この痛みは誰のもの
ぱたぱたと、床を叩く音がする。水音のようなそれはゆっくりと一定の感覚で鈍く響く。
目蓋を押し上げると辺りは真っ暗だった。墨で塗りつぶしたみたいな漆黒。自分の周りの闇はうっすらと透かし見る事が出来るのに、数歩先は何も見えない程深い。
「こ、こ、どこ……?」
意識はぼんやりして上手く考える事が出来なかった。いつから此処に立っていたのか、ここは何処なのかも良くわからない。ずっと前からいたような気もするし、つい先程からだった気もする。時間の感覚も思考も何もかもが曖昧だった。
ぱた、ぱた、ぱた…
水音は止まない。何故だろう、小さな音なのに不思議と無視出来ない。聞く者の胸をざわざわと波立たせる音だ。
「何の、音?」
何も見えない状況は人を不安にさせる。音は徐々にライムの方へ近づいてくるようだった。ひとまず杖を構えようとポケットを探るが何も無い。慌てて反対側のポケットに手を伸ばしたが、そこにも杖は無かった。丸腰だ。
「っ……!」
コツ、コツ、コツ……
水音に交じって聞こえる足音に体が緊張する。始め微かな音だったそれは段々とはっきりした音として聞こえてきた。それと同時に周囲の闇が少しずつ薄まり、辺り一面に広がる“何か”が見えてきた。
闇の中で密度の違う黒が動く。ちらちらと揺れるシルエット。浮かび上がって見える白さで、ようやくそれが人だとわかった。
「う、そ……」
近づいて来るのは長身の男。地面に散らばる何かを踏みつけて此方へ近づくその足取りはゆっくりで、なのに聞いていると追いたてられるような焦りが生まれる。
「っ……!?」
散らばっていたのは人間だった。ピクリとも動かず、マネキンのように無機質に転がるそれを男は気にも留めずに踏みつける。その度跳ねる赤い血が白磁の肌を斑に染め上げるが男は薄く笑っていた。紅い瞳の奥深く、炎の如く揺れる狂気。
ああ 何て赤が似合う人なんだろう。
白と黒。モノクロに映える鮮烈な赤。
瓦解した世界の中で、彼だけが鮮やかだった。他者の命を奪ってその屍の上を悠然と歩く姿は帝王という呼び名に相応しい。優美で妖艶。残酷なまでに美しい。支配者の顔で嗤うひと。
「逃げても、無駄だ」
低く、良く通る声は耳に甘い。身体の自由を奪うそれは毒だ。
逃げなければ。ガンガンと頭の中ではうるさい程に警報が鳴り響くのに、弛緩し切った体は根が生えたみたいにその場に張りついて、指一本すら動かせない。
「印を刻んだのだから」
ゆるりと、男のしなやかな指先がライムのローブの上から胸元をなぞる。所有の印。彼がそう言って自ら刻んだ、その上を。
────嫌だ!
沸き上がる拒絶。触れた場所から痛みは許容量を越えて身体中を巡り肌を焼く。叫び声を上げようと口を開いたけれど、喉は乾いて悲鳴は声にならなかった。
「─────っ、ぁあ!!」
声にならない叫び声でライムは目を覚ました。
胸を上下させ荒い呼吸を繰り返す。ぼやけた視界に入るのは、見慣れぬ天井。乱れたシーツと握りしめられた拳が痛む。状況がわからず、肘をついてやっとのことで上半身を起こした。
「っ、ぁ……!」
途端に引きつれるように痛む胸を押さえて、ライムは上半身を丸め俯いた。白いシーツ、白いカーテン、薬品の匂い。涙に滲む視界に映る景色は見覚えがあるもの。
夢を見ていたのだと、上手く回らない頭でそう判断した頃には呼吸も少し落ち着き、徐々にだが痛みも引いてきていた。
「ライム」
名前を呼ぶ深く穏やかな声。汗で額に張り付いた前髪を掻き上げて、ライムは緩慢な動作で声がした方へと顔を向けた。
「ダンブルドア……教授」
明るいブルーの瞳と目が合う。穏やかでどこか哀しげな笑みを湛えて、ダンブルドアが此方を見ていた。
「あの……っ、う……」
「無理をしてはいかん」
慌て姿勢を正そうとした拍子に、ぎしりと関節が軋む。その痛みで身体中が悲鳴を上げている事にようやく気付いた。身体を丸めて痛みが治まるのをじっと待ち、息を整える。
