チョコレートボンボン
『明日、お仕事終わりに会えませんか?』
13日の深夜、眠りつくかつかないかの微睡をヴヴッとマナーモードのスマホが揺り起こす。
見慣れたトーク画面に並ぶ文字を寝ぼけ眼で見つめると、言葉の意味が遅れて頭にはいってきた。明日は世の中チョコレート一色になるであろう、バレンタインデーである。そんな日に会えないかと意中の相手からメッセージをもらってしまっては今からどうやって眠れと言うのか。ばちばちに覚めた頭で了解の返事をすると、間をおかずに既読になった。名前がよく使うふざけた猫が照れたスタンプすら愛らしく見えてくるので、そろそろ俺はやばいのかもしれない。
枕元にスマホを置いてもう一度目を閉じるが心音が響くばかりで一向に眠りはやってこなかった。
「兄ちゃんどうしたの?寝不足?」
「隈できてるわよ、実弥」
「大丈夫だァ」
翌朝、玄也と母さんに心配されながら行ってきますと家を出る。
実際に眠さよりも覚醒状態が続いているので頭は冴えているのだが、よく眠れなかったことでただでさえキツイと言われる顔立ちが凶悪になっていることであろう。
「不死川先生、どうしたの?皆さん心配してますよ?」
昼休みに職員室に戻ると胡蝶が眉を下げて近寄ってきた。
「少し寝不足なだけだァ。わりぃな」
「そうだったの…体調が悪いんじゃないのね。昼休みの間にお昼寝した方がいいわ。せっかくのバレンタインなのに先生がそんな顔じゃ生徒さんたちも渡せるものも渡せないわ」
「あ?」
「不死川先生、自覚がないのねー。女の子たちがこそこそ先生の周りに来てたでしょうが」
そうだったのであろうか。たしかに授業が終わった後に教卓を片付けているといつもよりなんだかんだと声をかけられた気がする。しかし。
「今年はひとつしか受けとらない」
不意に言葉に出していたことに自分でも恥ずかしくなってくる。熱を持った顔を隠すように腕をあげて胡蝶から目線を逸らすとまぁまぁまぁ!先生も隅に置けませんね、と母親のごとくからかってくる胡蝶の高い声が響いた。
「お疲れ、先に帰るぜぇ」
終業後、そそくさと荷物をまとめて残っている教員たちに声をかける。宇髄がもらった大量のチョコレートのつまったダンボールをどうやって持ち帰るべきか伊黒と煉獄にあーだこーだと大声で話していたので俺の声に反応したのは胡蝶と富岡くらいであった。二人に軽く手を上げて職員室を出ると、そこからはひたすら走る。
車のエンジンをかけるわずかな時間までももどかしく感じながら、猫のスタンプが居座るトーク画面からすぐさま連絡する。
『終わった
そっちまで行く』
返事を待たずにギアをドライブにいれてアクセルを踏む。
車で30分ほどで着く名前のマンションは2、3度彼女を送りに訪れていたけれど、今日ほど遠く思ったことはない。ちょうど赤信号の信号待ちでヴヴッと返信が届く。
『お疲れ様
ありがとう、待ってます』
名前の性格をそのまま表したような労わりと優しい言葉の返事を読み終えると信号が青に変わる。
職場から車を飛ばし、街路樹が枝を伸ばす広めの2車線の道路をしばらく走る。少し高台になっている交差点で南にハンドルを切ると閑静な住宅街が姿を現す。駅からは距離があるが、落ち着いた街並みの低層マンションが名前の住まいだ。
来客用の駐車場に愛車を停めてスマホを触るとちょうど玄関の自動ドアが開いて名前が出てくる。
「実弥さん」
柔らかい猫っ毛の髪を揺らして大きめのカーディガンを羽織っただけの彼女の姿に舌打ちする。
「おい薄着で出歩くなって言っただろうが…ほら」
自分のマフラーを解いて名前にぐるぐると巻き付けると、ひゃぁ、と小さい声で悲鳴をあげる。
「これだと実弥さんが寒いでしょう」
「…大丈夫だ」
恥ずかしそうにマフラーに埋もれる顔を隠すように前髪をしきりに触る名前の手には何も持っていない。
てっきり駐車場で言葉を交わして目的のバレンタインチョコをもらえるものだと思っていたが違うようである。実のところ、名前のマンションに上がったことはない。実弥からははっきりと言葉にして伝えたけれど、名前は失恋で傷心していたので急がないからと、その場で答えはもらっていない。
「で、お呼び出しには応えたんだが?」
こちらと目を合わせようとしない名前の頬を親指で撫でて柔らかい弾力に指を沈めると、冷たいのだろう首をすくめる名前にこくりと喉が鳴る。がっつくつもりはないでもないが、名前からこうしてアプローチしてくれることなどなかったので少し意地悪くなってしまう。
「あの、お部屋にあるから。あ、あがっていって」
ぎゅうとコートの裾を握って真っ赤な顔で懇願されて嫌という男がいるだろうか。
