静かな午後の昼下がり。
 特にすることもなく、二人は同じ部屋にいながら、会話もせず、目を合わせることもなく、別々に過ごしていた。無視をしているわけではなく、互いの呼吸音は聞こえていた。
 なにかしたい気分ではない。かといって眠るのもなんだかもったいない。なまえはぼんやりと見上げていた天井から視線を下の方へ写し、視界にムリョウの姿を収めた。
 ムリョウは丸く瞳を見開いて、窓越しに空を見上げていた。鳥は飛んでいない。よく晴れた青い空を、白い雲がゆっくりと形を変えながら、東から西へと流れている。
「何が見えるの?」
「空」
 ムリョウは明瞭に答えた。だが、その瞳に写っている空が、なまえとまったく同じものであるはずがなかった。彼は銀河の果てまでも見通せる。しかしそれはどんな光景なのだろう。なまえには想像もつかない。
「どんなふうに見えるの?」
 だから訊ねてみた。ムリョウは不思議そうに、なまえを振り返った。
「どうって?」
「冥王星とか。見える?」
 当てずっぽうに言ってみると、ムリョウは笑った。
「今、冥王星はあっちの方だよ」
 ムリョウはなまえの少し前の床を指さした。なまえは畳を見下ろしてみる。この地面の裏側に、ちょうど冥王星があるらしい。なまえには色あせた畳の目しか見えない。
「じゃあ、何が見えるの?」
「青い空だよ」
「宇宙って、青いの?」
 ムリョウはまたなまえの顔を見た。どうしてそんなことを言うのか、真意を探ろうとする視線。なまえは、もしかしたら自分は少しふてくされた顔をしているかもしれない、と意識した。
 別に、いやなわけじゃない。
 彼が人間とは少々違っていることは百も承知だ。
「君も知ってるだろ? 宇宙は真っ暗だよ」
「肉眼で見たわけじゃないからなぁ」
「はは」
 冗談めかして答えると、笑われた。サワヤカな笑顔だ。
「どんなふうに、空は広がってるんだろ」
 あなたの頭上に広がる空は。
 何色をしているんだろう。
 ムリョウは目を細めるだけで、何も答えようとはしなかった。
 しばらく二人は黙って空をみあげていた。なまえはごろりと寝転がり、仰向けで、顎を少し上げて、傍から見ればだらしなく、本人にとってはいささかきつい体勢で。ムリョウはあぐらをかき、いつもまっすぐな背筋をやや丸め。
 やや間を開けて、ムリョウはなまえを振り返った。
「君には、どんなふうに見えてるの?」
「どうって、ふつーの青い空だよ」
「それって、どんな感じ?」
 どうって。なまえは答えに窮する。青い空は、青い空で。ごくごく普通の、青色で。
 ムリョウは無邪気に、なまえの答えを待っている。ああ、これは答えるのが難しいなぁ。なまえはムリョウから目を反らし、また空を見上げてみた。心持ち、青の色がくすんできた気がする。夕焼けが近い。
 その人の眼球を通った光が、その人の視神経をどう通り抜け、どんなふうに像を結んでいるのか。それを知るすべは何人も持ち得ない。
 たとえ相手が宇宙人でなかろうと、女性と男性とで既に感知できる色数はずいぶん違うそうだし、親兄弟だって視野を共有するなんてことは無理なのだ。
 どんな人とだろうと、まったく同じものを見るなんてことはできない。それは、ムリョウが見れないなまえの見ている景色にも、言えることだった。
 それなら、どうする。
 それでも、同じ景色を望むなら。

 よし、絵を書こう。
 あれ以来ずっと考え続けて思いついたアイデアはそれだった。
 なまえは仕舞いこんでいた画材道具を取り出し、水彩画に取り組み始めた。目には、さっきまでムリョウと一緒に見ていた青空が焼き付いている。絵の具を混ぜて、白い紙の上に再現しようとしてみたが、どうにもうまくいかない。
 これは二人で見上げたあの空とは違う。
「何描いてるの?」
 ほぼ出来上がったところにムリョウがやってきて、なまえの手元を覗きこんだ。
「青空」
 なまえは青で塗りつぶした紙面をムリョウに渡した。ムリョウは受け取った。二人はそれを覗きこんだ。
「私に見える空は、こんな色してるの」
「うん。俺の見る空と、一緒だ」
「一緒だった?」
「ああ。うまいね」
 ムリョウはそう言って微笑んでくれる。わかってくれた? この絵を描いた意図を、理解してくれた?
 願いを込めたなまえの眼差しを受けて、ムリョウはやはり優しく微笑む。
 二人の見る空は違う色。でも。
 これは二人で見ることのできる、同じ色の空。

 人々はそれぞれ、まったく違う景色を見てる。
 そこのところを理解できたら(それがすごーく難しいわけだが)、あとは想像するだけ。
 彼の立つ場所から、一体どんな景色が見えるのか。
 彼に寄り添うために。諦めるわけにはいかない。ずっと、想像し続ける。

 あなたが見つめ続ける空の向こうの宇宙の光景を。



戻る 進む