ダンブルドアから差し出されたコップを受け取り、ライムは水を嚥下する。渇いた喉に甘く、体温より低い温度のそれがゆっくりと喉を伝い落ちてゆく感覚がした。労るように優しく背中を擦る手のあたたかさに、強張っていた身体中の筋肉がゆっくりとほぐれてゆく。じわりと目元に滲んだ生理的な涙を拭って、ライムは小さく深呼吸した。
「何があったか覚えておるかね?」
「……は、い」
少しずつ、気分が落ち着いてきた。ここはホグワーツの医務室だ。ライムの記憶はあの、暗い路地裏であの人と会話していたところで途切れている。気を失った後の事はわからないが、こうして手当てを受けて寝かされているという事はダンブルドアが助けに来てくれたのだろう。
でなければ、助かるはずが無い。
────あの人に対抗出来る者など、いないに等しいのだから。
「そうか。何にせよ、目が覚めて良かった。心配していたんじゃよ」
「……すみません」
「いやいや、ワシも迂闊だった。もっと早くに駆け付けられたら良かったんじゃが……いや、今は君がこうして無事でいてくれただけで良い」
「あの……ダンブルドア教授。……あの人、は……?」
聞くべきか、ほんの一瞬迷って、ライムは言葉を選びながら尋ねた。
「……ヴォルデモートはまた行方を眩ませてしもうた。──じゃが、ライム。君が無事で、本当に良かった」
労るような微笑みを浮かべて、ダンブルドアはライムを見た。
「そ、です……か、」
驚く程弱々しい声が出た。
────沸き上がるこの感情は何なのだろう。
安堵と落胆。頭では理解出来ても、入り混じった気持ちに心はついていけない。
「すまぬが君の傷痕を、マダムポンフリーに見てもらった」
びくりと反射的にライムの肩が揺れた。傷痕。見える範囲に特には外傷は無かった。痛む場所はひとつ。それはつまり、彼が刻んだもの。
「手を尽くしてもらったのじゃが……跡は残ってしまうそうじゃ」
「そう、ですか……」
ライムはローブを胸元で掻き寄せる。握りしめた小さな手が微かに震えているのを見て、ダンブルドアはほんの少し辛そうにその表情を歪ませた。
いいのだ。あの人が、治るような生易しいものを刻むはずが無い。この印は、きっと一生消えないだろう。
────忘れる事など、許してくれない。
「これは、何かの罰なんでしょうか」
ぽつりと、つぶやく。
「憎めないんです。どうしても。……今の彼は、もう私の知ってるリドルじゃないって、頭では、わかっているのに……どうしても」
「……人の心とは難しいものじゃ。割り切れぬ事など無数にある」
ライムの肩に手を置いて、ダンブルドアはゆっくりと諭すように話す。
「それでも、一つだけ言っておこう。闇に囚われてはならぬ、ライム。君は誰よりそれに近い場所に立っておる。どんなに強く腕を引かれても、踏み越えてはいかん、と。……どうかその事だけは覚えておいて欲しい」
何か答えなくてはと思うのに、胸が詰まって言葉にならなかった。ライムが顔を上げた先で、ダンブルドアはゆっくりと頷いた。その顔があまりに優しいものだから、何だかいたたまれなくて再び俯くと、横でコトリと硬質な音がした。見ればベッドサイドの小さなチェストに水差しと薬瓶が置かれていた。
「今日はもう横になりなさい。その薬を飲んだら、ゆっくりおやすみ。今度は夢を見ずに眠れるじゃろう」
無言で頷いたライムがよろよろとした動きで薬を飲むのを見届けると、ダンブルドアはローブを揺らして静かに退室した。
「────リドル」
あの人は、行ってしまった。私を置いて。
それにホッとしているのに、何処か寂しいと感じている自分がいる。
「何で……私、」
一緒にはいられない。今のあの人はリドルじゃあない。あの日々のようにはもう、過ごせないのに。なのにどうして、こんなに惜しい。
「馬鹿みたい……本当に」
左胸が、じくじく痛む。
でもそれ以上に、心が苦しかった。
せめて涙を流せたら、この苦しさも少しは楽になるのに。
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