尻すぼみにかき消えそうな声で誘われて、喜びでにやけそうになる顔をなんとか制御してコートを掴む名前の手を取って指を絡める。柔らかくて小さな薄い掌を自分の掌に覚えさせるように握ると応えるように名前の指も握り返してくれる。
「部屋何階なんだァ?」
「2階だよ」
オートロックの自動ドアを二度通り抜けた先のマンションの内部はクリーム色の柔らかな色味で防犯カメラも設置してあり防犯面はしっかりしているようだ。女性一人で暮らす名前でも安心であろう。
エレベータで2階に上がり「209」と書かれた角部屋のドアをカードキーで開ける名前の後ろで、柄にもなくどきどきと心臓が高鳴った。好きな人の部屋にいれてもらえるということは、それだけ信頼してもらえたということだろう。しかし、こんな日に呼ばれて家に上げられるとなると、こちらも期待してしまう。彼女は一体どういうつもりなのだろうか。
「座ってて」
彼女のこまやかな性格から想像していた通りすっきり片付いた女性らしい色あいの部屋は、どこもかしこも名前の香りで充ちている。
しばらくして暖かいコーヒーと綺麗にラッピングされた掌サイズの箱をトレーに乗せた名前がソファにやってきた。コーヒーの香りはとても良いのだが、名前の手が細かく震えているせいか、かちゃかちゃと食器が鳴る。こちらにもその緊張が伝播してくるようである。二つのコーヒーが無事にローテーブルに着地できたことに、二人で知らず知らずのうちにほっと息を吐く。
「あ、あのっ!」
裏声寸前の突然の大きな声にびっくりして、名前の淹れてくれたコーヒーに伸ばしかけた手を止める。
「お返事を、しなくちゃと思ってて」
「あぁ」
真っ赤な顔で必死に言葉を紡ごうとしてくれる名前がかわいくて、隣に座った体をそちらに向ける。
長い髪を耳にかけ直して、ようやく俺を真正面から見てくれた。
聞いてるというように、笑いかけると、じわりとその目に涙がにじむ。
「実弥さんが、すきだって言ってくれてすごく嬉しくて。待つって言ってくれたのもすごく嬉しかった。
それで昨日、バレンタインのチョコどうしようかなって思って、実弥さんいっぱいもらうのかなって考えてたら、その、すごくいやな気持ちになって、他の人にもらって欲しくなくて。だから、あの」
一度言葉を切った名前は涙をごしごしとふいて、泣き笑いを浮かべる。
「私も、実弥さんがすきです」
ようやくもらえた答えに、きちんと言葉にしてくれたことに胸がいっぱいになる。
名前の手を引いて腕の中にすっぽりと収まる身体をぎゅうと抱きしめる。
「ありがとな」
「実弥さん、、遅くなってごめんなさい」
大丈夫だというように頭を撫でて、せっかく淹れてくれたコーヒーとチョコレートを食べようと空気を変える。正直、このまま抱きしめていたら自分の制御ができそうにない。
「チョコレートは、実弥さんお酒すきだからリキュールの入ったのにしたの」
涙の引いた赤い目元で、これはどういうのだとか、チョコの説明を話してくれる名前の声を聞きながら外に止めた車のことを考える。
「そうか、どれも美味そうだな。ありがとなァ」
手をつけようとしない俺に名前が首を傾げる。
「食べないの?」
「…車で来てるからなぁ」
公務員の飲酒運転は懲戒免職である。
お菓子のアルコールなど微々たるものであるが、名前の買ってきてくれたチョコは有名店のしかも酒造メーカーとのコラボものであるので万が一を考えるならやめたほうがいいだろう。
「か、帰らなくてもいいよ」
彼女の口から漏れた小さな声の意味を理解する前に、名前の指が箱の中ならチョコを一つ摘み、ぱくりと小さな口に運ぶ。
「おい、酒弱いだろうが…大丈夫なのか?」
名前の唐突な行動に驚いて彼女の顔を見るとぐっと首に手をかけられて後頭部を固定され、かさついている唇に名前の柔らかい唇が触れた。
小さな舌が遠慮がちに実弥の唇をなぞるので誘われるがままに薄く開くと恐る恐るというように口内に薄い舌がチョコレートともに入ってくる。形勢逆転とばかりに名前の小さな舌を絡め取って舐め上がるようにチョコレートを奪うと甘さとともにアルコールの香りが鼻に抜けた。
ちゅぱっと水っぽい音を立てて名前の唇から離れると、熱に浮かされたようなとろんとした目でこちらを見上げる名前がうっとりと唇を舐める。
「んっ…実弥さん、おいしい?」
煽るような名前の言葉に我慢しようという気がなくなった。ゆっくりと名前を押し倒して、煽ったのはお前だからな、泣いてもやめねぇぞと耳元で囁けば、名前がチョコを咥えてこくんと頷く。本当に、もう今日はどうなっても知らないとチョコレートごと名前を食べると決意する。
(煽り倒しやがって・・・!)(実弥さんのことすきだって思ったら…つい)