水嶋郁とは天文学の講義で知り合った。星が好きだというからサークルにも入るつもりかと訊ねたが、そういうのはいいんだと面倒くさそうな顔をされた。
「でも、君がいるなら考えてみようかな」
「遠征してあちこちに星を見に行くみたいだから、興味があるなら来てみたら?」
「へえ、気合入ってるね。連れてってよ」
 水嶋はサークルに入った。けれどあまり活動には参加せず、たまにふらりと顔を出す程度で、熱心さはまるでなかった。
「やあ、おはよう」
「もう昼よ」
 講義が始まる五分前に教室に入ってきた水嶋が私の前に座った。
「ちょっとノート見せてくれない? 前回どこまでやったか忘れちゃってさ」
「眠そうね。また夜遊び? ほら、ここからよ」
「ありがと。助かる」
 水嶋は軽薄な笑みを浮かべて私の机に肘をつき、パラパラとノートを捲った。
「ああ、そうか。前回はここまで進んだんだった……ん」
 水嶋のポケットで携帯が震える。水嶋は通話ボタンを押した。
「もしもし? うん、待ってたよ。今夜? もちろん空いてるよ。ふふ、僕もさ。楽しみにしてる」
 長々と話をして、電話を切ったのは教授が入ってきてからだった。
「あーあ、教授来ちゃった」
「居眠りしないでよ」
「しないよ。ノートありがと」
 水嶋の頭をノートで叩く振りをする。水嶋は片目を瞑り、ホワイトボードを向いた。

 あるとき、サークルの友人に好きな人がいることを打ち明けられて驚いた。なんとあの水嶋郁だ。
 彼は女性関係の派手なことで有名だ。何人もの女を泣かせている。私も何度かその現場を見てしまった。不快なことにこういう男でも惹かれる子は後を絶たないようで、自分だけは本気で付き合ってもらえると思い込んでしまうのかなんとも可哀想なことだと傍から見ていて勝手に憐憫を覚えていたのだが、まさか友人までそんなことを言い出すとは。
「知ってるでしょう? やつの噂は。サークルにも講義にも熱心じゃないし、取り柄といったら顔くらいなものよ」
「ひどいよ、悠香。言いすぎだよ」
「夢乃」
 彼女はかたくなだった。男を見る目はあると思っていたのに。水嶋が珍しくサークルに参加したときに話をして、すっかり惚れてしまったらしい。
「悠香、水嶋くんと仲いいんでしょ? お願い」
「いいわけじゃないよ。講義があるときにノート貸すくらいで」
 彼女の真剣な様子を見ていたらあまり言葉を極めて水嶋の悪い部分をあげつらうのも気が引けて、結局講義が終わったあと、水嶋と三人で昼食を摂ることを約束させられてしまった。
「ねえ、レポートもう手を付けた?」
「一応、テーマはまとめたけど」
「さすが、早いね。今回はそんなに枚数もいらないし、テーマさえ決まっちゃえばすぐできそうだよね」
「まあね。他の教科でもやることがあるから、助かったかな」
「鳥遊里は他に何受けてるんだっけ?」
 水嶋は私のことを苗字で呼ぶ。たいてい彼は女子のことを名前で呼ぶから、私のことはそういう目で見てないんだろうと思う。もしそうじゃなければ、こんなふうに話したりはしていなかっただろう。女にだらしない奴と友人のように接するのは単に向こうがそういう態度でくるからだ。だから水嶋に想いを寄せる乙女たちに羨ましがられるようなポジションでは、決してないのだけれど。
「あ、水嶋。講義のあと予定ある?」
「お昼でしょ。なんで?」
「じゃあ学食でも行かない?」
「へえ、まさか君からお誘いを受けることがあるなんてね。驚いたよ」
 そういう意味じゃないと、私は顔をしかめて否定した。
「同じサークルの小田切夢乃。知ってるでしょ。あの子も一緒だから」
「ああ、夢乃ちゃんか! 了解。喜んで行くよ」
 水嶋はすぐに私と夢乃の考えを読み取ったらしく、ひどく浮かれた声を出した。
