■ 手ずからの寵に焦がれて
 朝が来なければいい。ディミトリは再びそんなことを思った。ベレスは疲れ果て、そのまま眠りに落ちていった。ディミトリはすぐ隣の、彼女の眠る姿を見つめる。頬には未だ涙のあとが残っていた。
 本当にあんなことをしてしまう、なんて。彼は大きく息を吐きだした。本来であれば、ああいった行為は心を通わせ合った者たちがすること。自分たちはそういった関係で無いくせに。ディミトリは彼女に惹かれてはいるが、想いを口にするつもりはなかったし、口にしたところで彼女は受け入れてはくれないだろう――そう思っている。
 それでも、朝が来なければいいと願う。このまま、永遠に時間が止まってしまえばいいとさえ思う。彼女とこうして過ごす時間が終わらなければいいと思うのだ。そんな願いを繰り返したところで、叶うわけはないと分かっている。時は流れる。夜は死んで、朝が来る。それが世界の理だ。
「ん……」
 ベレスが声を漏らした。ゆっくりと瞼が開く。睫毛の先にある瞳は、いつもと同じエメラルドグリーン。しかしどこか艶っぽく見える。不躾に彼女の寝顔をずっと見ていたディミトリは、目を覚まし、だがしかしまだ虚ろな表情の彼女に何を言えばいいか分からなくなってしまった。
「……ディミトリ」
 先に口を開いたのはベレスだった。やや舌っ足らずな声なのは、先程まで交わっていたことが影響しているのだろう。ディミトリは無言のまま、彼女を見た。彼女はそのまま上半身を起こし、そして手を伸ばしてくる。無意識に彼はその腕を掴んだ。細い腕だ、剣を振るっている割には。そんなことを考える余裕があることに、ディミトリは驚いた。
「ここに、いて……」
 そんなベレスの言葉に、ディミトリは戸惑う。どうした、と問いかけようとして、やめた。またしてもベレスの瞳に涙がうっすらと浮かんでいるのが見えたからだ。もしかしたら、彼女は夢でも見たのかもしれない。悲しい夢を。
「ああ、先生……」 
「……ありが、とう」
 なんとか頷いたディミトリに、ベレスはやっと微笑んだ。本当に僅かな笑みではあったが、ディミトリにはよく見えた。まだ部屋の中は薄暗いというのに。そんなやり取りのあと、ディミトリはベレスにもう一度眠るよう促した。活動を開始するべき時間は、まだ遠い。ベレスは小さな声で答えると、ベッドに横たわった。すぐに寝息が聞こえてくる。ディミトリは眠らない。そのまま、じっと彼女を見ていた。朝がその姿を見せるまで。
 
 * * *
 
 幾ら常闇を望んだところで夜は去り、果てしない空は青色に塗り替えられる。雲ひとつない晴天。大地には雨の痕跡といえる水溜りが幾つか残されている。草木もしっとりと濡れているのが分かる。ディミトリはベレスが願ったように、ずっと彼女のそばにいた。一睡もしていないのに、嫌な倦怠感はない。しかし心が空のように晴れやかかと言うと、そうではないのだけれど。
 朝が来るまで、ディミトリはベレスを見ていた。その間、彼女の寝顔が僅かに歪むのを、何度か見た。なにか悪い夢に魘されているのだろうかと思い、起こそうとしてその度に踏みとどまった。何故かは自分でも分からない。
「ん、んん……」
 時計が朝の五時少し前をさした頃、ベレスの瞼がそっと開かれた。まだ覚醒しきっていない目はとろんとしており、昨晩の行いを思い起こさせる。衣服を着たら辛うじて隠れる位置には、ディミトリが刻みつけた所謂キスマーク。それを見て、ディミトリは心に何かが押し寄せてくるのを感じた。共に過ごした夜は夢などではなく、現実であると実感したのだ。他人に愚かな行為と吐き捨てられても、それがどうしたと自分は言うだろう――そんなことを思いつつ、ディミトリはベレスが上半身をそっと起こす様子を見た。
「……」
「……」
 双方に言葉はない。甘ったるい空気も、当然ながら存在しない。ベレスは複雑な気持ちになった。ディミトリと自分の関係に、なんの変化もないことに。時は変わらずに流れていく。何一つ変わっていないのだ、本当に。空の色が美しいブルーであっても、大地に生い茂る緑に花が添えられても、何も。
 普段より早く起きたのは、一度自室に戻るべきだと自分でも気付かぬうちに考えていたせいだろうか。昨晩のことを誰かに知られてはならない。ディミトリとベレスは同じ勢力に属し、アドラステア帝国とそれに連なるものとの戦いに身を投じている。それだけの関係だ――そこまで考えたところで、唐突にベレスの瞳が濡れていくのが分かった。声は無い。しかし大粒のそれはぽろぽろと落ちていく。ベレスは両手で顔を覆った。
「先生……」
 ディミトリが呼んだ。どうしたのか、と彼は言っている。肩をも震わせ、涙を落とすベレス。こんな彼女を見るのは初めてかもしれなかった。強張った心を、なんとか解きほぐそうとしながらディミトリはベレスを見る。
「ディミトリ……わ、私……」
 彼女の声は揺れている。涙声故に、大変聞き取りづらい。だが、ディミトリはなんとなく察する。自分も同じような気持ちを、この胸の内に飼っているからだ。ベレスはディミトリを想い、ディミトリもベレスを想っている。
「……」
 随分と遠回りをしてしまった。それに、これから歩む道は荊棘に覆われた上に、酷く険しい道。だが、この心に満ちるものから目を背けることは出来ない。
「なあ、先生。その言葉は――」
 俺たちが「そこ」に辿り着いたら伝え合おうじゃないか。ディミトリは静かに言った。彼女からその言葉を今、最後まで聞いてしまったら、きっと本当に溺れてしまうから。ほんの少しだけ、ディミトリの表情が柔らかくなったように見えた。ベレスは頷く。自分たちのそういった出発点は、戦いの終わりの先にある。ディミトリもベレスも、そう分かっていた。
 望まなかった朝に、少しだけ希望を持てたような気がした。



 終

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