他の階層と比べると、ここはまだ整然としていた。人が住むのに適した空間と言える。もしかしたら、都市の中心部に近づいているのではないかと思えるくらいだった。
都市が暴走し、無限に増殖をし始めることになった、その基点。
そこはもしかしたら、建設者の手は及んでいないかもしれない。彼らが外へ向かって一直線に飛び出していったとしたら。
だがここにも人の気配はない。しかし、これほど落ち着いた景観が続くと、期待してしまう。ここに、ネット端末遺伝子を持った人間が生き延びているのではないかと。
沈黙は破られた。現れたのは珪素生物だ。
彼らは巨大な実験施設にいた。まさしく装置を起動したところだったらしく、何もない空間に、プラズマのような稲光が発生する。光はどんどん大きくなる。霧亥は考える前に重力子放射線射出装置を、装置を操作している珪素生物に向ける。
「やめろ!」
横合いから別の珪素生物が飛び出してきた。腕を弾かれ、射出装置の銃口が目標から外れる。外れた弾丸は天井に穴を開けた。開いた穴からばらばらと瓦礫が崩れ落ち、光に吸い込まれていく。光は周囲のものを吸収し、さらに大きく膨れ上がっていった。
「なんてことを……!」
「磁場が乱れた!」
「離れろ!」
「吸い込まれる!」
実験を見守っていた珪素生物たちが、光から逃れようと散らばり始める。逃げ遅れたものの足が光に掬い上げられ、見る間に光に飲み込まれた。霧亥は射出装置を珪素生物に向けようとしたが、光の膨張速度に気づくと撤退しようとした。
「逃がさん! われわれの前から消えろ!」
――永遠に!
珪素生物が霧亥に飛びついた。霧亥の足が地面を離れる。抗いがたい力が霧亥の背中を捕らえた。珪素生物の腹に重力子放射装置を一発見舞う。珪素生物の恨みは深い。霧亥の視界は光に包まれた。
着地したと知覚した瞬間受身を取り、しがみついている珪素生物を引き剥がした。息絶えた体は最後の瞬間に発揮した力のまま凍りついたようで、信じられない力で霧亥の背中に指を立てている。
「きゃああ!」
女の悲鳴が聞こえた。珪素生物ではない。
人間か。
霧亥は急いで振り返る。視界に珪素生物ともうひとつの小さな影が見えた時、引き金を引いた。カチ。空振り。故障を示す文字は網膜には何も映っていない。エラーメッセージだけではない。どんな数字も見えなくなっていた。
がしゃん、とやたら軽い音を立てて珪素生物の体が倒れた。しかし霧亥は何もしていない。その体には傷ひとつついていないように見えるにも関わらず、珪素生物はエネルギーが切れたかのようにその場に息絶えていた。
「誰……?」
もう一人は少女だった。珪素生物を目前に腰を抜かしたまま、霧亥を見ていた。この場で呼吸をしているのは霧亥と少女だけだった。
「人、間?」
霧亥はそれを知るすべを持たないことを思い知った。網膜走査ができない。周囲を見渡そうとして、目が痛んだ。そのまま目が眩んで開けなくなる。手で光を遮り、なんとか瞼をこじ開ける。頭上に影が指した。少女が恐る恐る、霧亥を覗き込んでいた。
「大丈夫ですか?」
霧亥は彼女の背後に広がる青い天井に、眩暈を覚えた。
「ここは……どこだ」
「怪我してるんですか? 立てますか?」
少女に促されて、霧亥は立ち上がるが、ひどく足元が覚束ない。あの光はなんらかの転送装置だったのだろうか。周囲の景色はまったく見たことのないものだった。
足元の舗装はやけに拙く、頭上が開けている。風が通り、複雑な、嗅いだことのない匂いが辺りを包んでいた。
「軍服……? じゃないか。変わった格好……。どこか、痛いところはありますか?」
少女は霧亥の服装に戸惑っていたようだが、それ以上にその身を案じてくれていた。
「……いや」
霧亥は自分の体を確かめる。痛むところはないようだった。だが、なんだか違和感がある。転送されるときに、何か変異しただろうか。
モニタが働かないからそれもわからない。充電は足りているようだ。しかし射出装置は相変わらず沈黙している。自分の手から電力がまったく届いていないようだ。何らかの妨害電波で阻害されているのだろうか。それもわからない。
霧亥は少女の瞳を覗き込んだ。複雑な溝の刻まれた虹彩は潤んでいて美しい。セーフガードではあり得ない。
「君は……ネット端末遺伝子を、持っているか」
期待があった。
しかし彼女は不思議そうな顔をするだけだった。
「ネット……? ええと、携帯ならありますよ」
少女は手のひら大の端末を取り出して見せた。
「携帯、なくしちゃったんですか? 誰かに電話するなら、貸しますよ。それとも、何か検索しますか?」
彼女の言葉に、霧亥の方が困惑することになった。今までこんな反応をした人間はいなかった。誰もネットなど知らない。
「君は、ネットスフィアに接続できるのか?」
「その……4G回線は接続されてますけど……? Wi-Fi接続するなら、うちに帰らないとだめですけど」
「君は科学者なのか?」
「普通の学生ですけど……」
怪訝な顔をする彼女が身を引く素振りを見せたので、思わず霧亥は彼女の腕を掴んだ。
「は、離してください!」
「教えてくれ。君はネットスフィアに接続できるんだな?」
「わかりません」
「ネットスフィアを知らないのか?」
「知りません!」
目に涙を浮かべて訴える彼女の顔を見つめ、霧亥は言葉を失った。それ以上、どう尋ねればいいかわからなかった。
彼女はネットスフィアを知らないのだ。
接続する手段を持っているというのに!
