11話
お風呂から上がって、キッチンで温かいミルクティーを作った私は両手でしっかり持ってこぼさないように慎重に部屋に運んだ。一度机の上にカップを置いて、ベランダにつながるドアを開けたらカップを持って外に出る。
「ふぅ…」
欄干にカップを置いた私は一息ついて空を見上げた。冬の時とは違う星空が広がっている。それもそのはず、私は今春休みに入っているのだから。それでもやっぱりまだ肌寒くて、自分で用意した温かいミルクティーを飲む。じんわりと広がるほのかな暖かさが心地良い。
「っ………」
もう少し飲もうとカップを持ち上げた時、ずきんと右腕が痛んだ。その痛みで体が変にビクついて、少し熱くしたミルクティーが溢れて零れた。そのミルクティーは添えるように持っていた右手にかかってしまい、熱くて痛くて、咄嗟に手を上げようとして、またずきんと傷んだ。
拭くものを持ってこようと、ドアを開けて室内に入る。引き出しから出したハンカチを持ってもう一度ベランダに行って、ぼんやりと景色を見ながら軽く水分を吸収させるようにあてて、ベトベトする気持ち悪さを少しでも取り除く。
「はぁ………」
大体拭けたところで痛みを感じている右腕に目を向ける。家に帰る前、保健室に寄って包帯を巻いたり湿布を貼って冷やしたりとしたけれど、結局あまり良くはならなくて、明日病院に行く予定になってしまった。利き腕だから、使えないと不便だし、それは仕方のないことだとは思うけれど、私の頭に浮かぶのは、別の事。
「あんな風に泣くなんて、思わなかった…」
思い出すのは、泣いているあむを慰めようとしないといけなかったのに、いきなり溢れ出した生クリームに流されて、痛くてたまらなかった右腕に我慢できずに泣いてしまった時の事。あむのことはなでしこちゃんが慰めていて、その後はよく分からないけどタルトからクッキーを作ることにしてなんとかあむは元気になった。その帰り道、あむが話すのはなでしこちゃんやクッキーを渡す予定の辺里君のことばかりで、私には保健室に行ったせいか腕はどう?という心配する言葉だけ。いつもなら、私が慰めて、あむが心配するよりも先に、うまく話せていたのに、今日はできなかった。
それもこれも、あんなところで、あんな事で、泣いてしまったから…
「なんで、泣いちゃったんだろう。みっともないなぁ…」
「なんで?」
「えっ………」
俯いて、少し苦しくなりながら零すと、なんでか別の声が聞こえてきた。聞き覚えのある声に驚いて、顔を上げてキョロキョロと辺りを見渡していれば、にゅっと上から逆さまの顔が降りてきた。
「きゃっ!あ………」
「あ…」
急に現れた顔にビックリして、小さく悲鳴を上げた。肩もビクッと跳ねてしまって、驚いてしまった私は飲もうと用意していたミルクティーの入ったカップを手から離してしまった。
「あつ………」
「あ、ありがとう、ございます。月詠さん………」
でもそれはいきなり出てきた顔の人、月詠さんも気づいていたみたいで、反応できなかった私より先に、カップをキャッチしてくれて、欄干に置いてくれた。中身を零したり、カップを割ってしまうことがなくてよかった、とホッとしていると、なんだか視線を感じた。チラッと目を向ければ、こちらをじっと見ている月詠さんと目が合った。驚いてビクッとしてしまった私に気づいた月詠さんが今度は目を逸らす。
「月詠さん………?」
「腕は。」
「あ、えっと…明日、病院に行く予定です。」
「ふぅん…」
私の答えを聞いた月詠さんはそう言ったきり黙ってしまった。
ど、どう答えるのが正解だったんだろう…!
何も言わない月詠さんに1人であたふたとしていれば、目の前にずいっと袋が差し出される。
「えっ………?」
「やる。」
「えっ?だ、大丈夫です………?」
「………………。」
なんだろうと思って月詠さんを見れば、ただ一言やると言われただけで、よく分からないまま首を横に振ってしまった。月詠さんはまた何も言わないままで、また沈黙の空間が流れる。
いらないと言ってしまったからだと思って顔がさあっと青くなるのが分かったけれど、言ってしまったことは取り返せないからまたどうしようと1人で考え込んでしまう。すると、ふぅ、と短く息を吐く音が聞こえ、思わずびくりと肩が跳ねてしまった。
「ベンショー。」
「えっ、と………」
「昼間それと似たようなもん作ってただろ。」
うまく話が理解できずに、でもずいっと半ば強引に差し出された袋を受け取ってしまった私は月詠さんの言われた事を理解することに専念した。
昼間作ってた、というのは、家庭科室の事、かな…?確かに、私もあむも、お菓子を作っていたけど…と、思いながら袋の中身を見れば、驚いた。
「こ、こんなにたくさん!?」
「同じくらいだろ。」
「お、多すぎます!私達が作っていたのはもっと少なかったのに………」
そこに入っていたのはたくさんの種類の駄菓子。幼稚園や小学校低学年の頃、遠足とかで用意するお菓子でよく買っていた懐かしいものや、お店では見たことはあっても、買ったことはなかったものまであった。けど、その量は私が作っていたマドレーヌやあむが作っていたクッキーの数より多い。思わず声を上げれば、月詠さんは不思議そうに首を傾げるだけで、わかっていなかった。
そんな月詠さんが少し可愛いな、と思いかけてふと、気づいた。
さっき月詠さんは弁償で持ってきたと言っていたけど、私が作っていたお菓子は無事だった。むしろ、弁償しないといけないのは、タルトが台無しになってしまったあむの方だ。
それに気づいて、さっきまで少し楽しかった時間も、消えてなくなる。
「あむの部屋は、隣ですよ。」
「知ってる。でもお前も作ってただろ。」
「私のマドレーヌは、無事でした。」
「窓…?」
せっかく月詠さんが持ってきてくれたのに、渡したかったのはあむだと気づいた途端、嫌な気持ちになってしまった。そんな私に気づいてほしくなくて、でも、抑えることができなくて、きっとひどいことになってる顔を俯かせて、冷たく言ってしまった。それでも、月詠さんは袋を返して欲しいと言ったり、あむの部屋の方に移動したりしないで、この場に留まった。
「でも腕、怪我しただろ。」
「えっ………」
「それのベンショー。少しあむの分も入ってるから、後でやっとけ。」
月詠さんの言葉に驚いて、また顔を上げる。月詠さんはどんな感情なのかよく分からない表情をしていて、でも話す言葉はしっかり月詠さんの声で届いてくる。
私が、腕を怪我したから、来てくれたのかな。少しは、私の事を考えてくれたのかな。
後に聞こえていたはずのあむの事はあまり入ってこなかった。
「そろそろ戻れ。風邪引くぞ。」
「あ………」
「じゃあな、あめ。」
月詠さんの言葉が嬉しくて、ぼうっとしていたら声をかけられて、ハッとした。その時には月詠さんは危ないのに欄干の上にいて、慌てて近づこうとした私の頭にポンと手を置いたと思ったら、ぴょんっと飛んで、夜の街に消えていった。
「月詠、さん…」
少しの間、月詠さんが飛んで行った先を見ていた私は、月詠さんが一瞬でも触れた手の感触を思い出す。
あの時、言葉にはしていなかったけど、泣いてもいいんだよって、言ってもらえたような気がして、嬉しくなって、自然と口角が上がっていた。
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