胚胎
偽りのカレンデュラ
『人間はね、死ぬと誰でも彼岸≠ノ行くことができるんだよ』
ナオンの爪の音。
『痛みも苦しみもない世界』
引っかく音。
『舞彩の生きてる世界は、彼岸の反対語で此岸≠チていうんだよ』
死ぬ間際の音。
『だから、苦しいのは、あたり前のこと』
命の音。
あたしは……思いだしつつある。
敦 子
Section 1
胚 胎
ハイタイ
天にかざした携帯電話のディスプレイ。その白い光が照らしだす世界は、あたしの半生を彩ってきた許多の舞台を凌駕して、生々しく、毒々しいものだった。
赤・朱・紅・臙脂色・躑躅色・鉛丹色・蘇芳・鳶色・弁柄色・黄・黄丹・肉桂色・樺色・檜皮色・青・濃藍・紺・勝色・紫・鉄紺・古代紫・紫紺・黒……誰もが身中に隠し持っている色彩であり、また、誰もが目を背けたがる色彩が犇いていた。
“血管”に支配される世界。
同日 〜 2010/07/01 [木] 22:09
場所不明
壁の一面に蠢動しているものは、とても数えきれたものではない幾万本にものぼるだろう血管で編まれた網。その1本1本が朝顔の蔓のような太さを持ち、タンポポの根のような複雑さを持ち、無限を思わせる枝分かれをし、絡まりあい、交じりあい、凌ぎあっている。そしてそれらすべてが、どくどくと断続的に脈を打っている。
天井の一面から垂れさがっているのは、幾万本にものぼるだろう血管の氷柱。その太さは、松の根ほどのものもあれば、藤の枝ほどのものもある。長いものは50センチにもおよび、やはり、それらのすべてが、ひくひくと断続的に痙攣している。
床の一面はといえば、透明な、ガラスかプラスチックタイルのような床材が均等に敷かれ、その下を、ピンク色の、10センチ程度の、細長い、柔らかそうな謎の生物がうようよと遊泳している。まるでミミズ。それが右に左にと規則性もなくさまよい、数はやはり幾万匹とも思える。
網も氷柱も謎のミミズも、いずれもが、生々しくも毒々しい“人体の内側の色”をしている。
生ぬるく、ツンとしてもいる、なんとも気怠い錆の臭いがあたりに充満している。灯をともすまで感じなかったのに、状況を確認した途端に噎せかえった。視覚が補填されてやっと嗅覚が追いついたのか、この環境そのものが今、この一瞬のうちに構築されたのか、あたしには判断できるわけもない。せいぜい判断できるのは、どこかで嗅いだことのある、血と脂を煮凝りにしたような臭いだということぐらい。
猛烈な悪臭。
目がまわる。
吐きそう。
まるで地獄。
いや、たぶん地獄よりも酷い。
「つ、きの、さん……」
震え・吐き気・眩暈・涙が止まらない。
ご を ん ご を ん ご を ん
開放されたトイレのドアは、再び視界におさまった時にはもうすでに、縦横無尽、おびただしい数量の血管に縛りあげられていた。とても容易に閉められそうになく、もとより触れる気持ちにならない。下手に血管を引き千切りでもして不安材料を垂れ流すなんてマッピラゴメンだ。
ドアはもう動かせない。トイレに入り、ドアを閉め、再び開ければ、もしやもとの世界に戻れるのかも知れない。それこそが唯一の脱出方法なのかも知れない。でも、それはもう叶わない。灯をともし、かざすぐらいの胆力しか今のあたしにはない。
すべての勇気がほしい。
ふっ。不意にディスプレイの光が弱火になった。確か1分で省電力モードになり、そこから3分で消灯するように設定されてある。もう1分が経っていた。目を瞑ってしまいたい環境なのに、ブラックアウトがたまらなく怖い。いったん携帯電話を折り畳むと、すぐさまに開いて強火にする。
「そうだ。電話だ」
来瞳に連絡を……と閃くも、しかしボツアイディアだと知る。アンテナが、滅多に見ない「圏外」だった。
「いや、わかんないよ?」
強く自分に言い聞かせ、電話帳のサ行を開く。そして【芹沢来瞳】を猛プッシュ、即座に耳たぶにあてる。
「 わ ぉ わ ぉ た ぉ し ぅ が ぉ 」
「ぉ、わッ!」
低い声で小さく叫んで、耳たぶから携帯電話を離した。
「なに……?」
