わずか湿気ているように感じるそれは、7ページからなっていた。案の定、右上のすみはホチキスで留められ、でも8ページから先は欠損している。角の三角片だけがホチキスの針にしがみついているのみで、ぐるりと軽く周囲を見渡しても欠品の影は見あたらない。
表紙に目をやる。濃厚なアールグレイの紅茶に満遍なく浸したかのような、褐色の表紙。安心感の白に見えたのは、どうやら目の錯覚だったらしい。
ライトを傾ける。
プリントアウトされた明朝体の、
【Trackless K.K.】
という見出しではじまっていた。
敦 子Section 2未 踏
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Trackless K.K.
【名称】
・念動力課題中の脳血流〜
生物物理的・生理心理的研究
(Brain Blood Flow
during Psychokinesis Tasks〜
Biophysical
and Psychophysiological Study)
【概要】
・被験者が課題として念動力を行っている時の脳血流、皮膚電気活動等の生理変化、標的周囲の環境変化を測定。
・念動力の標的は電子天秤上また薬瓶内のビタミン錠とする。
・被験者の性格特性把握のため主要5因子性格検査等の5種の質問紙調査、及び内田クレペリン検査を実施。更に、比較のため通常課題として顔表情認知テストも実施。
【課題】
・念動力(PK)課題
・顔表情認知課題
【実験日時】
・2000年06月28日/07月01日
【実験場所】
・私立恩田病院の旧入院棟内
※501-00xx
岐阜県姉泉市神榁1165-9
【実験者】
・フランソワ・グザビエ・デルビル
(Dr.Francois = Xavier Delville)
※501-00xx
岐阜県姉泉市茗峰320-4
TEL 0575-xx-xxxx
【実験助手】
・篠宮陶子
(Dr.Toko Shinomiya)
【立会人】
・久我初美
(Hatsumi Kuga)
【被験者】
・久我香苗
(Kanae Kuga)
※12歳/女性/
身長142.3cm/体重27.5kg/左利き
- 1 -
「被験者……“久我香苗”!?」
カナエ。
クガ・カナエ。
にわかに呼吸が荒れる。しかし息を吐く間もなく、あたしは夢中になってページをめくった。
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【実験行程表】
・課題 :顔表情認知
試行 :1
測定部位:前頭/右側頭
実験条件:−
標的 :−
標的試料:−
実施日 :2000/06/28
・課題 :PK1
試行 :2
測定部位:前頭/右側頭
実験条件:3m遠隔
標的 :電子天秤上の17錠
標的試料:試料A
実施日 :2000/06/28
・課題 :PK2
試行 :3
測定部位:前頭/左側頭
実験条件:3m遠隔
標的 :電子天秤上の17錠
標的試料:試料A
実施日 :2000/06/28
・課題 :性格検査
試行 :−
測定部位:−
実験条件:−
標的 :−
標的試料:−
実施日 :2000/07/01
・課題 :PK3
試行 :4
測定部位:前頭/右側頭
実験条件:2m遠隔
標的 :電子天秤上の15錠
標的試料:試料B
実施日 :2000/07/01
・課題 :PK4
試行 :5
測定部位:前頭/右側頭
実験条件:薬瓶を直接触れる
標的 :薬瓶内の30錠
標的試料:試料C
実施日 :2000/07/01
- 2 -
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顔表情認知課題
【実施日】
・2000/06/28(昼食休憩後)
【目的】
・被験者の通常の脳活動状態を測定。
【刺激材料】
・名和大学の篠宮花織助教授との共同研究材料を使用。
【刺激材料作成要素】
・刺激は演技経歴の長い若い日本人女性の顔写真(笑い/驚き/恐れ/怒り/嫌悪/軽蔑)の6種を基本情動とし、各2枚ずつ計12枚の写真を用意。更に笑いと他の基本表情との中間の表情10種を使用。これらの刺激表情群は一般的な日本人の情動表情に基づいて作成。
【方法】
・4秒間の灰色画面と交互に、刺激写真を8秒間ずつ呈示。被験者は刺激呈示の8秒以内に写真横に表示された「笑い/驚き/恐れ/怒り/嫌悪/軽蔑/複合/不明」の選択肢から1つを指示棒にて回答。
・課題実施中、被験者の右前頭、右側頭の脳血流を近赤外分光血流計で測定。
- 3 -
