Gift | ナノ

これの続き)


頬に何か濡れたものが当たってローはシーツに顔を擦りつけた。その正体が一体何なのか、微睡の中で確認するには出来事が些細過ぎて少々面倒臭い。気にせずまたゆっくりと眠りの淵に落ちていこうとすれば、やはり頬に何かが触れた。鬱陶しそうに首を振ると寝返りを打って仰向けになる。ギシッとベッドが少し軋み、今度は生暖かい何かが半開きの唇を舐めた。

「んっ、ぅ…きっ、ど…やめろ…」

ぺろぺろと唇を舐める赤茶色の物体にローは眉根を寄せる。上げられた右手が力なく押し返すが、ふわりとした感触に触れるだけで退く気配はなかった。キッド、と呼ばれた赤茶色の犬は「ワフ、」と鳴き声を洩らすと前足でローの肩を引っ掻く。起きろ、と催促されているようでローは溜息を吐くと薄い毛布を頭まで引き上げた。

「ねむいんだ…やめ、ろ…あほいぬ…」

まだまだ暑さは残るといえど暦の上ではもう秋だ。朝方などは特に肌寒く、ぶるりと震えると体を丸めて温もりを内に閉じ込める。小さな鳴き声を上げてローの毛布をカリカリと引っ掻くキッドには無視を決め込んで背を向けた。暫くは諦めきれないようで何事かごそごそと動いていたが、一向に相手をしないローに諦めたのか終いには鳴き声も聞こえなくなった。これでやっと静かに眠れると、寄せた眉根を離しほっとしたように枕に頭を擦り付け居心地のいい体勢をとる。あとはまたゆっくりと意識を手放すだけ。口元に寄せた手を軽く握り締め、深い眠りの底へ落ちていこうとすれば毛布の上からかぷりと耳を噛まれ、ローは再び浮上させられた苛立ちに眉根を寄せた。

「いい加減に…っ!」

これではおちおち眠ることも出来やしない。舌足らずだった口調ははっきりとした意識を持ち、苛立ちを隠しもせず毛布を引き下ろすとそこでローの言葉は途絶えた。唇を塞がれたからだ。犬にではなく、人間に。

「んぅ!?」

驚きに噎せ返ってしまいそうになるがそれよりも先に舌を絡め取られる。ただでさえ自分より大きな男なのに上に乗ってこられてはどうしようもない。押し返すよう手は胸に当たっているが力で叶わないのに押し返せるはずもなく、男のいいように弄ばれる。朝からかまされる濃厚な口付けにローは全身からぐったりと力が抜けていくのを感じた。

「おはよ、ロー」
「っ、は…キッド!」

最後に軽く口付け、唇を離した男がにこりと笑う。その頭に生える赤茶色の犬耳。ぱたぱたと揺れる同色の尻尾にローは叱るように男の名前を紡いだ。キッド、と呼ばれた男はそれでも気にせず尻尾を振っている。もう一度おはようと言われて、ローは諦めたように溜息を吐くと上半身を起こした。

「せっかく人が気持ちよく寝てたって言うのに…」
「学校に遅れてもいいのか?」
「え!?」

拗ねたように唇を尖らせたローにキッドは不思議そうな顔をすると、その唇をぺろりと舐める。瞬時に顔を赤く染めたローはその顔をぐいっと押し返そうとして、しかしかけられた言葉に慌てて目覚まし時計を引っ掴んだ。いつも起きている時間よりも十分も先に針が進んでいる。朝の十分は貴重だ。どうして誰も起こしてくれなかったんだと、頬を舐めるキッドを突き飛ばすとハンガーにかかったシャツを掴みとった。

「着替え手伝ってやろうか?」
「余計遅くなる!それより…勝手に人間になるなって言ってるだろ!」
「ローが起きないから…」
「見つかったらどうするんだバカ!」
「大丈夫だって」

能天気な答えにキッドを睨みつけたが、構っていられないとすぐさま視線をそらして着替えに集中することにした。
ローの飼い犬、キッドは何の因果かこうして人間に変身することが出来る。もちろん耳と尻尾は飛び出したままなので完全な人間とは言えないが、それさえ隠してしまえば完璧だ。しかしこのことを知っているのはローだけ。両親には秘密だ。だからローはこのことが両親に知られてしまわないかひどく気にしていて、キッドが勝手に人間になることを快く思っていない。