コール音か機械的な女性のアナウンスが聞こえるかと思いきや、丸めたような音が流れてきた。音なのか声なのかは定かではないが、まるでスロー再生をしたような、地を這うように低く、円やかで、ジェルが坂道をくだるようなスピードの音声。
恐る恐る、再び受話器を耳にしてみる。
「 ぱ ぉ わ ぉ ど ぉ こ ぉ に ぅ 」
「……来瞳?」
いや、来瞳じゃない。
なにか、べつのモノが喋ってる。
「 わ ぉ た ぉ し ぅ わ ぉ あ ぉ い ぅ さ ぉ れ ぉ な ぉ い ぅ ま ぉ ま ぉ し ぅ ぬ ぅ の ぉ か ぉ な ぉ ぜ ぉ ぶ ぉ わ ぉ い ぅ や ぉ で ぉ す ぉ ど ぉ れ ぉ か ぉ ひ ぅ と ぉ つ ぉ ほ ぉ し ぅ い ぅ の ぅ で ぉ す ぉ せ ぅ め ぉ て ぅ ひ ぅ と ぉ つ ぉ だ ぉ け ぉ ま ぉ ま ぉ わ ぉ わ ぉ た ぉ し ぅ が ぉ き ぅ ら ぉ い ぅ ぱ ぉ ぱ ぉ わ ぉ ど ぉ こ ぉ に ぅ も ぉ あ ぉ り ぅ ま ぉ せ ぉ … … 」
「繰りかえしてる」
このあと、冒頭へとつづいてる。そして延々と同じフレーズをリピートしてる。
「私は愛されないまま死ぬのかな
ぜんぶは嫌です
どれかひとつ欲しいのです
せめてひとつだけ
ママは私が嫌い
パパはどこにもありません……?」
もう1度、最初から最後まで聞いてみた結果、そんな内容だとわかった。
だけど、肝心の、意味がわからない。
すでに半ベソだけど、泣きたくなる。
「わからなきゃ、いけないの?」
もしも、この世界が迫真のヴィジョンであるのだとすれば、きっと、この音声にも意味があるはずだ。だけどあまりにも情報不足で、いったい、どこから手をつけたらいいのかがわからない。
「出たい」
正常な世界に戻りたい。ちゃんと戻ってから考えたい。誰が、なにを伝えたがっているのかは知らないけど、この世界を脱出してから考えてあげたい。
「お願い。ここから出して……」
受話器をオフると、今度はサイドキーを長押ししてモバイルライトを点灯させる。そして、啜りきれない鼻水を啜りながら、ようやく立ちあがった。
ご を ん ご を ん ご を ん
蒸し暑い。
もう夏に突入しているのだから暑いのはあたり前だが、カラオケボックスの店中にきいていた冷房が欲の尾を引かせている。この世界にまでそんな文明の利器の配線は吊りこまれていないらしく、換気も不充分なのかほとんどサウナ。今までクーラーに依存せず、むしろ壊れる末路を毛嫌いして使用を避けてきたあたしにとっても、この暑さはさすがにコタえた。全身が汗塗れ、水色の半袖シャツもすっかり湿っている。
凪。せめて風がほしい。蔓延する暑さと滞留する空気のせいで、充満する血と脂の臭いが、より際立って鼻孔に籠る。迂闊に嗅いでしまわないように、できるだけ口で呼吸しながら、あたしはモバイルライトのビームを周囲にさまよわせた。
そこは、前後に細長い空間だった。幅はおよそ2メートル強、高さも同じぐらい、そして前と後ろに、長く長く伸びている。廊下と見ていいのだろうか。その奥行きはモバイルライトさえも追いつかず、まるで深海の底を思わせるほどに果てしない。
いや、背後の、10メートルほどの先には壁のような面がうかがえる。しかも、行き止まりにはなっておらず、ドア1枚ぶんの開口をもって、さらに奥へとつづいているようだった。そう、もしやあの開口には、実際はドアがついているのかも知れない。このトイレのドアのように血管に縛られ、開放を余儀なくされているのかも。
その開口部から2メートルほどの手前、向かって右には、さらに廊下が伸びているようだった。壁がいったん途絶えている。
「T字路?」
たぶん、右折できる。だけど、確かめにいく勇気がちっとも湧かない。
やむをえず、再び前を向くと、モバイルライトも向ける。こちらはどうやら、奥に向かって延々と伸びている様子。光の突きあたる壁もなければ交差点の陰影もない。
向かって左、あたしの出てきたトイレがある壁の、その手前から奥に、一定間隔を置きながらドアらしき窪みがあるのを確認できた。いずれもが血管によって“施錠”されているものの、いちおうの開閉構造を持っているとわかる。
