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エミリオ、目が覚めた?あなた、熱があるのよ。頑張りすぎじゃないかってお医者様が言ってらっしゃったわ。このところお勉強に剣の稽古に、お城での仕事もあったでしょう。あまり休めていなかったのではないの?今日はゆっくりお休みなさい。さあほら、目を閉じて。起きたら甘いプリンを持ってくるわね。
優しい、やわらかい声だった。僕は熱に浮かされた頭でその声を聞き逃さないよう必死に意識を保っていた。彼女から僕に向けられる優しさを、ひとつも取りこぼしたくなかった。それは僕だけに与えられる唯一だったからだ。霞んだ視界の中で、彼女は微笑んでいる。おやすみ。目の上にそっと乗せられた少し冷たい手のひらが、どうしようもなく哀しくて。泣きたくなっただなんて、きっと彼女は知らないことだろう。知らなくていい、知られたくはない。彼女には僕の、そんな子どものような感情を知らないままでいてほしかった。だから、これでよかったのだ。そう、よかったはずなのだ。


「……目が覚めたかい?」


意識が浮上する。ひんやりとした何かが額に乗せられていた。目を開けようとして、ずきりと痛む頭に眉を顰める。おやおや、大丈夫?のんびりとした声が聞こえて、僕は今度こそ目を開けた。僕を覗き込むのは恰幅のいい女性だった。快活に笑うその顔に、見覚えがあるような気がした。
起き上がろうとして失敗する。全身が酷く重い。まるで鉛でも付けられているようだった。頭が痛む。意識がはっきりしない。全身が熱く、寝ているだけだというのに汗が出る。熱があるのだ、と気づいたのは、女性が僕の額に乗った何かを取り上げて、よく冷えたタオルと交換したからだった。


「お客さん、時間になっても食事を取りに来ないから。何かあったのかと思って様子を見に来たら魘されてるもんだからびっくりしたよ。大丈夫かい?水は飲める?」


ああ、なるほど。言われてみれば確かに昨日寝る前の記憶が無い。恐らく部屋に着いてそのままベッドに倒れ込んだのだろう。野営が続いていたから疲労が溜まっていたのかもしれない。或いは、道中で相手にした魔物が毒を持っていたのか。何にせよ僕は熱を出して倒れ、そのまま随分と眠っていたようだ。カーテンの向こうの日差しは強い。きっともう昼前だろう。
女性は宿屋の女将だった。受付で数言話した覚えはある。女将は僕が起き上がろうとしたことに気づいたのか背中を支えてくれる。慣れた手つきでそのまま僕の口元に水の入ったカップを添え、僕はその厚意を有難く受け取った。よく冷えた水が喉を潤していく。存外喉が乾いていたらしい。これだけ汗をかけば当然かもしれないが。


「熱、早く下がるといいんだけどねえ。食欲はあるかい?少しでも何か食べた方がいいからね、何か作ってきてあげよう。ああそうだ、後で薬も持ってくるからね」


捲し立てるように女将は言う。僕は返事をしようとして声が出ないことに気づいた。代わりに喉からは咳が出て、女将は困ったように眉を下げて僕の背を摩った。あたたかい手に、ほうと力を抜く。お節介な女将に僕は少しだけ笑ってしまう。懐かしい気がした。
坊ちゃんは自分の身体に無頓着過ぎます。宝石のような大きなコアクリスタルをこれでもかとばかりに輝かせて、僕に小言を言う奴がいた。昔の話だ。熱を出して動けなくなった僕の隣に立て掛けられたそいつは、僕が返事をできないことをいいことに、きっと溜め込んでいたのだろう不満をぶちまける。坊ちゃんが倒れたら僕はどうすればいいんですか。僕はひとりじゃ何もできないんですよ。坊ちゃんを抱えて屋敷に戻ることもできないんです。僕が誰か助けてと叫んでも、僕の声は坊ちゃん以外の誰にも届かない。そいつは段々と泣きそうになる声音で、何度も何度も僕を呼んだ。坊ちゃん。コアクリスタルがちかりと瞬いた。どうかお願いです。僕は彼に手を伸ばして、幼子のように、その刀身を抱き締めて。