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PK課題 [1/3]
【実施日】
・2000/06/28(PK1/PK2)
・2000/07/01(PK3/PK4)
【標的試料】
・ビタミン錠(被験者の身体に影響を与えないものを選択)
【標的試料A】
・種類:ビタミンC補給剤
・内容量:80錠
・名称:ネイチャーエーテルC
・1錠中の成分:
エネルギー/3.08kcal
タンパク質/0g
脂質/0.007g
炭水化物/0.752g
ナトリウム/0.08mg
ビタミンC/500mg
・製造番号:xx20492
・容器:プラスチック製
【標的試料B】
・種類:ビタミンB2主剤
・内容量:60錠
・名称:チャコールBBプラス
・2錠中の成分:
ビタミンB2リン酸エステル/38mg
ビタミンB6/50mg
ビタミンB1硝酸塩/20mg
ニコチン酸アミド/40mg
パントテン酸カルシウム/20mg
他
・製造番号:72x66x
・容器:ポリプロピレン蓋
ポリエチレン本体
【標的試料C】
・種類:ビタミンB2主剤
・内容量:30錠
・名称:チャコールBBピュア
・2錠中の成分:
ビタミンB2リン酸エステル/38mg
ビタミンB6/24mg
ビタミンB1硝酸塩/20mg
ニコチン酸アミド/40mg
アスコルビン酸カルシウム/125mg
他
・製造番号:77xx71xx
・容器:ポリプロピレン蓋
ポリエチレン本体
- 4 -
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PK課題 [2/3]
【実験条件】
・約30分間、自由形式にて実施。
・第2試行から第4試行までは遠隔条件、第5試行は被験者が直接薬瓶に手を触れて実施。
【実験手続】
・被験者の頭部にfNIRS の光ファイバーを装着後、実験指示。
・2分の前安静、30〜45分の課題、2分の後安静。
【実験指示例】
・テスト中は静かにして、声や音を出さんようにしてな。あと、あんま動かんほうがええな。30分くらいで終わるでな?
・テスト中はお薬に意識を集中するんよ。で、動くように頑張るんやよ?
・もしもえろぅなったら、すぐ言ってな。テストを終了するで。
・ほんなら、準備はええか?
【脳血流測定】
・近赤外分光血流計(fNIRS,OMM-3000)を使用し、前頭と右または左の側頭を測定。
・課題開始10秒後の血流を基点にして課題実施中 90〜160秒間の血流相対変化を59点スプライン補間で20回移動平均し求める。
【生理測定】
・被験者の皮膚電気活動(EDA)、指尖脈波(PPG)、腹呼吸、また皮膚表面温度測定のため MP150を使用。LPFを 10Hz、データの取得率を 200Hzで測定。
・EDA は、左手の第2・4指第2節に銀‐塩化銀電極(直径7.95mm)をイソトニックペーストで装着、直流0.5V定電圧通電法により電気伝導度を測定。
・PPGセンサは左手中指先に装着。
・皮膚表面温度は左手掌中央部(労宮)をサーミスタ(応答速度0.6s)で測定。
・センサの接触圧変化や導線のふらつきを防ぐためセンサと導線はそれぞれ絆創膏で手に固定。
- 5 -
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PK課題 [3/3]
【電子天秤】
・分析用精密天秤GH-252を分解能 0.1mg、または0.01mgで、高速応答モードで使用。
・天秤をRS-232C でPCに接続、制御ソフトウェアWinCT Plusで毎秒の重量を記録。
【フィールドRNG】
・2台の物理乱数発生器により標的周辺のエントロピー擾乱を監視。・
・
・
「アタマが痛くなってきた……」
この先はどうやら“実験”に用いられる機材の詳細が書かれてあるらしく「Z2-1の1分間の累積値」だの「振動容量式静電気測定器」だの「フィールドIRセンサ」だの「3-3.5μmに感度を持つサーモグラフィ」だの「デジタルオシロスコープ」だのと、ほとんど呪文のようで目がまわる。
ただ、6ページ目の最後の部分が、少しだけ印象に残った。
・
・
・
【備考】
・標的試料は実験者所有の鍵のある保管庫にて、いずれのPK試行に於ても、直前まで厳重に保管すること。
・実験指示は姉泉弁で穏やかに。
- 6 -
「アネイズミ弁で穏やかに……?」
実験にしては、やけに呑気な響き。
「姉泉」の読みかたはよくわからないが、要するに方言ということなのだろうか?
