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ジムノペディが呼んでいる


クリスマス、年末と時が過ぎ、年が明けた。三日も過ぎて業務も落ち着き始めていた。新年を迎えようとヴィクターのやることは変わらない。自分のラボで研究に尽力するだけだ。

「あ! コレ、見たことあるノ〜!」

今日も好き勝手ラボを歩き回っていたジャクリーンが大きな声を上げた。何も掴めなさそうな丸い手には宇宙をイメージした箱がある。クリスマスの少し前にアイリーンからもらったチョコレートだ。贈られてから冷蔵庫に入れたままだったのを発見し、休憩に食べようとしていたのだった。

「そうなのですか? お転婆ロボさんが知っているということは、有名なブランドなのでしょうか」
「分からないノ。でも、アイリーンちゃまと一緒に選んだから、知ってるノ〜。アイリーンちゃま、ヴィクターちゃまに渡せて良かったノ〜」
「アイリーンと?」

渡したときの会話を思い返す。ジャクリーンに声をかけたとは言っていたが、チョコレートを一緒に選んだとまでは聞いていなかった。ジャクリーンは人懐こく素直で人好きのする性格をしていて、アイリーンも温厚だ。ただ相性が良く、気が合ったのだろう。

同じくラボに押しかけて来たノヴァが、パンケーキにハチミツをかけながら聞く。

「へー、いつの間にアイリーンさんと仲良しになったの、ジャクリーン」
「クリスマスの前、アイリーンちゃまが悩んでたカラ、ジャクリーンが手伝ってあげたノ〜」
「そうなんだ。良かったね、ジャクリーン。アイリーンさんも手伝ってもらって嬉しかっただろうし、ヴィクも喜んでるよ」
「勝手に私の気持ちを代弁しないでください、ノヴァ」
「え、でも、アイリーンさんからプレゼントもらって嬉しかったでしょ?」

それが当然だとばかりに、ノヴァはにこにこと締まりのない笑顔をヴィクターへ向ける。

人からの贈り物に興味がないだろう、とよく言われる。贈り物そのものに興味が湧くことは少ないのである程度正しい。だが、「プレゼントする」という行為にある親切や好意はありがたく思う。
だから、あのときもできる限りの誠意を込めて礼を述べたつもりだ。ノヴァやジャクリーン、ヴィクターのファンだという人々以外からのクリスマスプレゼントは久しぶりだったのもある。嬉しかったか否かで答えるならば、前者だ。

「……そうですね。感謝の気持ちはありますよ」

チョコレートを受け取ったときのアイリーンは嬉しそうに垂れた目を細めていて、少し幼い顔に成人した女性らしい表情を見せていた。
ヴィクターの言葉を、ノヴァが驚いたような微笑ましいような、どちらとも取れない顔をして聞いている。それがどんな感情から来た表情なのか、ヴィクターには推測できなかった。

「ねぇねぇヴィクターちゃま、このチョコレート、開けてもいーい?」
「えぇ、どうぞ」
「チョコレートに見えないノ! やっぱりすっごくステキナノ〜」

箱の中には鉱物を模したチョコレートが並んでいる。コンセプトは「惑星の欠片」のようで、一見【サブスタンス】のコアにも思える。
蓋に書かれた説明を読み込んでいるジャクリーンの後ろから、ノヴァがチョコレートをひょっこりと覗き込む。精巧に作られたチョコレートを目にして感動詞を口から漏らす。

「これ、なーんか【サブスタンス】っぽいし、ヴィクの好きなものに合わせてくれたんじゃない? ね、ジャクリーン」
「多分そうナノ! アイリーンちゃま、コレ見たとき、すごーく考えてたノ〜。・・・ヴィクターちゃま、ジャクリーンもこのチョコレート食べたいノ〜。ひとつ貰ってもいい?」

箱の中のチョコレートは五つのみだ。五つとも異なる形と味をしているが、レポートを求められたわけでもないし、ひとつくらい構わない。
いいですよ、と許可しようとしたところで、ノヴァがジャクリーンを持ち上げた。