「てっきり君の提案だと思ってぬか喜びしちゃったなぁ。残念」
「嘘言わないで。私がそんなこというわけないってわかってるでしょう」
「厳しいなぁ。ま、そういう君だからいいんだけどね。いつもありがと」
「感謝の気持ちがあるならお昼ぐらい奢って欲しいものだわ」
「ええ、そんなこと考えてたの? やだなぁ、恩着せがましい」
「……もう二度とノート見せてあげない」
「冗談です、ごめんなさい」
「こちらこそ。あんたと顔付き合わせてご飯食べるなんて考えただけでぞっとしないわ」
「はは、言えてる」
 講義が終わったあと、私は水嶋を学食に連れて行こうとしたが、水嶋がこういうときは気を利かせるものだよ、といって一人で行ってしまった。夢乃にメールをしておいたが、返信は来なかった。時間が空いてしまったから購買でパンを買い、中庭で本を読みながら昼休みを過ごした。
 その日の午後、夢乃からご機嫌な報告をもらった。幸せそうな笑顔が長く続けばいいと願いたかったが、もって二週間だろう、なんて考えてしまう自分が嫌だった。
 破局は早かった。夢乃は泣きながら水嶋が冷たいと訴えた。
 わかっていたとはいえ、実際こうなってしまうと辛い。彼女の泣き顔に胸を痛めながら、講義開始ギリギリに現れた水嶋を捕まえた。
「水嶋。初めからその気がないなら付き合ったりしないで」
「その気って?」
 水嶋はとぼけた顔をしてみせたが、私が睨み続けるとやれやれと肩を竦めた。
「向こうだって、僕のことちょっといいなって思ってただけでしょ。だからあんな簡単に告白できる」
「人の気持ちを勝手に想像して、陳腐化しないで。あなたはいつもそうやって人を傷つけてるの、わかってるんでしょう」
「そうだったの? 僕は充分尽くしたつもりだけどなぁ。デートして、甘い言葉を囁いて、お互い楽しく時間を過ごす。それ以上に何があるの?」
「自分の刹那的な楽しみのために女の子を翻弄してる」
「向こうだって承知の上じゃないか。僕にこれ以上何を求めるっていうんだよ。浮気したわけじゃなし」
「夢乃を傷つけて泣かせたわ。私は許さないから」
「なんで君が怒るのさ。友達だから? 美しい友情ってやつ?」
「茶化さないで。あんたのそういうところが頭に来る」
「僕も君の真面目ぶったところが大嫌いだよ」
 水嶋の巫山戯た返答を聞くたびに今まで押さえ込んでいた苛立ちがふつふつと湧き上がり、抑えきれなくなった。
「あんたが誰かを泣かせたって話を聞くたび腹が立った。傷ついてる女の子を見るたびやるせなかったのよ」
「優しいことだね、まったく。君には関係ないことなのに」
「あんたが私の知らないところでやってるなら関係ないことでしょうよ。でもあんたは同じ大学で、私の目につくところで派手にやってる。もう無視できない」
「だったら何? 説教でもする?」
 これまでこれほど怒りをあらわにしたことがあっただろうかと自分で訝しむほどの怒気を真正面から浴びせられながら、まるで意に返そうとしない水嶋に、これは生温いことでは彼の耳を風か説法のごとく通り過ぎてしまうだけだろうと思った。
 もうやってられない。
 決意は固まった。
「彼女を作らせないわ」
「はぁ? なにそれ。どうやって」
「私が邪魔するから」
「なんでわざわざそんなこと」
「あんたが女にだらしないことは知れ渡ってるのに、それでも女の子はあんたに惚れずにはいられない。だからそれは止められない。でも実際にあんたのお遊びに付き合わされて傷つくことは止められる。あんたと付き合わなければいい」
「あっそう。それはその通りだね。でも、君にそんな権利ないでしょ? 僕が恋人を作るのを、誰かに邪魔されるいわれはないね。侵害だよ」
 水嶋の笑顔が崩れ、不快感が露わにされた。