そういえば前のページ「実験指示例」の途中にも、京都弁のような、この冊子にはあまりにも不釣りあいな一節があった。
「岐阜の方言の一種、とか?」
ひとりごちりながら最終ページへ。
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質問紙性格検査・作業検査
【実施日】
・2000/07/01(昼食休憩後)
【内容】
・被験者の生活情報記述
・5種の質問紙性格検査
・作業検査
【生活情報】
・個人情報(氏名/性別/誕生日/年齢/身長/体重等)及び家族関係/対人関係/経歴/趣味/超常体験/自己認識等64項目
【質問紙性格検査】
・統制の所在尺度
(18項目/4件法)
・認知的熟慮性衝動性尺度
(10項目/4件法)
・心理的健康と
関連する曖昧さ耐性尺度
(24項目/5件法)
・死観尺度
(31項目/2件法)
・主要5因子性格検査
(2件法)
【作業検査法】
・内田クレペリン検査
- 7 -
ご を ん ご を ん ご を ん
「カナエ」という名前の少女が、岐阜県の恩田病院で芳しくない境遇に置かれていたらしいことは如璃のメールで知っている。軟禁状態というか、放置プレイというか、いずれにしても、不自由というに相応しいあつかいを受けていたこと。そして、その理由こそが、彼女の持つ不思議な能力……“念動力”とやらによるものだったということ。不治の難病に罹患しており、患部が痛むと途端にその力の箍が外れて、周囲に甚大なる被害をおよぼしてしまう、だからやむなく隔離していなくてはならなかったらしいということ。
「被験者……久我香苗」
『念動力課題中の脳血流
生物物理的・生理心理的研究』
そう題されてあるからには、如璃のいう「カナエ」がこの「香苗」であり、そして彼女が“念動力”の持ち主だという推理ももはや疑いようはないのかも知れない。
ただ、予想以上に脇役も多かった。
「Trackless K.K.……か」
携帯電話のディスプレイに目を移すと、メニューを起こして英和辞書を起動させ、素早く「trackless」と打ちこんでみた。
【trackless】
[形]
@足跡のない, 道のない, 人跡未踏の
A無軌道の
「人跡未踏」という熟語が頭の中に燻る。なんというか、冊子の制作者が、この課題実験に“栄誉”のような思いを抱いている印象を受ける。それはあたかも「K.K.」を……つまり「Kanae Kuga」を、前人未到の偉業をなしとげるための“掘りだし物”とでもとらえているかのような。
「フランソワ・グザビエ・デルビル」
実験者ということは代表者なのだろう。冊子制作者なのかどうかはわからないが、ドクターなだけに、権威ある立場なのかも知れない。少なくとも、理数をあつかっている者ではあるだろう。
「篠宮陶子」
助手であるのならばこの人もまた医者か博士か。篠宮花織という大学助教授の名が記述されてもあるわけで、近親者と考えてみても、彼女が研究者である確率は高い。
「久我初美」
実験の立会人とある。そして、被験者と同姓でもある。ということは香苗の……、
『 ま ぉ ま ぉ わ ぉ わ ぉ た ぉ し ぅ が ぉ き ぅ ら ぉ い ぅ 』
「……母親?」
だとすれば、
「あの看護士が」
『おまんみたいなバケモンが生まれるとは思わんかったわ!!』
「あの看護士が久我初美?」
悪夢の恩田病院で、T字路を突き進み、そしてこの廊下のあたりで実の娘を化け物よばわりした。
直後……、
『カナエぇ!! もう、やめぇ!!』
「……なにがあった?」
廊下の先を見る。
ライトの強いビームも届かない、分厚い深海の闇が奥へ奥へと沈んでいる。
「なにが、あった?」
きっと、この先だ。
この廊下の先で香苗は、母親に化け物と罵倒され、奇声をあげ、念動力を起こし、病院を崩落させ、そして、そして……、
「どう、なった?」
もう1度、冊子を見る。
実験は西暦2000年の6月28日と、そして7月1日……10年前の今日を指している。
「10年前、か」
そういえば【カレンデュラの私選館】の開設日は確か、2000年の8月24日。そして崩落のあった日ももしや2000年の8月24日だったのではないか?……脳神経外科への専門業者の立ち入りがあるという貼り紙があったわけで。
「専門業者の立ち入り?」
実験機材の搬入では?
