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どちらが先に捨てたのか
兄が家を出た。
魔法で中を拡張した小さな鞄に気に入りのものだけ乱雑に詰め込んで、不要なものは全てそのまま置き去りに 幾ばくかの金を持って、一度も振り返らずに立ち去った。

驚きはしなかった。ああ そうか と、その事実は自然と僕の胸に収まった。

主のいなくなった部屋はひんやりと冷たく ただ静かに眠っているようだった。部屋の隅、毛足の長い絨毯の上に無造作に転がされている小さな石ころ。それを目にした瞬間、ほんの僅かに胸が痛んだ。チクリと細い針を刺すように短く鋭く痛むそれを、瞬きひとつでやり過ごした。

兄がいなくなっても僕の生活は何も変わりはしなかった。既に兄と会話する事は全くと言っていい程無かったし、長期休暇中 家でも兄は部屋に閉じ籠って出てこないか、数日だけ過ごしてもう此処に用は無いと言わんばかりにさっさと悪友であるポッターの家に出掛けて行ってしまうのが常だった。
父も母も兄がグリフィンドールに組み分けされてからは家督を譲るのは僕にだと決めてそれを公言して憚らなかったし、周囲もそれを当然の事として受け止めていた。


僕はからっぽの人形だった。
ブラック家の血を引き、その血を残す為だけの人形。ただ家に従順であれば良い。家名を守り反映させる為に努力し頭を使う事は求められたが、家の存続の必要性について深く考えてはならなかった。人形に余計な感情はいらない。兄はどう考えても従順とは程遠く、反対に僕はその役にぴったりだった。

兄は確かに人形にはなり得なかった。

ぽっかりと空いた穴。中身の無い空虚な人形。僕は僕を満たす“何か”が欲しかった。胸を張ってブラック家の家督を継ぎたかった。レギュラス・ブラックとして正しい道を歩みたかった。


――――だからこれは、必然なのだ。


僕は今日、人を殺した。
拍子抜けする程あっさりと人は死んだ。

仮面越しに見る世界は暗く濁って はためくローブの合間から見下ろすマグルの顔は歪んで醜い。短い終わりの呪文を唱えて奪う命の重さは麻痺した心に響かない。

人はこんなにも脆く あっさりと死ぬ。


「レギュラス」


振り向いた先、控え目に空いたドアの横にジルが立っていた。ノックの音に気が付かなかったらしい。そんなに深く考え込んでいたのかと 少し驚いた。

ジルは僕と兄の幼馴染で、元は兄の婚約者で、今は僕の婚約者。ずっと昔から僕と兄の近くにいて、僕ら兄弟の関係が変わってもただひとり 変わらぬ態度で傍にいてくれたひと。


「お帰りなさい、レギュ」
「来ていたんですね」
「……ええ。もうじき帰るだろうから、それまで待っているといいって、ヴァルブルガ様が」
「そうだったんですか。待たせてすみませんね。そこに座って下さい。今、紅茶でも……」
「レギュラス」


それは硬質な声だった。屋敷しもべ妖精を呼び出そうとした僕の行動を遮るように短くジルは名前を呼んだ。ゆっくりと向き直ると彼女はいつに無く真剣な表情をしていた。
次の言葉を待つ間 目の前に立つ少女をじっと見つめる。震える唇は僕の名を紡いだ後キュッと固く引き結ばれ、青褪めた顔は元の白さと合間って作り物めいて見えた。ほっそりとした輪郭を縁取る長い髪は色素が薄く艶やかで、黒髪だらけのこの屋敷では際立って美しく思える。小さくとがった顎が何処か妖精めいているな、と思った。


「死喰い人になるの? 」


ただ短く簡潔に、小さな桜色の唇がそう問うた。


「ええ」
「どうしても? 」
「はい」
「決めてしまったのね」
「反対しますか? 」
「…………いいえ」


長い沈黙の後、ぽつりと零れ落ちるように小さな声で そう言った。
やはりジルは反対しなかった。今までずっと ジルが僕に反対する事は無かったし、きっとこれから先も無いだろう事を 僕は確信している。覚えている限り昔から、彼女はいつでも僕の傍にいてくれる。


あの御方は僕を満たしてくれる。中身の無い人形を、中身のある人間にして下さる。

純血のブラック家。
次期当主である僕があの御方に認められれば、当主としての役目を立派に果たす事が出来る。その為ならばマグルに手を掛ける事なんて容易い。今更良心なんて痛まない。


「石を あげたんです。幼い頃」
「石? ……シリウスに? 」
「そう。小さな小さなただの石です。道端に転がっているものよりは綺麗だけれど、ありふれた ただの青い石を。
どうしてでしょうね…あの頃はそれが とても綺麗で…宝物のように思えたんですよ」
「レギュラス……」
「永らくそんな事すら忘れていました。床に転がっていた石を見て、ようやく思い出したんです」


何も 昔からこうだったわけでは無い。
幼い頃は兄と僕は仲が良く、口うるさい母の目を盗んでは二人で屋敷を抜け出して外の世界で遊び回っていた。兄は家を脱け出す事に掛けては誰より優れていた。その手口は巧妙で大胆なもので、滅多に気付かれる事は無かった。見つかれば酷いお仕置きが待っていたのだけれど、それを怖がる僕を見ても兄さんは「大した事無い、心配するな」と豪快に笑い飛ばすだけだった。実際母に気付かれ怒鳴られたところで兄は素直に反省なんてしなかったし、逆に反論ばかりしていた程だ。幼い頃の僕はそんな兄が好きで、けれど母の期待も無視は出来なくて、徐々に兄には付いて行かなくなった。誘ってくる兄を諌めるようになってから、兄は僕の言葉を聞いて顔を顰めるようになっていった。
兄は大事だった。けれど父や母の想いも無碍には出来ない。どちらとも上手くやりたいのに、それは無理だった。僕はどちらかを選ばなくてはならなかった。選びたくは無かった。僕はその感情を上手く説明する事が出来なかった。


「捨てたのは、どちらが先なんでしょうね」


兄か、僕か。

兄が家を捨てたのか、僕が兄を捨てたのか、それとも家が兄を捨てたのが先なのか、飽きる程に自問自答を繰り返してみたけれど 答えなんて何処にも無かった。


そっと ジルが手を伸ばす。白く長い指。細い手首。動かずじっと見つめていると 包み込むように優しく、壊れ物を守るように僕を抱きしめてきた。その手が触れたほんの一瞬 反射的に身を竦めたけれど、ジルが髪を撫でる手の感覚が心地よくて。僕はゆっくりと長く息を吐いて、目を瞑る。

唇の形だけで ジルの名前を呼ぶ。僅かに空気を震わせるだけで音にならないその呼びかけにも、ジルはちゃんと応えてくれた。


「ずっと、貴方に付いていくわ。私だけは 最期まで」


だからどうか 傍に居させてね、と掠れた声で囁くジルの背に手を回して。
言葉の代わりに、応えるように強く抱きしめた。


引き返せない。
自分の為に杖を振るった僕たちは、純粋に魔法に目を輝かせていたあの幼い頃には戻れない。

僕が守りたいものは何だろう。何が欲しいのだろう。失いたく無いものはどれだったのだろうか。
それすらも、見失いそうになる。


「ジル」


確かめるように 名前を呼ぶ。
せめてこの手で掴めるものだけは、決して失わないようにと。


踏み出したからにはもう ただひたすらに進むしか無いのだから。

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