「駄目だよ、ジャクリーン。それはヴィクのプレゼントなんだから。ほら、こっちにパンケーキあるよ」

ジャクリーンは少し不満げな声を内蔵スピーカーから上げる。それでもヴィクターへのプレゼントという言葉に納得したのか、温かそうなパンケーキの方へと素直に行った。

「せっかくプレゼントしてくれたんだし、ヴィクも何かお礼したら? 物じゃなくても、ご馳走するとか」
「貴方に言われずともちゃんと考えていますよ」

そう答えると、自分から提案してきたくせにノヴァは何故か目を丸くしている。すぐにぱっと顔を明るくさせ、

「じゃあ、俺も何か考えようか? 女の人にプレゼントって難しいしさ」
「ヴィクターちゃま。パパは女心が分かってないカラ、やめた方がいいと思うノ・・・」

ヴィクターもいわゆる「女心」は分かっていない。事実や悩みに対する救いよりも、人間は時として求めている言葉を相手に要求する。女性はその賛同を得たいことが多いらしい。「女心は冬の風」というように、喜怒哀楽が激しさや気持ちの変化しやすさは理解に苦しむ。しかし、ジャクリーンに怒られることが多いノヴァよりもまだマシなはずだ。

「そうですね。あれこれ言われるのも面倒ですし、自分で考えます」
「え〜、そんなことないよ。……多分……」

抗議したノヴァの声は小さかった。



「……何だ、コレ?」

次の日の夜。トレーニングから戻ってきたマリオンが、ヴィクターの小さなサイドテーブルに乗ったものを指差した。モデルらしき女性がポーズを決めている雑誌だ。

「女性向けの雑誌ですね」
「そんなことは見れば分かる。ボクはなんでこんなものがオマエの部屋にあるんだって聞きたいんだ」

そう聞きたいなら最初からそう聞けばいいでしょう。口にするとますます気を昂らせるので、ヴィクターは黙って要点のみを伝えておくことにした。

「アイリーンからクリスマスにチョコレートをいただいたので、お返しはどうしようかと思いまして。私は女性が好みそうなものは分かりかねますし、ネットだけでなく雑誌も見てみようかと」
「あぁ……」

マリオンは気の抜けた声で相槌を打つ。息を吐いてから、ローズレッドのベッドに座り込んだ。

「ボクもクリスマス前に会った。オマエ、まだあの人と続いてたんだな」
「えぇ。まだ交際していますよ」
「え」

マリオンが顔を勢いよく上げ、ヴィクターをまじまじと見た。瞳は大きく見開かれ、口を半開きにしている。それから難しい顔つきで考え込む。

(交際という言葉から、恋人としてでも勘違いしているのでしょうね)

同じ年頃の男女がいるだけで恋人に繋げるのは浅はかで短絡的だ。たとえば仕事の同僚である女性と会話していたとして、それだけで恋人だの何だの揶揄されるのは不快だ。
マリオンは白い頬を赤らめ、もごもご口を動かしていたが、ついに唇を開いた。

「その、アイリーンさんと……こ、恋人、になったのか?」
「違います。知人として交際しているという意味です」

想定通りの問いに即答すると、マリオンは分かりやくむすっと顔をしかめた。

「何だ、紛らわしい言い方をするな」
「言葉として正しい使い方だと思いますが。単に男女が会うだけで恋人と判断するのは良くありませんよ、マリオン」
「仕方ないだろう。ガストもよくオマエとアイリーンさんが一緒にいるところを見るって言うし……」
「そうですか。そこまで頻繁に会っているわけではないのですが」

言った途端にアイリーンと出会ってからの記憶を遡ってみると、二週間に一度は会っているような気がした。HELIOSの関係者でもないのに。礼のためとはいえ、連絡先を交換してからは顔を合わせずともメールでやり取りすることも何度かあった。
知人というには距離が近くも感じる。改めて、ヴィクター自身不思議な関係だと思う。

「で、何にするのか決まったのか?」
「彼女は星が好きですから、それに関係するものにしようと思いましたが……なかなか難しいですね」
「ふぅん」

マリオンが立ち上がり、机の雑誌を手に取ってぱらぱらとめくる。一通り最後まで目を通した後、

「……何も思いつかないなら、プラネタリウムが見えるレストランにでもしたらどうだ」
「プラネタリウム?」
「アンシェルの近くにできたレストランで、今流行ってるらしい。ジャクリーンが教えてくれた。確かそこまで高くなかったし……あぁ、ほら。普通の値段だ。これなら奢らせてくれるんじゃないか」