向かって右の壁には、およそ腰の高さのあたりに、横長をした長方形の窪みが見て取れる。そしてこの窪みもまた、手前から奥へと、一定の間隔を置いて並んでいる。もしや、窓だろうか。
いちばん身近な、窓と思われる長方形にモバイルライトをあててみる。血管の網が縦横無尽にめぐらされていて今いち把握はしづらいが、外から、なにやら板のような物が打ちつけてあるらしい。鉄板なのか、ベニヤなのかはわからないけれど、それは隙間なく、でも大雑把に、ヤッつけ仕事のように外界との縁を絶っている。
「なんか」
背後の奥から、開口・T字路・トイレとつづき、左側の壁にはドアが並び、右側の壁には窓が並び、それから、前方へと長く伸びていく構造。
「ここ、どこかで……」
見たことがある。
もちろん、血管を込みでいうのならば、見たことなどあるはずもない。でも、構造自体でいうのならば、確かに、あたしには見憶えがある。
「ここって、恩田……」
そう。
恩田病院に似てるんだ。
悪夢の中の恩田病院に。
ということは、今、あたしの立っている場所って、もしかして、
『キィィィィィィィィィ!!』
窓枠の下敷きになったあたり?
「ホントに?」
わからない。こんな構造をしている建物なんて、たぶん五万とあるはずだろうし、だからわからない。建造物の微細な違いを楽しむようなマニアックな趣味はないし、ここが建物である確証もないし……って、それをいったらはじまらないけど、事実、血管模様の壁紙に彩られている建物なんて知らないし、知りたくもない。
でも、恩田病院に似てる。似ているし、因果関係をふくめれば、やっぱり恩田病院なのかも知れない。
「だからそれを教えろよ……!」
その因果関係とやらを。
呆れるほどの情報不足に腹が立ち、軽い地団駄を踏む。でもすぐに止めた。床が、まるで薄氷であるかのように思えて激しいアクションが躊躇われた。
透明な床タイルに透かされる、その下の世界ではずっと、ミミズのような生き物がうねうねと泳ぎつづけている。これがなんなのか、とうていわかるはずもないけど、巨大な生簀は底なしで、透明な蓋の上から照らされる携帯電話のライトごときでは、せいぜいが上澄みを白く染めるだけ。それよりも下は、延々と、決して揺らぐことのない闇。そうだとすれば、彼らはもしや、深海の生物……ヌタウナギの一種?
……なワケない。
ミミズではなく、ヌタウナギでもなく、アオミドロでもミトコンドリアでもない、きっとこの世のものではない物。
「じゃあなんだ」
わからない。この世のものではない物がわかったらノーベル賞だし、それに、確かミトコンドリアはもっと球体だったような気がする……って、それはどうでもいい。
とにかく、薄氷のような透明なタイルを1枚だけ隔てて、UMAの泳ぐ世界が深く深く広がっている。下手に暴れてタイルを割ってしまうのは、死んでも避けたい。
ふわふわとした錯覚。足もとが覚束ず、あたしはなるべく床を見おろさないよう、視線をまっすぐ前に向けた。向けたら、
ふ っ
「んもう……!」
ライトが消えた。これほど省エネ時代を怨んだことはない。サイドキーを長押し、再び灯をともす。
いつまでもこのままでいると、たぶん、大事な局面で充電がなくなる予感がする。でも、だからといって節電に走るわけにもいかない。携帯電話に代わる照明器具など持っているわけがない。これだけが唯一の命の灯。
前に後ろに、忙しなくライトを向ける。たったこれだけの旋回運動で、目がまわりそう。早く次の行動に移らなければ、目がまわるどころか昏倒してしまいそう。命の灯も絶えてしまうだろうし、それに、この世界が、この景色を、このままに保っててくれる保証もない。今以上の地獄へと変貌しないともかぎらない。
前か、後ろか。
どっちに進むかだ。
「出口なら、たぶん後ろ」
T字路のあるほう。
推理どおりに、もしもここが恩田病院であるならば、背後の開口部のさらに向こうには医者や患者の活動空間が広がっているはず。確か“カナエの変”が起きたさい、あの向こう側からはたくさんの声がした。悲鳴や鳴き声や不安の声……たぶん医者や患者の声だったと思う。そうだとすれば、間違いなく出口も設けられてあるはずだ。
でも、
「たぶん、前」