「……もっと自分を大切にしなさい」


髪を撫でられる感覚に意識を引き戻す。腕の中には何も無い。ただ、女将が僕を覗き込んで、曖昧に笑っているだけだった。
女将は席を立ち、机に置かれた服を持ってまた戻ってくる。これは、と視線で問い掛けると、女将は眉を寄せながら、お客さんの着替えだよ、と言った。古ぼけてはいるがどこも傷んではいない。丁寧に保管されていたものなのだろう。女将はその服を広げ、愛おしげに笑った。


「私の息子の服なんだけど。お客さんも着られるはずだよ」


その目で、その目だけで、僕は理解してしまった。女将の息子はもうどこにもいないのだろう。長い時を過ごしてきたのだろう古ぼけた服に、女将が恐らくあの騒乱で息子を亡くしたのだろうことも、その息子が僕と同じくらいの年代だったのだろうことも、容易に察しがついてしまった。そんなこと、気づきたくはなかった。熱のせいとは別に、ずきずきと全身が痛む。罪の象徴を見せつけられているようだった。
女将は僕の目を見ていた。それからゆるりと笑って、気を遣わせてすまないね、と言う。僕はそれに応えられなかった。応える資格も、言葉も、持ち合わせてはいなかった。


「私の息子はね、あの騒乱で死んでしまったんだけど。その前からずうっと具合が悪くてね。立派になるんだ、って言って、頑張って頑張って働いて、身体を壊しちまったんだ。そんなになるまでどうして気づいてあげられなかったんだろう、どうして止めてあげられなかったんだろう、って後悔したね。私が止めてあげられれば、もしかしたら息子はまだ生きていたのかもしれないのに、って」


女将は古ぼけた服を見て、僕を見て、そうして僕の額のタオルを取り上げて冷水に浸す。水の音が聞こえた。僕は目を伏せる。


「だからね、お客さん。お客さんはもっと自分を大切にしなさい。お客さんが倒れると悲しむ人がいるでしょう。心配する人がいるでしょう。お客さんは自分のことをどうでもいいと思っているかもしれないけどね。お客さんを大切に思っている人は、あなたが思っている以上にたくさんいるものよ」


だから、約束。女将の声に、遠い遠い過去の、彼女と、あいつの声が、重なって聞こえた。


「二度と、自分のことをどうでもいいだなんて思わないで」


目を閉じたまま考える。熱に浮かされた頭で考える。女将の言葉を即座に否定できなかったのは何故なのか。以前の僕ならばきっと、僕にそんな人はいないと、僕のことなんてどうでもいいと、僕に構うなと、そう言って切り捨てていただろう。だけれど僕はできなかった。もう否定することはできなかった。僕はもう知っているからだ。僕がどれほど想われていたのか。僕を案じてくれる人がいることも、僕が身勝手をすれば悲しむ人がいることも、僕なんてと言えば怒る人がいることも、もう、すべて、僕は知っている。知っているから、僕は頷く。そうすることで、彼らの想いに報いたかった。


「ああ、そうだな」


女将は満足そうに笑って、僕の髪をもう一度くしゃりと撫でた。食事と薬を持ってくるからね。そう言って部屋を出た女将の背中を見送りながら、僕は瞼を下ろす。僕の名前を呼ぶ声がした。僕を案じる声だった。その温かさに、痛みや苦しみが引いていく。なあ。虚空に向かって呼びかけた。今の僕を見たら、君は、お前は、笑ってくれるかい。その問いに二人が笑って頷いてくれるものだから。僕は心地良い睡魔に委ねて、やわらかい場所へと身を落とした。




瞼の裏のラベンダーブルー




20200711

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