無題
夜もかなり更けて、時計は3時を示そうとしているところ。
仕事終わりの私は帰り道を急いでいた。
「やばい、やばい……絶対やばい、あれはやばい、」
昼間は賑やかな通りも、今の時間は人ひとり見かけなくなる。
この不気味な沈黙をかき消したくて、でも「やばい」以外に語彙が出てこない私の独り言は、虚しく暗闇に吸い込まれて行った。
がちゃがちゃと慌てて鍵を回して、ばん、と夜中にも関わらず荒々しくドアを開ける。
そのまま荷物を放り投げて、一直線にベッドの膨らみに抱き着いた。
その膨らみが、小さくびくっと揺れて、ゆっくり私を振り返る。
「んっ……ナマエ……?」
「く、くらうどぉ……」
ぼうっと私を見た彼の目が、私の半泣きの情けない声を聞いた途端、ばっと見開かれた。
「ナマエ、どうしたんだ」
慌てたように電気をつけて、私としっかり目を合わせてくれる。
それから頬を撫でて、包むように私を抱きしめる彼。
その腕の暖かみに、心が安心感で満たされていくのが分かる。
そのまま彼の胸に擦り寄ると、クラウドは私の顔をそっと覗き込んだ。
「何か、あったのか?」
彼の言葉に「うん、」と頷くと、「聞かせてくれないか。」と、彼は優しく私の頬に口付ける。
私は、恐る恐る口を開いた。
「……私、見ちゃったの。」
「つまり駅の前を通った時に、あんたは足の無い女を見た。それはきっと幽霊だと、そういう事か?」
呆れ顔でベッドに腰掛けた彼が、はぁ。とため息をついた。
「ほんとなんだって!!!
足がなくて、服には血がついてて、じっとこっちを見つめてたの!!
あれは絶対に幽霊だよ、間違いないんだよぉぉ!!!」
その肩を掴んで思わず揺らすと、がくがくと揺れる彼の金髪。
その目はまるで、「夜中に叩き起しておいて、心配させたと思ったらそんな事か。」とでも言いたげだ。
分かってるよ、自分でもかなり非現実的なこと言ってるって。
でも、怖くて不安でたまらなくて、こうやって走って帰ってきたのに。
「……本当に、怖かったんだよ……?」
思わず、小さく呟く。
その声に、クラウドは私の肩を抱き寄せた。
「分かった。
明日は俺が迎えに行くから、一緒に帰ろう。
……そもそも俺はあんたが働き始めた時から、こうやって夜中に1人で帰って来させる事には反対だったんだ。」
言いすぎた、謝る。と私の腕をぽんぽんと撫でる彼の手を握って、私は小さく頷いた。
仕事も終わって、昨日と同じ夜中の3時前。
裏口から出ると、クラウドが壁によりかかって私を待っていてくれていた。
「ナマエ、お疲れ様。」
「うん。待たせてごめんね。」
「俺もちょうど来たところだ、大して待ってない。」
行こう。と彼が差し出した手を握って、私たちは歩き出す。
幸せな気分もつかの間、ついに私たちはその駅の前に差し掛かった。
思わず強く握ると、しっかりと、でも優しく握り返してくれる彼の左手。
意を決して、そっと、私は視線を駅に向けた。
「……あれ?」
薄目にしていた目をひらいて、キョロキョロと見回す。
「……なにもいない……」
そこに、昨日見たはずの不気味な女の人はいなかった。
いつも通りの、夜中の静かな駅。
見つめていたところを、1本電車が通り過ぎていく。
「……ごめん、クラウド。
私の見間違いだったみたいだね……」
最悪。完全にただの迷惑女じゃん、こんなの……
申し訳なさと共に彼を見上げる。
……そのエメラルドの瞳は、駅の方を向いて見開かれていた。
「……クラウド?」
「ナマエ、急ぐぞ。」
「う、うん……?」
何かを避けるように、クラウドが私の手を引いてずんずんと歩いていく。
速度が早くて小走りになりながら、私たちは家にたどり着いた。
「あの……クラウド……?」
さっきから一言も話さないクラウドの顔を覗き込むと、その目は何かを思い出すように、虚空をじっと見つめている。
「ナマエ、仕事の時間は変えてもらえ。」
「はっ?どうしたの、いきなり。」
「昼間にして貰えるように頼んでくれ。
それと、行き帰りはこれから毎回俺が一緒に行く。」
いいな。と私を見つめた彼に、とりあえず頷いた。
……それにしても、何かが引っかかる。
妙な違和感を覚えつつ、お風呂に入って、歯を磨いて……
彼の腕枕に身を預ける。
今日あった事や、他愛も無いことを話すこの時間が、私は好きだ。
彼の手が私の髪を撫でて、私はその手にキスをして。
すると、彼の腕が突然私を引き寄せた。
そのまま首元に鼻を埋められて、首筋にちくっと痛みが走る。
私も何となくその気になってしまって、彼の髪を撫でて目を閉じた。
ふと、思い出す。
どうしてあの駅、あんな時間に電車が通って行ったんだろう。
……人なんて、居るはずないのに。