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星の海 約束の丘
幼い頃、僕と兄は仲が良かった。
広く、外界とは切り離された家の中が僕らの世界のほとんどで、まだ外の世界など知らず、ただ毎日は楽しくて、新鮮で、僕らは純粋だった。



「レギュ、急げ! 」


走って走って、入り組んだ小道を抜ける。息が上がっても不思議と苦しくは無かった。
真夜中。母が決めた就寝時間などはとっくに過ぎた頃、僕と兄はあたたかいベッドを抜け出し新月の暗闇の中 星を見に出かけた。この秘密の散歩を始めたのはいつだっただろう。思い出そうとしても記憶は曖昧で、ただワクワクした気持ちだけが鮮やかによみがえる。

時折建物の合間から見える星がハッとするほど綺麗で、無意識に足を止めてしまう。その度距離は開くけれど、幾ら距離が開いても、必ず兄は待っていてくれた。曲がった角の先で。遅れて追いついた僕の姿を見るとほんの少しだけ微笑んで、何も言わずに走り出す。言葉など必要なかった。

まだ幼い僕らは上手く魔力を扱えない。杖も持たず、学校にも上がれない年齢の僕らも家にある箒に乗ることはできるけれど、それらは全て厳重に管理されているし、何よりせっかく秘密で抜け出すのに楽をしたらつまらないから、と兄さんは箒に乗ることを禁止した。これが僕らの夜の散歩のルール。誰も知らない、僕らだけの秘密。

兄さんは器用で身軽で運動神経もいい。近道だと言ってレンガ造りの高い壁に足を掛けると、そのままひょいひょいとスムーズに登っていってしまった。後に続こうと同じように見よう見まねで登ってみるけれど、上手く足を掛けることができない僕は何度も滑り、肘を強かに打ちつけ傷が増えるばかりだった。


「レギュラス」


上から降ってきた声に顔を上げると、兄さんが手を伸ばしていた。


「ほら、掴まれ。引っ張ってやるから」


その声に励まされるように再び壁に足を掛け、精一杯手を伸ばすと、力強く引っ張り上げられた。繋いだ手は少し汗ばんで、冷えた指先とは正反対に熱いてのひらは僕より一回り大きくて、やっぱり兄さんは僕より大人なんだなと思った。



****



吐く息は白く、夜の空気は澄んで冷たく肌を刺す。走りに走ってようやく建物の迷路を抜けた先にあったのは、広い広い草原と、その中央にぽつんとある小高い丘だった。

踏みしめた地面は霜が降って固く、歩くたびザクザクと音を立てて僅かに沈んだ。

丘のてっぺんに着いて、ようやく僕は息を吐いた。辺りに木はほとんど無く、とても見晴らしのいい場所だった。
けど、どうやって星を見るのだろう? 立ったまま空を見上げるのでは首が痛くなってしまう。去年までは兄さんが敷く物を持ってきていたけれど、今は特にそういった荷物を持っているようには見えなかった。


「これ、なーんだ」
「ハンドバッグ? ……まさかそれ、母上の」
「内緒だぜ? 」


悪戯っぽく瞳を輝かせた兄さんはそう言ってバッグの中に手を突っ込んだ。
地面に敷くための分厚い布、沢山のお菓子とチキンが詰まった小さなバスケット、温かい紅茶がたっぷりと入ったポットに2つの小さなティーカップ。次々と出てくる様子はまさに、物語に描かれる“魔法”そのもので、瞬きするのも忘れて魅入った。


「兄さんは、魔法使いだね」
「何言ってんだ、レギュもだろ」
「そうだけど……兄さんと僕は、違うよ」


俯いて足元を見つめた。小さな僕の両足。兄さんより一回り小さいそれは、細く小さく、兄さんみたいに速く走ることも、一人で壁を登ることも出来ない。


「レギュラス」


固く、真剣な声が僕を呼んだ。


「余計なこと、考えるなよ。お前はお前らしくいればいい。俺とお前は違うし、それでいいんだ」


しっかりと目を合わせて言い聞かせる兄さんの言葉には何か深い意味がありそうなのに、僕には良くわからなかった。けれど兄さんが僕を励まそうとしてくれているのだという事はわかって、僕はそれだけで嬉しかった。