わざわざ携帯機の検索結果を見せてくる。ホームページに載った写真は、多少加工していそうだが暗がりの中の天井を空に見立てて星が光り、テーブルの上で幻想的にランプが灯っている。メニューは一般的なレストランやカフェの値段の範囲内で、ご馳走するにはちょうどいい価格帯だ。

「ふむ。いいですね。……せっかくマリオンが提案してくださったことですし、そちらに行くことにします。ありがとうございます、マリオン」
「べ、別にオマエのためじゃない。アイリーンさんのためだ」
「そうでしょうね」

肯定すれば、マリオンの目つきが尖った。理由を求めて見つめたものの、答えは得られなかった。



クリスマスのお礼をしたいので、週末の昼、レストランにでも行きませんか。
アイリーンに連絡を取ると、数時間後に了承の返事が来た。

そして、約束当日。ヴィクターはネイビーストリートでアイリーンを待っていた。週末の昼ということもあって、ネイビーストリートは人が多い。家族、友人、恋人、上司と部下、……。様々な関係の人間がヴィクターの前を通り過ぎていく。どうしてかヴィクターへ視線が向けられるが、ヒーローであることを知ってのことだろうか。

気にせず腕時計へ視線を落とす。まだ待ち合わせの時間には早い。規律を守りそうなアイリーンのことだ、五分もすればやってくるだろう。
アイリーンと待ち合わせするのは初めてだ。いつも博物館やコーヒー店などで遭遇するから、約束を交わしてまで会ったことがない。仕事で関わる人間以外と落ち合うことが久々で、何故か心がざわつく。

(不安……焦り……。いや、違いますね)

このざわつきがどういった感情になるのか、ヴィクターは映画や小説、心理学から知識を引き出そうとしたところで、

「ヴィクターさん!」

アイリーンが髪を揺らしてヴィクターの元へと駆けてきた。チャコールグレーのショートブーツは走りづらかったのか、ヴィクターの前で止まると脚をさすり、息を整える。

「こんにちは。遅れてしまってごめんなさい」
「私も先程来たどころです。約束の時間には十分ほど早いですし、問題ありませんよ。足は痛めてないですか?」
「大丈夫です。本当、お忙しいのに今日は誘ってくださってありがとうございます」
「いえ、年が明けて少し落ち着いてますから。気にしないでください。少し早いですが、店に向かいましょうか」

ネイビーストリートから目的地は近い。ほんの数分歩けば、プラネタリウムが見えるという店の名が書かれた看板があった。地下に続く階段を降りる。マリオンが流行っていると言っていた通り、店の前で客が十組ほど並んでいた。

「結構並んでますね。人気なのかしら」
「予約しているので、大丈夫だと思いますが。中に入って聞いてみましょう」

月と星を模した古代壁画のような絵が描かれた扉を開けた瞬間、

「あ……」

背後から吐息のような声がした。

店の中は通常の飲食店よりも照度が低く、バーの明るさと同程度だった。その代わり、夜空の星々がよく見えた。深い藍色と青白い光、客席のキャンドル色が上手く調和している。さすがにホームページの写真よりもチープだったが、演出はなかなか上手く思える。耳を澄ませば、客の会話や調理の音に混ざってモーツァルトの『Twinkle Twinkle Little Star』のアレンジが小さく聞こえる。高級店らしさも与えようとしているらしい。

店内を観察していると、店員の一人がヴィクターたちへ話しかける。

「いらっしゃいませ。ご予約のお客様でしょうか? でなければ、お名前を書いてお待ちいただくことになりますが……」
「予約していたヴィクター・ヴァレンタインです」
「少々お待ちください。……はい、ありがとうございます。こちらにどうぞ〜」

店員が愛想よく笑って誘導する。

案内された席はちょうど店内の中央あたりで、見回せばどの星もよく眺めることができた。季節に合わせているらしく、頭上にはおおいぬ座のシリウス、こいぬ座のプロキウス、オリオン座のベテルギウスといった一等星があった。

