花の中だった。
 起き上がってみると花びらが散って匂いがむっと広がった。上を見上げると高くそびえた樹の枝の向こうに青い空があった。ゆっくりと視点を下ろし、花畑を見渡す。森の中にあるようだ。見覚えのない場所。これは夢だろうか。なまえはゆっくりと立ち上がり、スカートや髪についた草を払う。土や青臭い植物の匂いは本物と遜色ないほどリアルだ。とりあえず歩いてみる。花畑は思ったよりも広く、森に辿り着いた頃には少し疲れを感じた。
「……迷子かい、お嬢さん」
 森のなかへ立ち入ろうとしたとき、背後から声を掛けられた。振り返ると、金髪の男がいた。
「迷子……かも。ここがどこだか知らないの」
 夢の中だからだろうか、こんなに美しい男が目の前に現れるのだから現実ではないのは確実だ。
「それは困ったね。では、俺が出口まで案内しよう」
「助かるわ」
「さあ、手を取って」
「え」
 気安く受け答えをしていたが、いざ目の前にしなやかな白い手を差し伸べられると、簡単に取るのは躊躇した。
「あ、私なまえって言うの!あなたは?」
 かといって拒否するのも気が引けるので、気づかない振りをして話をすり替えてしまうことにした。金髪の男はそれがわかったのか、わずかに苦笑を零したがすぐに愛想のいい笑顔に替え、差し伸べていた手は胸元に引き寄せた。
「名も知らぬ男相手では警戒するのもやむなしだったね。失礼、なまえ。俺はダリウス。この森の奥にある邸に住んでいるものだ」
「ダリウス。ごめんなさい。よければ森の外へ出る道を教えてくれる?」
「それでもいいけど、この森は少々厄介でね。もし君がいやでなければ、行程を省くこともできるのだが」
「行程を省く? 歩くんじゃなくて飛ぶとか?」
「あはは。当たらずとも遠からず、かな。面白い発想をするね。そう、俺は森の外まで一瞬で飛ぶことができるんだよ」
「わあ、すごい。さすが」
 夢、と言いかけてなまえは口を噤んだ。
「いいさ。ここに踏み入ったからには、俺の正体もわかっているんだろう」
 ダリウスはそんななまえの態度を見て、目を細めた。なまえはちょっと息を飲んで、慎重に口を開く。
「まさか、本当に夢なの?」
「え?」
「綺麗なお花畑で目覚めたら、こんなに綺麗な男の人が現れるなんて、できすぎた夢だとは思うけど、でもあんまりリアルだし、こんなの初めて見るわ」
「待って、なまえ。これが夢だって?」
「そうでしょう?」
 この素晴らしい夢を、目覚めた後も覚えておければいいのに。もしかしたら、普段もこんな夢を見ているけれど、すべて起きた時に忘れてしまっているのかもしれないと思いあたって、とてももったいない気持ちになった。
「ふむ。なまえ。一つ確認させてもらっていいかい?」
「どうぞ」
「君はこの森がなんという森か、知らずに立ち入ったのかい?」
「知らないよ。立ち入ったというか、眼が覚めたらそこにいたの」
 なまえはダリウスの後ろ、さきほどまで自分が横たわっていた辺りを指さした。
「見覚えない場所だったから、とりあえず歩いてみようと思って。森に入ろうとしたところであなたが声を掛けてくれたの」
「……気がついたらここにいたって? それまではどこにいたの?」
「……どこだろう。たぶん、ベッドで寝てるんだと思うけど」
「寝ている? 自分の部屋で寝ながら見ている夢の中にいる、と君は考えているんだ?」
「そうね」
「確かに……君のいうことがほんとうなら、夢だとでも思うしかないだろうね」
 ダリウスは何が気になるのか、やたらと首を捻っている。彼は自分が夢の中の登場人物だという自覚がないのかもしれない。
 だったら、あまり夢だというと混乱させてしまうかも。
「まあ、私のことはなんでもいいじゃない。とにかく、ここを出たいの。空を飛べるなら、それでもいいから出してもらってもいい?」
「もちろん。でも、俺は君に興味が湧いた。もし急いでいるのでなければ、少し俺の邸に寄ってお茶でも飲んでいかないかい?」
「急いではいないけど……」
 どの辺に興味をそそる要素があっただろう。だが断るのももったいない。どうせ夢なのだ。
「せっかくだし、お誘いを受けようかな」
「ありがとう。では、お手をどうぞ。邸まで飛んでいこう」
 さきほどは躊躇ったが、今度は迷わず、なまえはダリウスの手を取った。




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