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坊ちゃん、坊ちゃん。あの花の名前はなんですか。あの木は、草は、あの鳥は。どういう名前をしているんですか。
やたらと弾んだ声でシャルが僕に尋ねる。何を浮かれているんだ、と言ってもどこ吹く風で、シャルは僕の目を通して見える景色に酷く感激していた。あの魚は、あの動物は、あの色の名前は。シャルは矢継ぎ早に僕に問い掛け、僕は耳を塞ぐ仕草をしながら、少しは静かにしろ、と苦言を呈す。それでもシャルは言葉を落とすことをやめない。あれは、これは。僕からの答えを期待してはコアクリスタルを輝かせて、結局いつだって僕が折れることになった。
いつからだっただろう、植物や動物、花や星、色や形、そんなものたちの名前を調べるために、分厚い図鑑を眺めるようになったのは。知ることは苦ではなかったし、新しい発見もあった。生活の中で役立つものもあればまったくと言っていいほど役に立たない知識も増えた。坊ちゃん、坊ちゃん。そうやって僕に名前を尋ねるシャルの声がいつも楽しそうだったから。僕は図鑑を眺めてはいつかシャルに教えてやろうと密かに多くのことを覚えていって。
シャルが僕に名前を尋ねるのは、千年前には見かけなかったものが珍しいからだと思っていた。実際シャルもそう言っていたし、僕はただただ、その言葉を真に受けていた。千年前、空は粉塵に、大地は雪に覆われていたという。花も、木も、草も、すべては枯れてしまっていただろう。鳥や魚や、それ以外の動物たちもきっと生きていける環境ではなかった。空に浮かぶ星など見えるはずがない。見たことのないもので溢れた世界はシャルの目にはどう映っているのだろう。そんなことを考えながら、僕は図鑑を眺めていたというのに。
その考えが間違っていたと知ったのは、シャルがいなくなった後だった。千年前の時代から仲間に加わったハロルドは、花も木も草も、鳥や魚やそれ以外の動物たちも、星座の形ですら、すべてすべて千年前の面影を残していると言った。生物は進化こそしているものの姿かたちそのものが変わっているわけではない。シャルティエだって知ってたはずよ。あいつ、暇なときはいつも図鑑を読んでいたんだから。ハロルドから告げられた言葉に、僕がどれほど衝撃を受けたか、きっとシャルにはわからないだろう。
坊ちゃん、坊ちゃん。シャルは僕を呼んで、世界にあるものすべての名前を尋ねた。僕はその名前を必死に調べたし、調べた名前は忘れることをしなかった。世界には名前が溢れていて、小さなものから大きなものまで等しく名前が付けられていて、名前がないものには、それを見つけた人間が名付けるのだ。そうやって世界には名前が溢れる。ありとあらゆるものは、それを指し示す唯一を持っている。名前があるということは、存在を認知されているということだ。そして誰かが認知しているということだ。それはつまり、ひとりではないということなのだ。
シャルが僕にありとあらゆるものの名前を尋ねた理由。それに気づいたときにはもうシャルは僕の傍にいなかった。答え合わせはできず、答えは図鑑の中にも載ってはいなかった。だから僕はその答えをずっと胸の内に秘めている。坊ちゃん、坊ちゃん。名前はなんですか。そうやってシャルが僕に尋ねたように。シャル、お前が名前を知りたがる理由はなんだ。そう、尋ね返せる日を待っている。
やあ、今日も熱心だね。図書館の司書とはこの数日ですっかり顔馴染みになってしまった。僕の傍らに置かれた図鑑をちらりと見て、司書は眼鏡の位置を正す。見つかりそうかい。司書の問いには首を振って、僕は再び図鑑へと視線を落とした。
任務の途中、旅の最中、ただ街中を散歩している時だって、シャルは僕に名前を尋ねた。そのせいで花や木や草や、そんなありとあらゆるものの名前が気になって仕方なかった。アジサイ、コレオプシス。イチョウにクスノキ、サルスベリが薄紫の花を咲かせ、その隣ではヒマワリが太陽を向いている。地面にはハコベがひっそりと咲き、日陰にはドクダミの白い花も見える。そんな中でひとつ、見覚えのない花を見つけた。桜貝のような色をした、小さな小さな花だった。
僕はその花の名前を知らなかった。ちょうど近くにあった図書館へと入って図鑑を広げ、その花の名前を調べ始めて早数日。僕が毎日植物図鑑を持って窓際に座るものだから、司書は気になったらしい。最新の図鑑から、どこから持ってきたのか古ぼけた図鑑まで。僕が来る度にせっせと運んでくれる。僕は運ばれてくるそれを捲っては記憶の中の花と比べて、それでもあの花の名前はわからなかった。
新種の花なのかもしれないねえ。司書が僕の様子を眺めながらぽつりとそう言った。君が捲っている図鑑が最後だよ。ぼろぼろの図鑑はところどころ破けていて、丁寧に扱わなければすぐに壊れてしまいそうだった。司書は苦笑して、千年前から書き継がれてきた図鑑だって噂なんだけどね、と言った。図鑑の最後の一ページ。そこにもあの桜貝のような色をした花はない。僕は図鑑を閉じる。
ありとあらゆるものに名前が付いているこの世界で、名前のない花がある。その事実に、僕は言いようのない気持ちになった。名前など僕にとっては意味のないものだ。そう言ったのはどの口だったか、自嘲するような笑みが漏れて、僕のその笑みをどう取ったのか、司書が僕の背を叩いた。名前がないのなら、君が名前を付けてあげなくてはね。僕はその言葉の意味がよくわからず、思わず司書を見上げた。司書は目尻にやわらかい皺を刻みながら、僕を見ていた。
名前がないなんて、ひとりぼっちみたいで可哀想だろう。その花は君が見つけてあげたからひとりではなくなったんだよ。だから、ひとりじゃないんだって、名前を呼んでおあげなさい。司書が僕の背をもう一度叩いて、踵を返す。手続きなら任せておいてくれ、そう言った司書は上機嫌で、僕は肩を落として、そうして笑った。
坊ちゃん、坊ちゃん。あの花の名前はなんですか。シャルの弾んだ声が聞こえた。それに僕は得意気にあの花の名前を答える。僕が名を与える、あの花の。




ディープシェルピンクの花の名は




20200719

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