誰がなんの意図で……わからない。でもあたしは、誰かの、なにかの意図で、この世界に招かれたような気がしてならない。なにかを知ってほしくて、切迫した迫真のヴィジョンへと招き入れられたのだと。
普通の出口など存在しない。存在するにしても、オイソレとは出してもらえない。むしろ、さらなる危機的な状況を生みだすだけ……そんな気がしてならない。
「カナエ、なの?」
T字路のほうに背を向けたまま、前へ、ゆっくりと足を動かしはじめた。
「どこにいるの?」
いや、彼女はもう存在していないのかも知れない。だって、すでに死んでいるかのような如璃の示唆があった。
『実在する気配がないんだよ
カレンデュラなんて人
実在しないのにホムだけが存在してる』
……如璃。調査のほうはどうなってるんだろう。文字化けのメール以来、まったく音沙汰がない。催促するのはネチケットとして不躾だし、催促どころではない毎日を送ってもいたしで、無音があたり前になりつつあった。でも、こんな時に、いちばん頼りになるのが彼女の調査結果なのだと、そろそろ確信しつつもある。
月乃さんからもらった勇気を、ちゃんと正しい方向に導いてくれるのは、柔軟性のあるインテリジェンスなのだと。
「五体だるだるだるびっしゅ」
ボキャブラリからしてずいぶん柔らか。こちらからはつかめず、だけど向こうから流れこんできてくれる柔らかさ。
「偉すぎ……って、変な表現」
気晴らしのように如璃を思ってみたが、たぶん、まだ10メートルも進んでいない。ドアと窓と血管……似たような視覚情報があらわれてはすぎていくばかりで、気味が悪いわりには代わり映えのない景観だし、歩行感覚が麻痺するのはやむをえないことなのかも知れない。
牛歩とは裏腹に、加圧トレーニングでもしているかのように重点的な疲労感。強い乳酸の発現を感じるし、ワイシャツは汗でじくじくに蒸れ、喉が渇いてしかたない。今、もしもこの歩みを止めたら、あたしの脳下垂体は急速に刺激されて、代謝がよくなった暁にハイになれるのかも知れない。
……そんな生理学なんてどうでもいい。とにかくきんきんに冷えたアクエリアスを一気飲みして、胸焼けになりたい。
ふ。ライトが切れて長押し。
そういえば、この廊下には血の雨漏りがしていない。結局、血液かどうかはわからないままだが、それでも、謎の液体を被弾させながら歩いていられる精神力は微塵もない。漏っていなくてよかった。トイレのアレが本当に血液で、この廊下にも滴っていたとしたら、間違いなくあたしは1歩も歩かないうちに卒倒していたことだろう。だって血液は体温を司るものなのだから。
雨漏りのない不幸中の幸いを自分に言い聞かせ、足に鞭を入れる。
さらに2度、長押し点灯を余儀なくされながら牛歩で前進するあたしの目の前が、ついにライトのヒットを赦した。闇の奥に待ちかまえていたものは、なんの仕掛けもないだろう完全な壁。
その突きあたりの手前、向かって左に、巨大な観音扉が設えられてある。目一杯に両腕を広げてもおさまりきらないであろう幅を持ち、高さは天井にまで達していて、防火扉のように見える。
無数の血管によって緊縛される防火扉。成長しきっていない毛細血管ではあるが、蜘蛛の巣よりも網目が細かく、しかし1本1本に確かな主張があって気持ち悪い。
と、扉をよく見れば、2センチの隙間。
右の扉が、わずかに手前に開いている。
ご を ん ご を ん ご を ん
「……は、入れってか」
苦笑いでつぶやくと、そのか細い隙間にライトを挿す。上半身を傾げて中を覗いてみる。しかしなににヒットするでもなく、ただ闇が広がっているばかりで、ますます気持ちが渋くなる。
小学校の低学年のころだったか、親戚の家で初めてゲームの「バイオハザード」を遊んだ時の、ドアを開ける寸前の緊張感を思いだす。女子のあたしはジルで、相方のバリーを残してダイニングのドアを開け、直後にゾンビと初遭遇、滑稽なオデットをくるくると演じたんだっけ。
テレビゲームでもあの体たらく。
今のあたしに救急スプレーはなく、銃もなければインクリボンもない。満身創痍の無手勝流で、セーブのきかない一発勝負に挑まされている。
これは、ゲームじゃない。
