一言なのに長いのだから作文はなおさらだらだら、
そのてん手しごと感想お知らせはだいぶん短め。


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常に身近に炭酸水を置いておくくせがある。たまにオレンジやトマトジュースなどになったりもするが基本的にはスパークリングウォーター。しかし猫のニナが来てからというもの、コップに注いでゆっくり頂く訳には行かなくなった。ニナがぺろぺろと飲んで舐める、ないし飲んでしまうからである。仕方なく500mlのペットボトルをそのままかたわらに。普段はテーブルに、夜はベッドサイドに。このボトルへのニナの反応がメーカーによって異なるさまが興味深い。サンペレグリノに対しては何となくこわごわとしていた。オランジーナの甘味入り炭酸水は無関心。そしてつい最近、購入したウィルキンソンのジンジャー入り炭酸水(ボトルにはどこかレトロな字体で「ウィルキンソン タンサン クリアジンジャ」と記されている)。これには尋常ならざる態度を示す。まず、飲もうとすると私の右手に一瞬しがみつく。でなければ口にしている時にボトルに飛びついてきてささやかながらごねる仕草をみせる。これは阻止したいのか?嫌なのか?ジンジャーの香りがお嫌い?と思い鼻先に持って行っても特に嫌がる風もなく、平然としている。謎である。実はサンペレグリノの時点でボトルに慣れてもらおうと思い、カラになったそれを抱きぐるみのようにして遊ぶよう仕向けていた。とはいえウィルキンソンへのこの不可解な行為にはそこはかとなく愛情表現が含まれているように思えてならない。この際なので結婚させることにした。今やニーナの正式名称はニナルウ・ウィルキンソン・ジンジャアである。月齢五ヶ月を迎える前に嫁入りとは、飼い主たる私のはるか先を行ってしまっている。猫の時間の流れは早いな(負け惜しみでは断じてない)。まあ、とりあえず炭酸水をこぼす前におしどり夫婦になっちゃってくださいな。旦那さんをしばしばお借りしますが、奪うつもりは毛頭ございませんゆえ。

171113 0009
一言、我が愛しの猫ニーナ


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三週間ほど前から歯医者に通っている。数年前に多忙や何やらを言い訳に通院を途中で放り出しそのまま放置していた歯がにわかに痛みだしたが為。かつてお世話になっていた歯医者さんは廃業されていたので近所の別の歯科にかかる運びと相なった。ところで私はあまり歯医者を怖いと思う質ではない。治療中は「この音がクロノトリガーを思い出させるなあ。ルッカの武器とか技とか。マールかルッカか。ビアンカかフローラか。ベロニカかセーニャか。きのこかたけのこか。うむ。奥深い」などとなつかしき記憶をよみがえらせている内に事はすむ。しかし今回の歯医者はちょっと一筋縄では行かないようだ(以下、歯医者さんの痛い話。苦手な方はご注文ください。ちなみに私はルッカ、ビアンカ、たけのこを選びます。聖賢姉妹は甲乙つけがたし)
続き