「大体足音なんざすぐ分かるし…気配がしたら犬に戻ればいいだけだろ?」
「そうだけど…」

キッドは犬だから耳も鼻もよく利く。それは人間になった状態でもそうだった。たとえば今、ローの母親が部屋に向かおうと階段を上がってくれば、キッドは瞬時にその音を聞き犬に戻るだろう。頭では分かっているが、もしもという言葉が存在する。もしも、もしも、もしも。キッドの存在が知られてしまったらもう会えなくなってしまうかもしれないのに。

「そんな顔すんなよ、ロー」

果たして自分はどんな顔をしていたのか。ちゅっと鼻先に軽いキスを落としたキッドに瞬きを一つ。覗き込んだ顔が視界に映り、ついでその裸を全体像で捉えてしまったローは顔を赤らめるとキッドの顔を突き返した。

「へぶっ」
「ににに人間になったらすぐに服を着ろって言ってるだろ!!」

痛みに鼻を押さえるキッドに視線をそらしたままで声を荒げる。ドアを開けると振り向きもせずそのまま階下へと飛び出してしまった。やれやれとその様子にキッドは赤くなったであろう鼻先を撫でる。もういい加減慣れたっていいだろうに。なんて我儘で乱暴なご主人様だ。しかし。

「可愛いなぁ」

真っ赤になった顔で慌てふためくその姿を思い出して笑う。それよりももっとすごいことをしてるじゃないか。そう言ったら湯気がでそうなほど赤い顔で怒られたっけ。
キッドは犬に戻ると開いたドアの隙間を通り抜けて階段を下りる。リビングに入ると、熱でもあるんじゃないのと心配そうに額に手を当てられたローを尻目にのそりと暖炉の前に寝そべった。その原因が欠伸をしながら体を横たえたこの犬にあるとはよもや分かるまい。

ローは学校に行く前、普段ならハグをしてくれる。それにキッドはぺろりとローの頬を一舐めして応えるのだが。背筋を伸ばしいつも通り玄関前に座ってローのハグを待っていたら、伸びてきた指がキッドの眉間をピンッと弾いた。靴を履いたローはドアに手をかけ、べっと舌を出す。どうやらハグどころの機嫌ではないらしい。耳を垂らしたキッドが「クゥーン」と甘えたように鳴く姿にふふんと笑うとちょっとは反省しろとドアを押した。しかしガンッと瞬時に引き戻されて訝しげに眉を寄せる。視界を横切る白い腕に思わず目を見開いた。

「おまっ…キッド!!」
「しーっ、そんな大声出したらバレるぞ」

ふざけるな、と言いかけた言葉を瞬時に飲み込む。今はまだ玄関先に顔を出していないが、いつ母親が来るとも限らない。ローはにやにや笑うキッドを睨みつけた。

「ハグは?」

こてんと首を傾げたキッドに何の可愛さも見受けられず、ローはぶつくさ文句を言いつつもぎゅっとキッドの首に腕を回した。とりあえず言うことを聞かないとこの状況に始末がつかないので言うとおりにしてやっただけで全く不本意だ。しかし覗いた尻尾がぱたぱたと揺れているのを見て何とも言えない気持ちになる。帰って来たら覚えてろと言おうとすれば、覗き込んできた顔に鼻先が触れ合った。「キス、」と催促するように言われて一瞬その股間を蹴りあげてやろうか本気で迷う。迷って脚を伸ばしたところで唇を舐められてローは諦めたようにキッドの唇に触れた。ちゅっと、触れ合い、離そうとすればいつの間にか回っていた腕に後頭部を押さえつけられて驚きにびくりと肩が揺れる。ぬるりと入り込んできた舌は遠慮も知らず、割り込んできた脚に股間を撫でられてローは声にならない悲鳴を上げた。
キッドは裸だ。耳も尻尾もついている。リビングから母親が顔をだせばそこでうっかりキッドとローの人生は終わる。突如現れた変態に襲われた息子とその目には映る。間違いではないがそう思われては困るのだ。ローは頭を引きはがそうとしたが、それよりも先に両腕を押さえつけられてしまいどうしようもない。激しくなる舌の動きと揺さぶられる脚にじわりと目尻に涙が浮かぶ。息継ぎに離された唇に罵声を浴びせようとしたが、それよりも早く噛みつかれてしまった。