でもサバイバルでもない。
だってあたしは、来年、死ぬんだから。
「そうだ。死ぬんだ。どうせ」
惨たらしく。
少しだけ、勇気と知性が湧いた。
自伝小説を登録した月乃さんは、自分の死を兆しているのだろう悪夢と立ち会ったはず。しかも思いの他に近々の出来事で、もしや深い絶望に苛まれたかも知れない。焦躁が芽生えたかも知れない。どうしようどうしようどうしよう……残された時間をどう使い、どう抗えばいいのかと。そんな中、月乃さんは“ある法則性”に気づき、死の直前、絞りだすように遺してくれた。
『偽ると縮まる』
月乃さんのいう「友達」に、あたしは、ちゃんとふくまれているのかな。
「寿命だ」
そう、恐らくは、そういうことなんだ。
人さし指と親指で、丸いノブをつまむ。
指の腹には、金笊の網目のような感触。
ぞわっと鳥肌。
でも、
「なにかを偽ると、寿命が縮まるんだ」
知らなくてはならない。
「悪夢は、普遍的摂理としての寿命を映す鏡じゃないんだ。なんらかの法則に従ってコントロールされた寿命の顛末なんだ」
あたしの寿命も、本当は、もっともっと長いものだったのかも知れない。だけど、偽るような“なにか”をしたせいで法則が発動され、それで縮まってしまったのかも知れない。それとも、月乃さんも、縮めるような条件を揃えてしまったから、だからあんなにも早く……?
「あたしは、なにをしたの?」
月乃さんはなにをしたの?
あたしと月乃さんが、したこと。
それがなんなのか、必ず、知らなくてはならない。死ぬのだろう来年までのほんのわずかな時間を、あたしは、大好きな月乃さんの友達として、それとも親友として、戦友として、遺言の先を見ることに全力を傾けなくてはならない。
この気持ちは、正義じゃない。
「ムダには、できないんだよ……!」
握力をこめて、ノブを引いた。
ぷ つ ぷ つ つ
緊縛していた毛細血管の、引き千切れる音。断続的に指を伝うのは、しぶとく根を残そうとする雑草を、力任せに毟る感触。
いや、これは雑草じゃない。植物以上に生活反応のある、謎の毛細血管。
背筋を、ごぢょごぢょと昆虫が這う。
千切れた断面部から、たちまちのうちにドス黒い液体が滲みでてくるのを目撃してしまった。咄嗟に目を瞑ると、右の手首を携帯電話ごと左手でつかみ、後ろに体重をかけながらさらに引く。いぎぎ……錆びた抵抗の音が、サッシから、蝶番から漏れ、断末魔の叫び声に聞こえた。
叫ぶぐらいなら、招かなきゃいいのに。
途中、ライトがまた切れた。でも点灯はせず、まずは防火扉を開けることに専念。そして、大人がひとり、とおれるぐらいにまで開けると、そこで手を放し、右の指をスカートで拭ってからライトをともした。
扉の向こうは、またもや一直線の廊下になっているようだった。ライトの光が遠くおよばないほど、長い長い廊下。
防火扉のサッシに光をあててみる。引き千切られたばかりだというのに、その断面からはもう新たな毛細血管が生え、まるで産毛のように力なく、何本も垂れさがっていた。成長しすぎた黒カビを髣髴。
万年帰宅部のあたしにとって、この扉はグランドピアノに匹敵した。首筋を多量の汗が伝っている。首・額・鼻の下と忙しく拭い、ついでに眼窩をつまみ、ひとつだけ大きく息を吐き、唇を入念に舐め、そしてようやく未知なるゾーンへと進入。
すると、扉を抜けてすぐの左手の床に、今まで目にしてきたのとは明らかに異なる物体が落ちていた。赤系統で織りなされる世界の中で、モバイルライトの安心感にも似た、まさに“異色”の白い物体。
紙の束だった。
「冊子?」
いつか、生徒指導室にあった指導要綱の冊子のような、片すみをホチキスで留めた用紙の束。踏まれでもしたのか皺だらけになってはいるものの、およそB5サイズの集合体とわかる。
羨ましくてしょうがない栗色の髪を弁護するために無縁のはずだった生徒指導室を訪れたんだっけ……無関係な思い出で気をまぎらわせながら怖々と近寄る。なるべく床のミミズを見ないよう、視線をまっすぐ前に向けたまま、および腰で冊子を拾う。
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