劣った性を持って生まれたこの身を、私は心底憎んでいた。


定期的に訪れる発情期を抑制剤で何とか誤魔化してベータの振りをして過ごすのも、18年もやっていればもう慣れたものだ。しかし様々な種類の薬を試しているがどうも私の体とは相性が良くなく、薬を飲めば毎度吐き気や目眩に襲われる。
体育の授業中にあまりの気持ち悪さにグランドで蹲ると、足元に見慣れた青いジャージが見えた。

「名字、どうした」
「先生、、気持ち悪い…」

ぐいっと二の腕を引っ張られて立ち上がらせてもらい、歩けるかと確認して来る冨岡先生の手を借りて一歩踏み出すが地面がグラグラ揺れているのかと思うほどで、足元が覚束ない。
もうあと10分もすれば終業ベルが鳴る時間だった様で、先生は今日はここまでと声を張って解散を命じた。
数人の女生徒に大丈夫かと、心配してもらいながらうまく返事もできず込み上げる吐き気を我慢するので精一杯だった。

「保健室に行くぞ、男の俺が付き添いですまん
今日は養護教諭が研修でいないはずだがベッドは使えるからしばらく休んだら帰れ
手の空いてる先生が送ってくれるだろう」

こくりとなんとか頷いてグランドからゆっくり校舎に向かう。
冨岡先生は口調が冷たく、若い先生の中では一番怖がられていたけれど余計なことを聞いてこないのでよかったと思う。それにさり気なく体重を預ける様に姿勢や歩き方を合わせてくれているのが伝わってきて、そういう思いやりや優しさが弱った自分にはとても滲みた。
これが普通にベータの女の子だったら、好きになって、もうそこまで迫った卒業式には告白したりするのかもしれない。アルファのすてきな女の子だったら今すぐにでも先生に言い寄ってるのかもしれない。
出来損ないの私で無ければ。

ジャージ越しでも分かる逞しい腕を頼りに保健室にたどり着くと先生の予想通り無人であった。暫く待っていろと言い残して職員室の方向へ消えた冨岡先生はきっと鍵を取りに行ったのだろう。ずるずると扉を背にまた床に蹲ってしまった体はさっきより少し楽になっていたけれど、今度は薬が切れかかっているのが分かる。6時間ごとにきっちり飲む様に処方されたそれは肌身離さず持ち歩いているので、このドアが空いたらすぐにでも飲まないといけない。もしかしたらもう、雄を誘うフェロモンが出ているのかもしれない。

「名字、待たせた…」

冨岡先生を視界の端に捉えた途端にじわりと視界に涙が滲んだ。

「え?」

自分でも驚いて頬を伝う水滴を指先で拭ってぼやけた視界で先生を捉えるとこちらも酷く狼狽した表情で鍵を取り落とした。カシャンと二人しかいない廊下に響く硬質な音に意識を取り戻した先生は、すぐさま鍵を拾って保健室を解錠すると、足腰から力の抜けた私の体を後ろから腕一本でひょいと抱え上げて保健室に入る。不安定な姿勢と男性に持ち上げられていると言う非常事態に驚いているとベッドに下ろされた。先生はカチャンと内側から鍵を閉めると距離を取る様に保健室の椅子に腰掛けて口元を抑えて黙り込んだままこちらを熱っぽい視線で見つめる。

「…名字は、オメガなのか」

相変わらずぽろぽろと止まらない涙と、先生の口から告げられる宣告の様な言葉が胸に刺さって痛い。なにか酷いことをされるのだろうかと、ニュースになったオメガのフェロモンに充てられて起きた事件や非人道的な行いを思い出して体が竦む。
「悪い、プライベートなことをずけずけと」
自分の体を抑える様に腕を組んだ冨岡先生は珍しくその顔に苦笑いを浮かべていた。いつもの無表情を見慣れていたせいで、急に先生が身近に思えて強張っていた体から少し力を抜く。

「…そうです
先生はアルファですか?」
「そうか…ベータに擬態する薬がちゃんと効いていたんだな
今日まで分からなかった
俺はアルファだ」

アルファだとかベータだとかは本人から言われないと気付かなかったけれど、今はなんとなく先生がアルファだと空気で分かる。
涙腺の壊れた眼から流れ出る涙を指先で何度も拭っていると先生がティッシュを取ってくれた。箱を受け取ろうと伸ばした指先が先生の硬い皮膚に触れるとそこから火がついた様な熱を感じて慌てて手を引っ込める。先生も同じだったのかびくりと震えた指先とともに深い息が薄い唇から吐き出された。綺麗に畳まれた布団の上に落ちたティッシュボックスから何枚か抜き取って目元を抑える。