「ほら、そんな話はいいから寝っ転がって見ようぜ」
「うん! 」


ばさりと広げたシートの上に仰向けになって兄さんが手招きした。気を取り直して駆け寄って、横になると上から分厚い毛布が掛けられた。


「ほら、もっとこっち寄れよ。離れていたら寒いだろ」
「はい。……でも本当に、こんなにたくさん、いつの間に用意していたの? 」
「これも秘密、だ。温かいだろ? 」
「……うん」
「ほら、上を見てみろよ」


にやりと悪戯っぽく笑った兄さんに笑い返して、空を見上げた。


「う……わぁっ……! 」


透き通った冷たい空気。静まりかえった夜の底。
雲ひとつ無い濃い藍色の空に澄んで白い星が一面に広がっていた。
――――綺麗だ。それ以外に、僕はこの感情を表現する言葉を持っていなかった。宝石のようにちりばめられた無数の星々が瞬く夜空は広く まばたきするのも忘れて魅入った。
海みたいだ。星の海。


「……すごい。綺麗……綺麗だね、兄さん。凄く、綺麗だ」
「ああ、綺麗だ。――馬鹿みたいに広いよな」


目を細めて空を眺める兄さんの横顔はどこか悲しげで、それを止めたくて、僕は無理やり明るい声で話しかけた。


「兄さん、星の名前わかる? 」
「ああ。あの中に俺たちの名前の星もあるんだぞ」
「本当に? 兄さんのも? 」
「ああ」
「……僕のも? 」
「もちろん」
「父上や、母上の名前も? 」
「あるぞ」
「――――教えて、兄さん」


しょうがねぇな、と言って優しく微笑む兄の顔を見て、嬉しくて、胸の奥がきゅうっと締め付けられた。
優しい兄さん。物知りで、強くて、自慢の兄。大好きで大好きで、たまらない。その存在は大きくて、越えられないほど高い壁でもあった。
何故だか不意に泣きたくなった。


「兄さん」
「ん? 」
「また、ここに来ようね。来年も、その先も、一緒に星を観ようね」


泣きそうだった。何でだろう。兄がどこか遠くへ行ってしまうような気がして。それが怖くて引き止めたくて、けれどそんな事を言うのは弱虫みたいで言えなくて、何でもいいから形が、約束が欲しかった。そうすれば、来年もまた、こうして一緒にいられるから。


「……ああ。また来よう、レギュ。約束だ」


兄は一瞬だけ悲しそうな顔をして、僕の頭をくしゃりと撫でた。その手は少し震えていて、お互いにそれ以上は何も言わなかった。言ったら崩れてしまうのだと、きっとお互いわかっていたのだ。



****



「夜中に抜け出すだなんて……! 全く、何を考えているの!? 」


ヒステリックな叫び声が屋敷中に響き渡る。
星を見に屋敷を抜け出した次の日、母は足音も荒く僕らの寝室に入ってきてそう叫んだ。どうやら泥だらけになった僕の靴を見つけた屋敷下僕妖精の報告で、昨夜こっそり屋敷を抜け出したことが母にばれてしまったらしい。


「シリウス! レギュラス! 貴方たち自分が何をしたかわかっているの? 」


叫ぶように怒鳴り続ける母の眦は吊り上り、顔は怒りで真っ赤になっている。母は一度怒り出すと頭に血が上り、気持ちが治まるまで手がつけられない。僕はそんな母がひたすらに恐ろしく、すくみあがって何も喋ることが出来なくなってしまった。ただぎゅっと目を瞑って、震えながら足元を見て、この怒りが収まるのを今か今かと待っていた。

