ハイデルベルグの資料館へ足を向けたのは気まぐれだった。ただそこにあったから。或いは、客観的にあの時を振り返りたかったのかもしれない。何にせよ、何か明確な理由があったわけではない。何かを求めるわけでも、そこに何かがあるとも思っていなかった。足を踏み入れることに躊躇が無かったと言えば嘘になる。それでも歩を進めたのは、僕はもう、恐れることをやめたから。それに他ならない。
資料館にはあの時の仲間の肖像画やソーディアンのレプリカ、神の眼の模型にと様々なものが雑多に並べてあった。ソーディアンのレプリカはよくできている。神の眼の模型には何の感慨も浮かばなかった。肖像画は少しばかり誇張があるようだ。どことなく美化されたかつての仲間の顔に自然と口端がつり上がる。思い浮かぶ彼らの顔は肖像画のものよりも老いていた。ただ一人、肖像画の中央に位置する彼だけは、この時の顔しか思い浮かばないのだけれど。
「ソーディアンって全部で六本あったんだぜ」
徐に聞こえた男の声に思わず振り返りそうになる。咄嗟に自身の腕を掴むことで行動を止め、耳だけを傾けた。やはり立ち寄るべきではなかったか。あの騒乱から十八年。だが、まだ十八年だ。僕の顔を覚えている者もいるかもしれない。騒乱の資料が並べられた場所だ、案内人は当時の事情に詳しい人間の可能性だってある。そんなこと瞬時に考えて、顔を隠すために被ったフードをぐいと引き。
「そんなの知ってるよ」
男の声を遮るように響いた声に、瞠目した。得意気に響くその声に、男は鼻白んだように喉を詰まらせ、それから何とか言葉を絞り出す。
「『ベルセリオス』ってソーディアンは、」
「オベロン社総帥のヒューゴが持ってたんだってな」
「『シャルティエ』は、」
「四英雄と旅したリオンさんが持ってたんだよね!」
男の言葉をひとつひとつ潰すように弾んだ声が言葉を連ねる。男はぐう、と唸り、恐らく、二人居る声の主を睨み付けたのだろう。な、なんだよ。声の主のうちの一人がたじろいだように声を上擦らせる。
「ああ、そうだよ!ベルセリオスはヒューゴのクソッタレが、シャルティエは裏切り者のリオンが使ってたんだ!まったく、ソーディアンも浮かばれねえよな!」
男は話の腰を折られたのが余程気に食わなかったのだろう。いいや、男の言葉を潰した彼らが悪人であるはずのヒューゴやリオンをそうと言わなかったのが癇に障ったのかもしれない。吐き捨てるようにそう言って、僕はその言葉に、本当にな、と。思わず笑ってしまう。ああ、お前の言う通りだよ。彼は一度たりともそんなことは言わなかったけれど。
「それ、ベルセリオスやシャルティエから聞いたの?」
その問いに男は今度こそ言葉を失い、黙り込んだ。フードの隙間からちらりと見えた声の主は少年で、彼は腕を組んで首を傾げ、考え込むように眉を寄せていた。少年は続ける。
「ベルセリオスはずっとミクトランってヤツに乗っ取られてたんだろ?ソーディアン・ベルセリオスに『ベルセリオス』の意思はなかった。だからヒューゴさんに使われたことをどうこう思えないはずだけど」
それに。少年は尚も言葉を紡ぐ。その声に隠しきれない嫌悪と、怒りと、悲しみと、遣る瀬無さと、それ以上の何かが含まれていることに気づいたのは少年の隣に立つ長身の青年と、そして僕だけだっただろう。
「リオンさんは裏切り者じゃないし、シャルティエさんはリオンさんをマスターに選んだこと、後悔してるはずがない」
少年の声は朗々と資料館に響いた。男だけではない。通りすがりの人間が少年と青年と、その正面で顔を歪めている男を見ていた。少年の瞳は揺るがない。青年は少年の背を叩き、そしてその場にいるすべての人間に聞かせるように、大仰に両手を広げ、笑った。
「ああ、そうだな!なんたってお前はスタン・エルロンとルーティ・カトレットの息子だ!誰よりも真実に近い場所にいる!どこの誰ともわからない人間が嘯いた作り話なんか、信じられるわけがないよなあ!」
なんて大根役者だ。僕はフードを深く被り直し、その下手くそな演技に腹を抱える。くつくつと込み上げてくる笑いが止まらない。声が大きいよ!と少年に窘められる青年は、すっと笑みを消し、男の耳元に口を寄せる。生憎とここまで声は届かなかったが、男の顔色がみるみるうちに失われていくのを見ると、余程のことを言ったらしい。男が腰を抜かしそうな顔色になったのを満足そうに眺めた青年は、珍しく頭を抱える少年の腕を引き、ざわざわと揺れる人々の中を突っ切って行く。
やけに楽しそうな顔をしている少年と青年。してやったりと言わんばかりのその顔に、僕は心底呆れて、それから可笑しくてたまらなくなった。気を抜けば蹲ってしまいそうなほど、呼吸が乱れるほどに笑ったのはいつぶりだったろうか。もしかしたら生まれて初めてだったかもしれない。可笑しくて可笑しくて、だから目尻に滲むこれはそのせいなのだと誰にともなく言い訳して。逃げるように資料館を後にした二人組の背中を、霞んだ視界の中で見送った。
ナオスはハバナローズの色をしている20200721