「どうしたんだろう、涙が止まらない
それにさっきの、指先が」
「あぁ、火がついたのかと思った」
火傷した様なひりつく指先を眺めても、なにも跡は残ってないけれど確かに火のような電気の様な刺激があったのだ。先生も同じだったのか指先を眺めてから、こちらにじっと熱のこもった目線を寄越す。
私の体の中を覗く様な視線にぴくぴくと肌が震えているのが分かる。

アルファを前にすると皆こうなのだろうか。オメガの性質の一つはアルファを狂わすフェロモンだ。それをずっと薬で抑えてきたので、こんなふうに熱っぽく求められる様に見られることは今までなかった。それに応えたいのかぼやっと微熱のような熱が身体に灯る。


「もう一度、触れてもいいだろうか
それ以上何もしないから」

冨岡先生の有無を言わせぬ視線に操られる様な感覚がした。恐る恐る伸ばした指先が先生の指の腹と触れる。今度は二人とも触れても大丈夫な様で、そこにはなにかいい知れない熱があった。吸い付く様に指先から掌がぴたりと合わさると心の奥底から充足感が湧き出る。
不思議、何かすごいことが今起きている。
先生の手に触れているとすぅっと涙が引っ込んでいった。それに代わるよう身体中に灯った火種がごうごうと燃えているようだ。

「名字は今まで、ずっと何かが足りていないと思うことはなかったか?」
冨岡先生は言葉通り掌を合わせたきりそれ以上触れようとしなかったが、ただその手を離す気配もなかった。指を絡めたわけでもないのに、掌のなだらかな曲線がまるで一対の生き物であったかのように隙間なく嵌っているのだ。
「俺は昔から半身がいないような何かが欠けているような気がしていた」
「…私はずっと不安でした、ずっと怖かった
なのに不思議です、今は何も怖くない」
言葉にするとそれはより確かなものとなった。そう、何も怖くないのだ。
オメガでいることの恐怖を今だけは感じない。
絶対的な安心感に涙が出ていたのだとなんとなく分かった。生まれて初めての安心できる場所。

「抑制剤は持っているのか?」
先生は意を決した様に掌を離すと反対の手で抑える様に握りしめると再度大きく息を吐き、流石にこのフェロモンは辛い、と漏らした。そういえばまだ飲んでいなかったと急いで給湯室で水を出してポケットの中から薬を取り出して飲み込むともう一度ベッドまで戻る。発情期用の薬が効けばまた副作用に悩まされることは目に見えていたけれど、このまま薬を飲まずに冨岡先生と一緒にいるとどう考えても良くないことが起きそうだった。
でもそれを細胞の奥底で望んでいる女の私がいるのも確かであり、そのことに羞恥心が込み上げてくる。

「先生は、今までオメガの人に会ったことあるの?」
「あるにはあるが、、お前のは多分違うだろう
ただ側にいるだけで身体だけでなく、精神的な満足感を感じたのは初めてだ」
「…それって、運命の番かもしれないってこと?」
交差する二人の視線が絡み合って、身体中が歓喜しているように肌が粟立つ。
運命の番、アルファとオメガの間だけで成り立つ特殊な関係を知識として知ってはいた。でもそんな可能性の低いことが現実に起こり得るのかと半信半疑だったけれど、もしこの不思議な反応がそうなら。私と先生が番だったら、もうこんな薬も、漠然とした恐怖も無くなるのだ。

「…わからないが、今は教師と生徒だ
確かめるとしてもお前が卒業してからだな

だが俺の番になってしまったら二度と、死ぬまで離れられないぞ」
薬を飲んだ私とは対照的に、いいのか?と問う先生はいまだ熱のこもった視線で呼吸が苦しそうだ。
そんな目で見られると今すぐにでも首を差し出したくなる。どうぞ噛んで、と。

「先生、真面目ですね」

こんな浅ましい第二の性だなんて生まれ持った本能に振り回されてるのに、どこまでも理性で対応しようとしてくれてる。その優しさに賭けてみたいと思うのは女子高生という先行きを楽観視できる立場だからだろうか。

「それに先生もわかってますよね
これが運命じゃないなら、きっと世界のどこにも運命なんてないですよ」

椅子に腰掛けた先生の前に立つと、黒目がちな目の縁をじんわりと朱色に染めて耐えるような吐息を溢していた。女の人よりも色気のある艶っぽい表情に思わず指を伸ばすと薄い唇にカプリと指先を喰まれた。

「そうだな、これが運命だ」

噛まれた指先を引き抜いて無意識のうちに唾液のついた指を自らの口に含む。
甘い甘い先生の味が堪らなくてもっと欲しいと思うと同時に、目の前に先生の美しい顔が迫る。

「これで死ぬまで俺の半身だ」

神様がいるのならこんな顔だろうと名前は柔らかく笑う冨岡先生の顔を眺めてそっとその体に身を預ける。
生まれて初めて、なんの不安も恐怖も感じない腕の中でゆっくりと息を吐く。まるで世界の煌めきにため息をつくように。