「なら――一緒に来て欲しい。接続端末があるところに」
「端末ならここにあります」
「そこからネットスフィアに接続できるのか?!」
「もう、わけわかりません!」
彼女は怒りをあらわにすると、霧亥の手を振り払った。霧亥は呆然とその背中を見送るしかなかった。
ようやく見つけたと想ったのに――その真贋を見極める術を失ってしまった。霧亥は足元に転がる珪素生物を調べた。やはり事切れている。接続端子を確認し、珪素生物同士を繋いでみたが、電流が発生する様子はなかった。からっぽだ。
「……なぜだ」
網膜に何も映らないという状態が始めてで、戸惑う。目に映る景色はあまりにも今まで知っていた世界と違っていた。天井がまず、青い。しかもどうやら信じられないほど高い。珪素生物が観測していたあの天球とは毛色が違う。ここは妙に、清々する。
霧亥は振り返る。灰色の地面と、その両側に続く背の低い建築物があった。建築物には、ところどころ緑色の何かがあった。霧亥は不可思議な質感のそれに手を伸ばす。嗅いだこともない匂いがした。薄い緑色の板状のものが何枚も折り重なっている。そのうちの一枚を剥がしてみる。濃い匂いが香った。歯で噛んでみる。苦い汁が口の中に溢れた。不味い。食べ物ではないらしい。しかし水分を含んでいる。
霧亥は少女が去った方向へ目を戻した。やはり、手がかりは彼女しかない。
霧亥は歩き出した。
やがて霧亥は少女を見出した。少女の方が霧亥を待っていたのだ。
「……どうしても、あなたの様子が気になって……」
少女は警戒しながらも、霧亥を探る。
「放っておけなかったんです。もう、突然掴まないって約束してください」
「……わかった」
霧亥がうなずくと、少女は少しほっとした。
そして、小さく笑みを作った。
「私はなまえ。あなたは?」
彼女の名前に、霧亥の胸が懐かしさにうずく。そうだ、あの球体は。霧亥は懐を探り、それがないことを知る。あの光を抜けたときに、残してきたのか。
「俺は……霧亥」
どうにかして、あそこへ戻らねばならない。
だが、ここへ転移した理由を知っているだろう珪素生物は絶えてしまった。
「霧亥? そう。よろしくね。その……失礼なことを聞くけれど、あなたは迷子なの?」
「……帰るところは、ない」
あの都市へ続く道を、どう探せばいいものか。
こんなとき、彼女ならどうするだろう。
「霧亥、知り合いはいないの?」
「いない」
「頼れる相手は?」
霧亥はただ沈黙した。そう、となまえは項垂れる。
「それじゃあ……心細いね」
心細い。そうだろうか。霧亥はずっと一人だった。何人かと言葉を交わし、ときに行動を共にしたことはあるが、必ず別れはやってきた。シボとだって。
「帰る方法が、わからない」
「じゃあ、わかるまでうちにいたらいいよ」
なまえは霧亥に手を伸ばす。
「大丈夫。一緒に探そう」
霧亥は恐れを知らない少女の顔を、じっと見つめた。
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