アイリーンの瞳は一等星と同じくらい輝いている。ストレートグリーンに映る光は透明だ。何かを懐かしむような、静かな眼差しをじっと注いでいる。

「気に入ってくださったようで何よりです」

ヴィクターの言葉でやっとアイリーンが目を向き直した。顔に恥じらいの色を乗せ、口元に手をやった。

「プラネタリウムを見ながら食事できるところなんですね。素敵」
「貴方は星が好きでしょう。こういう店があるとマリオンに教えていただきました」
「そうなんですか。私はレストランとかカフェって何となく入るので、知りませんでした」
「私もあまり調べませんよ。何気なく入った店がいい店であることも多いですし」

店員がメニューと水が入ったグラスを置きに来て離れる。先にアイリーンへメニューを手渡そうとすると、何もかも満ち足りたように笑っていた。本当に欲しいものが手に入ったかのような、幸福そうな笑み。

「ありがとうございます、ヴィクターさん。とても嬉しいです」

本当の星空を見たわけでもないのに、そこまで喜べるものなのか。単純な人だと思うより、アイリーンの喜びがあまりにもまっすぐで無邪気なものだから、ランチに誘った甲斐があったと安堵が胸に広がった。自然と口元が和らぐ。

「こんなに喜んでくださって、私も嬉しいですよ」

お互いにメニューを選び、店員へ注文する。待っている間、まだ星を見つめるアイリーンへヴィクターが問う。

「そういえば、星を好きな理由を聞いたことがありませんでしたね。何かきっかけでもあるんですか?」

美しいものを見つめていた目が少し光を失った。アイリーンは困ったように眉尻を下げ、目を伏せた。今度は夜空でもヴィクターでも、どこでもない場所へ視線をやって、口を開いた。

「私、小さい頃はほとんど父と話したことがなくて。母も早くに亡くなりましたし、一人で本を読んでいるような暗い子供でした。でも、夏のある日、研究室にこもりきりだった父が、何の気まぐれか天体観測に連れて行ってくれて……。グリーンイーストの近くにある公園は夏なのに涼しくて。その公園はまだ街灯も少なかったから、今より星がよく見えたんですよ。デネブ、アルタイルにベガ……他の星々も、夢みたいに綺麗で――――ずっとそのときの光景が忘れられなくて。だから、星が好きなんです」

よほどその星が美しかったのか、夢見るような顔つきで言う。多少美化されているようにも思えたが、人の記憶などそんなものだ。本当の記憶と妄想を混ぜていることに気付かず生きている。
ヴィクターは片手で口を覆う。

「貴方の父上は、もう研究はされずに今おひとりなんですか?」
「いえ、仕事は続けてます。それに、私がアカデミーに通ってるときに再婚しているので、義母と二人暮らしですね」
「ということは、弟さんも一人暮らしなのですか?」
「はい。もう十九歳ですから。……あ、そうそう、弟の友人に今期のルーキーがいるんですよ。ウエストにいるフェイス・ビームスと、イーストのビリー・ワイズと仲が良いみたいで。弟の友人なのもあって、アカデミーではよく話してて……。別のチームですけど、二人のこと、ご存じですか?」

確かに弟の年齢とウエストのフェイス、イーストのビリーと年齢は一致する。アカデミーは生徒も多いし、お互い必要以上に家族のことを深く切り込んでこなかったので、初耳だった。

「えぇ。フェイスは交流がありませんが、ビリーとはよく連絡を取っています」
「そうなんですか? 確か、彼は情報屋をしてるって言ってたから……ビジネスな意味で?」
「そうなりますね。一人では限度がありますから、研究で必要に駆られた際に。得意先だからと、私が欲しそうなものも時折教えてくれます」

何ならちょうど今もやり取りしている最中だ。

――――珍しい【サブスタンス】が見つかったんだよネ。ヴィクターパイセン、買い取らない?

ビリーから先日メッセージがあった。ヴィクター相手に珍しいと断言するからにはよっぽどの【サブスタンス】のはずだ。法外な値段を吹っかけられたが、手に入れて研究が進むならば惜しむものではない。しかし、ビリーは最初の取引先から逃げている最中で、手に入れるのには時間がかかりそうだった。

 アイリーンはそんなヴィクターの思考も知らず、呑気に会話を続ける。

「じゃあ、前標本や貝殻とか、たくさん集めてるって仰ってたものの中に、ビリーが情報源なこともあるってことですよね」
「はい。とはいえ、旅先で購入したもの、オークション、情報源も入手方法も様々です。ただ、朝起きると何の魅力も感じなくなることがよくありまして、整理に苦労します」