すると、突然隣に立っていた兄さんが口を開いた。


「レギュラスは悪くない。俺が無理やり誘い出したんだ」
「え……? 」
「――――本当なの? 」


唐突に口を挟んだ兄さんの言葉に動揺したのか、少しだけ怒りを緩めた声で母がそう尋ねた。


――――違う。

無理やりなんかじゃない。否定、しなきゃ、


「ちがっ「そうだよな、レギュ」


否定の言葉を遮られて、僕は信じられない気持ちで兄さんの顔を見つめた。
兄さんの瞳は真剣だった。何で? どうしてそんなことを言い出すの? そんなことを言ったら、兄さんが悪者にされてしまうのに。けれどそんな風に戸惑う僕を置いて、兄さんは母上に説明し出した。ハンドバッグを持ち出したこと、厨房からお菓子やチキンをくすねたこと、窓に細工をして、夜中も開けられるようにしていたこと、僕を無理やり連れ出して荷物持ちにしたこと。

不自然な程すらすらと紡ぐ話は偽りだらけで、その話の中で僕は巻き込まれた被害者で、悪者は兄さん一人だった。


話し終わった途端、母の怒りは全て兄さんに向けられた。何度も怒鳴られ、頬を打たれて地面に叩き付けられる兄さんを凍りついたように見つめながらも、僕はその場から一歩も動けなかった。


一頻り怒鳴り、部屋を出て行く直前に、母上は最後に兄さんに聞いた。


「どうしてこんなことをしたの」
「星が、」


掠れた声で、兄さんが答える。


「星が見たかったんだ」



それは昔、僕が兄さんに強請ったことだった。



****



母上が出て行ってからも静まり返った寝室で、僕はしばらく動けなかった。その沈黙を破ったのはやはり兄さんで、「あーあ……ばれちまったなー」と不自然な程明るく言って僕に笑いかけた。


「兄さん」
「ん? 」


どした? と言ってこちらを見る兄は優しく微笑んでいて。
ぽろり と涙がこぼれた。


「って、おいおい……! どっか痛むのか?何だ、どうしてお前が泣くんだよ」
「だって、っ」
「レギュ……? 」
「ごめ、ん……ごめんなさい、兄さん」


兄さんは悪くないのに。僕を庇っただけなのに。なのにどうして、兄さんばかりがこんな目に遭うのか。わかってる、僕が本当のことを言わなかったからだって。怒られるのが怖くて、叩かれるのが恐ろしくて、庇われるままに俯いて真実を隠してしまったから。
僕は、最低だ。


打たれて腫れ上がった頬を見ると胸がずきりと痛む。顔が整っている分腫れは余計に目立った。
どんなに謝ったって取り返しは付かなかった。兄さんに申し訳ないとは思うのに、今更母上に本当のことを言うのはもっと恐ろしくて、僕は言えなかった。僕は卑怯だった。


「ごめんなさい、ごめんなさい」


ただひたすらに、謝罪の言葉を繰り返す僕を、兄さんは無言で抱きしめた。あやすように背を叩く手は優しくて。
ぽろぽろと零れ落ちる大粒の涙。唇に触れたそれは生温かく、塩辛かった。



****



星降る丘で、幼い頃の僕と兄さんは飽きもせず夜空を見上げていた。一面の星空は果てしなく広く、高くて。あの日掴めそうだと思った夜空の星は、今はもう果てしなく遠かった。


約束の丘。また一緒に星を眺めようと約束した、二人だけの秘密の場所。
約束は果たされなかった。忘れ去られ、あたたかな記憶は埃を被り、僕はここに一人で立っている。

兄と僕の進む道はとうの昔に分かれてしまった。選んだものが違う僕らは もう二度と、交わることは無いのだろう。


「……さようなら」


献花の代わりに、言葉を一つ。
もう二度とここには来ない。兄も、僕も、過去は風化し、何れ忘れる。

何も残らない。悲しくはない。仕方がない。そういうものだ。誰もが、みんな、そうして忘れる。


「さようなら」


守られなかった約束だけが、捨てきれなかった良心のように 今も猶この胸の奥にある。



(星の海 約束の丘)

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