171108 2303
一言


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自分で言うのも本当にアレなのだが、私は結構おりこうさんなのである。知能が優れているといった意味ではなく、基本的にお行儀や聞き分けがよかったり、根はまじめだったりする。そうあろうとしたわけではなく、何となくまわりの同世代の同性が楽しんでいる「あそび」みたいなものに興味を持てなかった。だから私は私のやりたいようにしていただけなのだが、それがどうも他者から見ると、マイペースな優等生にうつるらしい。実際、そうした面があるのは既述の通り。マンガも読むしゲームも朝までとことんやるが、それはまた別の話。原因に心あたりはいくつかある。そして今、痛切に自覚している。とぎれない怒りをおさえるために、どうしてもそうならざるを得なかったのだと。本当は時も場もわきまえず遠慮なく怒りたい。でも、私を不快にさせているこの相手は言葉たらずなだけで実はこう思っているんじゃないか、ああ感じているのかもしれない、とか何とか反射的に想像している間に、無意識に私が我慢すればすむのだと結論づけて納めてしまう。要はためこんでいるのである。それがつもりつもって今や私自身が他者に不当な要求をしたくてたまらない。あなたたちが面と向かって「あんたになら何を言っても良い気がする、傷つけても構わない存在だから」と放ちながら私の怒りを押しつぶした、その代価を支払えと。その反面、自分の中の感情をたやすく爆発させず相手の心情を冷静に推し量れる要素も大切なのではないかな、と改めて検討する。相手だって理由もなく暴言だのを吐いたわけでもなかろうし、優しいところもたくさんあったし、何より私に比べたら多くの面で格段にまともなんだよなと大して苦もなく認めることができる。うん、いや、でもでもやっぱり私は嫌な思いをしたわけで、と堂々めぐり。客観的にみても私はかなり鼻につく人間性だろう。怒りたいなら怒れば良いし、それができなかったなら許すなり流すなりするしかない。そんな簡単そうなことも乗り越えられないでただ理解だけを求めるなんてばかばかしい。だけど理屈じゃない。それに、本音をいえば、怒ってばかりいるより、やっぱり優しくしたい。我ながらおりこうさんだけど、偽善者でもあるのだ。とりあえず怒りを一時的に封印するこの無意識を何とかしないとどうにもならないなあ。たぶん。対策として、抑圧を回避するよう意識的に努める、というのはどうだろう。疲れそう。それなら我慢する方が楽なんだけど、楽をしすぎて苦になる様では格好わるい。どうせならほんもののおりこうさんになってしまいたいのだ。長年、にせものをやってきただけに、きっと素養はある、はず。

171106 2251
一言


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「意見を言いなよ」との発言に「人の話を聞けよ」と返したかった学生時代。何というか、どちらも幼かったなあとしみじみとする。特に大学一年の頃なんて、意見、という単語そのものがいかにも子どもっぽく思えたものだった(ちょっと前まで高校生だったんだよねと我に返る瞬間ゆえか)。たぶん、私の中で基本的にそのあたりの変化はない。ツールの発達に伴って意見そのものはとても言いやすくなった、というか、表に出しやすくなったとするのが正確なところだろうか。ただ、やっぱり「意見」はどこかあどけない印象を今もってぬぐいきれない。放りっぱなしのボールのように、着地するかも危うく思えてただ見守るばかり。何をしたいか、何を伝えたいか、何を知りたいか、何を分かりたいか、または分かってほしいか、そして自分の想像にまったく存在しない反応があることそのものを想像できているのか。そういったたぐいが少しも組みこまれていない言葉を、私は「意見」と呼びたくない。皮肉の意味あいにおいては別として。何かをさせたいとか、ただとにかく知識を教えたい様な内容は論外。そんな自戒にやや囚われ気味でもあるので匙加減に注意しつつ、まず聞いて、自分で考えて、思ったことを話す。この姿勢は頑ななまでに崩さないし、恐らく崩せない。だからといって対立をしない訳でもない。が、そろそろうまく流せるようになりたいなあとぼんやり方向転換を望む今日このごろ。要は臨機応変にということか。理想は中庸。生きている間にこの難題をどこまで成し遂げられることだろう。もっともっと出会って、関わって、聞いて、考えて、思い、そして話す、結局その積み重ねがものを言うし、人はそんな私を見て、私の意図や意志を、それぞれ判断したり評価するのだろう。それがほんとうの「意見」なのだろう。私はそれをこそ、ほしいと切に願う。

171019 0030
一言


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昨日、十月十三日をもって六歳におなり遊ばした我が愛しのうさぎホリン。





大好きななつめを夕食後のデザートに。優雅に食すはずもなく懸命にかじりつくので撮影が難しい。



一息ついたところ。
わきに見えるはパパイヤの茎でできたボール。ささやかながら生誕の贈りもの。と言いつつ、他にも色々ご用意いたしました(食べものばかり。おもちゃなどは見向きもしないと学んだがゆえ)。

ホリンをお迎えしたのは十二月下旬なので、この世に生まれてから二ヶ月ほどの間のホリンを当然ながら私は知らない。
そのことを不思議だと感じる瞬間がある。
出会いや縁で世界はまわっているとしか思えない時もある。
でも、意志や選択がなければ今もない。それも確かだ。

そんな理屈はさておき、六歳、おめでとう。ホリン。
あなたのすべてにありがとう。

171014 0056
一言、我が愛しのうさぎホリン。


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