「ロー、あなたまだ行ってないの?遅刻するわよ」
「っ、ぁ…も、行くから…」

リビングからひょっこりと顔を出した母親が見たのはドアに背を預けて震えている息子だった。やっぱり熱があるんじゃないの、と紡いだ言葉は乱暴に閉められたドアに閉ざされる。「あの子大丈夫かしら、」と不安げにドアを見つめたが、駆け出してしまったローはもういない。自分ももう出ていかなければならない時間なのか、バッグを掴んだ母親が玄関先で寝そべるキッドの頭を撫でた。「いい子にお留守番していて頂戴ね、ローが帰って来たら頼んだわよ」、告げられた言葉に一声鳴くとキッドはのそりと立ち上がる。ヒールに足を入れる母親はやはり元凶がこの犬だとは気付かない。行ってくるわね、と最早玄関にいないキッドに声を掛けると、がちゃんとドアの閉まる音が遠くで聞こえた。それを尻目にキッドはごろりとソファに寝そべって目を閉じた。

ローの両親は多忙な人であったが、いくら多忙であるとはいえ常日頃家を空けている訳ではない。それに家政婦という名のお手伝いさんを雇っているため、家に誰もおらず一人ぼっちという機会はあまりなかった。しかしそれはキッドが堂々と人間になれる機会も少ないということを示していた。
もちろん最初はキッドが勝手に人間になるなんてことは有り得なかった。慎重に慎重を重ね、完全に二人きりの時にだけキッドはローの許しを得て人間になれた。そのほかはいつもと変わらぬ犬の姿だ。しかしそうしてキッドが人間になれる機会は少なく、そのことに募っていく不満は大きい。その結果、次第にキッドは両親や家政婦の抜け目を見つけて勝手に人間になることが多くなっていった。ローの制止も露知らず、人知れず人間になることがいかに簡単であるか、気づいてしまったキッドはこうして簡単にヒトになろうとする。もちろんローと喋りたい、直に触れ合いたいという気持ちがそうさせるのだが、最近ではその慌てた顔や怒った顔困った顔を見ることに比重が置いてあるような気がする。特に先程のようなスリルは最高だ。扉一枚隔てた向こうにいる母親には決して知られてはいけないのに、碌な抵抗も出来ずに快楽に溺れさせられるその姿。唾液にぬれた唇に背徳に揺れる瞳。よかったなァとキッドは先程のローの姿を思い出して尻尾を揺らす。帰って来たらきっと怒られるのだろうけど、人間になって抱き締めてしまえば有耶無耶に流れてしまう。どうやらローはこの人間の顔に弱いようだから。

一方で学校に着いたローは最近のキッドの悪癖に頭を悩ませていた。最初よりも主人を尊重する態度が薄れてきているような気さえする。教科書を見つめながらシャーペンで顎を突いた。
一体どうすればもう少し行動を自重してくれるようになるのか。特に今朝は――危なかった、と思い出して顔を赤らめる。寸でのところでキッドが犬に戻ったから良かったものの、もしあのまま続けていたら。いや、キッドは分かっていてあえてギリギリのあのタイミングで犬に戻ったに違いない。犬に戻る前、にやりと笑ったあの意地悪そうな顔を思い出すだけで頭を掻き毟りたくなる。どうにかして躾けないと、そう思うのだがいざ本人を目の前にするとどうにもうまく動けなかった。あの顔が悪い――と密かに思っている。あの赤い瞳も、揃いの髪も、鼻筋の通った面立ちに肉厚な唇も白い肌も。なぞるように思い起こせば脳内に浮かんできたキッドの顔が「ロー、」と囁く。慌てて打ち消すが赤くなった顔はすぐに元には戻らない。本当にどうにかしないと、と真っ白なノートを意味もなくシャーペンで塗りつぶす。とりあえず帰ったらどうするか、それを考えようとして突然教師に問題を当てられ思わず裏返った声で返事をした。



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