実験は脳血流を測定するものだ。そして機材搬入は脳神経外科にまつわるものだ。ということは、
「崩落の日まで、ずっと香苗は実験対象にされてて、だから、ええと……」
たちまち頭が混乱。乱暴に頭をかくと、再び廊下の奥を見すえた。
「とにかく、10年前だ」
それがキーポイントになっているような気がする。10年前の8月24日、この日に、想像を絶するような大事件が起きたんだ。そしてそれは、この廊下の先で。
「なにを……知ってほしいの?」
あたしは牛歩を再開した。どうせ、この貧弱な頭脳だけで真実にたどりつくなんてムリに決まってるんだから。招かれたのであればちゃんと甘んじ、用意された光景に目を渡そう。そうしないと、たぶん永遠にわかりっこない。
「それにしてもあんたって」
冊子を畳みながら、どこで目を光らせているのかも知れない香苗に語りかける。
「ちょっと痩せすぎだよ。142センチの身長で、体重が27キロだなんて」
悪夢の案内人……紅いワンピの少女も、そのぐらいのサイズだったような。
「そんなにも、身体、悪かったの?」
冊子を胸のポケットに仕舞ったと同時にまたライトが切れて動悸。
再再再……再点灯。
「あたしもね、痩せ気味っていわれるよ」
忙しなくライトをふりまわす。
「食べるは食べるんだけどね。でも、間食しないから、なのかなー」
語りかけていないと落ちつかない。
「でもさ、食事ってさ、健康なのか不健康なのか、わかんない作業、だよねー」
なにしろ、1歩、進むごとに、
「だって、活性酸素も、取り入れてるわけだからさ。食べるほど、老いるというか」
壁と、天井の、血管が、
「活性酸素って、老化の原因、でしょ?」
なんだか、肥えていく。
タンポポの根が樹木の根となり、樹木の根が巨木の根と化していく。色彩も濃度を増し、鮮やかなクリムゾンカラーへと成長していく。そしていずれの表皮もが、もう気のせいだとも思えないほど一目瞭然に、どくどくと激しく脈動している。
廊下の左右、等間隔に並べられてあったドアも、進めば進むほどその姿を隠されていく。建造物らしさが失われていく。
まるで、何者かの体内にいるかのよう。
ミクロになって、臓物と臓物の隙間を、歩かされているかのよう。
「でも、さすがに、食べない、わけには」
床をビームで照らす。
「いかな、ぁ、ぁぁ……」
言葉を失う。
いや、奪われる。
抱き枕ほどの大きさのミミズが何匹も、うねうねと足もとで蠢いていた。肥大化がきわまってもう遊泳スペースがなくなり、詰まって流れていけない。ドロドロ血液のように凝固しあい、でも、それでも自由を求めて泳ごうとするかのように、うねうねうねうねと身体をよじらせている。
「コレ、は、アレ、だ。ムリ、だ……」
細胞の1個1個が、あられもなく恐怖に屈しているとわかる。
立ち往生。
1歩も動けない。
牛歩が動かない。
たとえ招かれているとしても、甘んじることももう叶わない。
眩暈。
眩暈。
眩暈。
「どう、すれば、いい、の?」
泣き言をつぶやいた直後、くるるる……食道のあたりが低い唸り声をあげて、その場に、ミミズたちの背中に、
「ゔがろ」
酸っぱい液体を吐瀉。
途端、視界が狭まって、意識が遠のく。骨がなくなったように膝が抜けて、ああ、帰れる、やっと、もとの世界に戻れる……消えゆく意識のまん中に安堵をともした、その時だった。
「舞彩さん!?」
背後から、声が跳ねてきた。
コクのある、オーボエの声。