味わって、ゆっくり。
「恵、まだ寝ないの?」
書類から目を上げると、心配そうな表情をした名前が俺の顔を覗き込んでいた。
時計を見ると、日付が変わってもうしばらくが経っている。
「ん?ああ、これに目を通し終わったらすぐ寝る。」
でも……と少し不満そうな顔になった彼女の髪を撫でる。
さらさらと指の間を髪の感覚が心地いい。
明日も6時起きだ。
名前の背中を軽く寝室の方に押した。
「今日も疲れただろ。先寝てろ。」
「……ねえ、まだ寝ないの。」
あれからしばらくして聞こえてきた、今度はしっかり不機嫌な声。
時計を見ると、あれからもう1時間以上経っている。
「お前、まだ起きてたのか。」
戸惑う俺に、こっちのセリフだ。と名前が腕を組んだ。
「ちゃんと休んでる?最近私が起きてる間休んでるところ見たことないんだけど。」
「大丈夫だ。名前も明日早いだろ。もう休め。」
俺ももう行く。と視線を下げようとした瞬間、タブレットを持っているのと反対の腕がぐいっと引かれた。
グイグイと強い力で引っ張られ、立ち上がった俺は慌ててそれをテーブルに置く。
「お、おい……名前、」
そのまま有無を言わさずに寝室へと連行され、ベットにぶん投げられたかと思えば、毛布をかけられたその上から名前が抱き着くように俺を拘束した。
「さっきの資料、今日見とかないと死ぬの?」
「いや、別に死にはしねぇが……」
「だったら、今日はもう終わり。伏黒恵閉店です。」
「ちょっ、待て名前、」
あの資料は、もう少しで読み終わったのに。
「待たぬ。」
最初は少しもがいてみたが、相手も女とはいえ実戦経験のある呪術師。
そう簡単には抜け出せず、1分ほどで諦めて俺は抵抗をやめた。
俺を押さえつけていた名前が、ころんと隣に寝転ぶ。
さっきより少し低くなった彼女の声が、俺の耳に優しく響いた。
「昨日は何時に寝たの」
「……」
正直に言えば怒られる。
ここは適当に誤魔化して、
「言ってみな」
「……3時。」
「一昨日は」
「……」
「言いな」
「…………4時半。」
圧に負けた。
「あんたね、そんなんだといつまでたっても大きくなれないよ。」
「もう成長期は終わっただろ」
少しおどけてみせた名前が、はあ。と隣でため息をついた。
そして、俺の方に向き直る。
俺よりずっと細い指先が、俺の髪を撫でた。
「そんなにさ、生き急いでも仕方ないじゃん。」
「別に生き急いでなんか、」
「人間が死ぬのって、わりと突然だよ。」
彼女の手が、今度は俺の頬に触れる。
彼女の方に目をやると、名前は少し悲しそうで、でもどこか達観したような顔をした。
「その時にさ、今までの人生を多少なりとも振り返ってさ。
そんで、"ああ、もう少しゆっくり生きてたらな"って、きっと思うよ。
私だったら、きっとそう思う。」
静かな寝室。
名前が小さく独り言みたいに呟く声だけが空気を少しだけ揺らす。
「いつ終わるか分からないじゃん。
私たち呪術師は尚更。
だったらさ。
かきこまないで、ゆっくり味わっておけばよかったなって……たぶんそう思う。」
少しずつ重くなってきた瞼を上げて名前を見ると、彼女は穏やかに微笑んだ。
「恵の性格は分かってるつもりだよ。
すり減らしてるつもり無いことも。
でも、今日だけはさ、ちょっとゆっくり休もうよ。」
頬を撫でていた手がそっと目元に被せられて、促されるままに目を閉じる。
「自分を犠牲にするのは、いざと言う時だけでいいよ。」
「……名前。」
「んー?」
「……悪かったな。」
「ありがとうで良いんよ」
額に、柔らかい感覚。
ありがとう。と絞り出した俺の声はずいぶんと掠れていて、でもちゃんと名前には届いたみたいだ。
「おやすみ、恵。」
「ああ……おやすみ、」
ゆっくり意識が沈んでいく。
大好き。と遠くで小さく聞こえた。
「愛してる」
柄にもなく言ってみようかと思ったが、それが声になる前に、俺の意識は深い眠りに落ちていった。