「権利はある。私は傷ついた子達を見てきた。彼女たちの悲しみ、苦しみを見てきた。こんなこと、長く続けるものじゃないわ」
「それこそ、君には関係のない話じゃないか。勝手に被害者ぶる彼女たちの代弁者にでもなったつもり? 偉くなったもんだね」
「あんたがやりすぎてるの。いい加減周りを見て」
「周りなんかどうでもいいよ。っていうか何、急に? もしかして僕が女の子といるの見て嫉妬しちゃった? 実は君って僕のこと好きだったんだ?」
「むしろ逆よ。見ていてイライラするわ」
「それはどうも。……だったら無視すれば?」
「できないって言ってるでしょ。できたら苦労しないわ。あんたみたいな面倒なやつ、関わらずに済むならその方がいいに決まってる」
「ひどいいい様だな。なんで僕、ここまで言われなくちゃならないわけ? 友達のために復讐?」
「そうじゃないわ。復讐なら本人がやらなくちゃ意味がない。そうじゃなくて、私はあなたを放っておけない」
 水嶋は失笑を零す。
「ほら、やっぱり僕が好きなんだ」
「あんたが納得するならそれでいいわ。とにかく私はあんたの側にいて、あんたが彼女を作るのを阻止する」
 一拍、沈黙があった。
 水嶋はレンズのない眼鏡の奥の瞳をやや細める。おちょくるような嘲笑も、おどけるような嬌笑も消え、まるで無感動な表情が私に向けられた。背の高い彼の、偽ることのない眼差しがひたと、高みから私の顔面に刺さる。
「恨まれるよ。そこまでする理由なんて、本当に君にはないじゃないか。無駄どころか、大損だよ」
「あんたが彼女を捨てるような真似をしなければ大損をしなくてすむわよ」
「そんなこと君に約束できないね。どうしてしなくちゃいけないんだ。僕の勝手にさせてくれ。干渉するなよ」
 もはや彼は繕っていなかった。今まで振った女の子にどれだけ泣かれ責められても、彼女を奪われた男が胸ぐらを掴み拳を振り上げても止むことのなかった薄ら笑いは完全になくなり、拒絶だけが明確に示される。
「なら私に干渉するのもやめてちょうだい。私の友人に、学友に干渉するのもやめて。付き合うなら学外の人にして」
「自分の目に入らなきゃ、何が起きてもいいんだ?」
「自分の目に入らない悲劇をどうやって認識するの?」
「まったく、口だけはやたらと回る……。はあ、こんなにわけがわからない人だとは思わなかったよ」
「あんたほどどうしようもなくはないわ。そういうことだから、今日は一緒に帰りましょう」
「はあ? 冗談だろ」
「彼女と別れた一時間後には新しい彼女を作ってる男にやりすぎということはないと思うわ」
「信じられない。どうかしてるよ」
 水嶋は頭を抱える。私は気にせず荷物をまとめ始めた。
「恋人の不在に耐えられないなら私を恋人だと思えばいいわ」
「君が? 僕の? 笑えないね。ねえ、僕だって誰でもいいってわけじゃないんだよ。はっきり言わせてもらうと、君は常軌を逸してる」
「自覚してよ。あんたも大概だって」
「あのねえ、話をすり替えないでくれるかな」
「もうずいぶん遅いのよ。帰りましょう」
「一人で帰れば」
「残って勉強でもするつもり?」
「こんなんじゃ、女の子を口説く気にもなれないよ。これでいいだろ」
「そうね。口をきいてもだめよ」
「君に指図されるいわれは……っ」
 私は水嶋の口を塞いだ。これで彼は女を口説けない。
「わかった?」
「……ちょ、ちょっと何するのさ……!」
 怒る水嶋を置いて私は大学を後にした。
 水嶋。私はたまらないんだよ。
 何にも興味を抱かず、徒花にうつつを抜かして無意味に心を消耗し、それに気づかずただずるずると深い沼に落ち込んでいく姿を見ているのが、痛々しくて。



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