最近は部屋にある物の数は増えるばかりで掃除が手間に思うこともある。アイリーンと別れたら、整理整頓するべきか。などと考えていると、アイリーンの視線がヴィクターに刺さっていることに気付く。

「でも、羨ましいです」

ぽつりとこぼれた声には、抑揚がなかった。

「私は――――何かに夢中になったことがありませんから」

ひどく冷めた顔だった。虚ろで、心をどこかに置いてきたような。常ににこやかで裏表のないアイリーンが、つい数分前まで幸せを顔に浮かべていたアイリーンが、突然人形のような表情をするものだから、つい視線に力がこもる。

「でも、星は好きなんですよね? 天文博物館にはよく行かれて、家に望遠鏡もあると仰ってたくらいですし」

夢中と呼ぶには足りないが、別の職種で働いている身なら十分な範囲だろう。
アイリーンは再び天井を眺める。瑞々しい少女から、達観した女性の顔に変わっていた。

「星は……どんなに望んだって手に入らないじゃないでしょう。どれだけお金をかけても何かを手に入れたい、手段を選ばずに誰かとずっと側にいたい――――そういう気持ちが、全然なくて」

ヴィクターへ話しているというより、自分の気持ちを確かめるように、アイリーンがゆっくり言葉を選んで紡ぐ。宇宙で流星が燃え尽きた刹那が、瞳で光った。

「だから、たとえ飽きっぽくても、欲しいと求める情熱があるって素敵だと思います」

そして力なく微笑む。初めて見たアイリーンの表情に、ヴィクターはしばし見入った。

「……教師になったのは、情熱……夢があったからでは?」
「夢というほどじゃないんです。弟が小さい頃、勉強を教えてて。お姉ちゃんすごいねって純粋に褒められたのが嬉しかったんです。それに、……」

途切れた言葉を飲み込み、口を一旦閉じた。天井からヴィクターへ視線が移る。また薄く笑って、

「覚えた知識が誰かの身になればいいなって。子どもっぽいですよね」
「動機なんて大抵シンプルでしょう。何が理由であれ、教職を選んで続けてるのは立派ですよ。よく生徒に話しかけられるのも、慕われてる証拠でしょうし」
「そうだといいんですけど」

笑うアイリーンは、先程の面立ちが嘘のようにたおやかだった。
 

昼食を摂っている間も会計を済ませた後も別れる直前も、ヴィクターが知っていた「アイリーン・シェリー」だった。
帰路に着くヴィクターは、アイリーンの朧に霞む瞳を眼底に再現する。

(ああいった表情もするのですね……)

アイリーン・シェリーという女性は聡明で、温和で――――逆に言えば、それだけで分かりやすい人物だと思っていた。
温度のない顔つきは嫉妬、悲哀、絶望、孤独、どれとも違う感情だった。尊敬する師を失った幼き日のヴィクターとも、愛した婚約者を失ったノヴァとも異なっている。あれは一体どんな感情から来たものなのか。

アイリーンには、沸騰もせず、凍りもせず、波立たぬ森の湖にも似た穏やかさが常にあった。嘘偽りないことは分かるのに、仮面を張り付けた笑みにも感じられるような。
だからといって気味が悪くもならず、むしろ、モナ・リザの微笑のような謎がヴィクターの胸を刺激する。
どれだけアイリーン・シェリーが清楚で慎ましく上品であろうと、居心地がいい、好ましいといった感情のみだった。
けれど、今はターコイズブルーの瞳の切ない光や、夜の海のようなもの寂しく空虚な顔が脳裏にこびりついている。

思考の海に潜ってみようとしてやめた。今は【サブスタンス】の研究の方が大事だ。
帰った後の行動をシミュレーションしながらも、寒々しい冬の空気はヴィクターの頭をクリアにしてくれなかった。



ランチをして帰った夜。アイリーンは旧友と通話していた。

『アイリーンは年末年始何してたの? 美術館とか閉まってるし、家でゆっくりしてた? それとも弟君とかと過ごしたの?』
「年末年始は一人でゆっくりしてたけど……。あ、そうそう。あのね、今日ヴィクターさんがクリスマスのお礼にって、プラネタリウムを見れるレストランに連れていってくれたの。とっても良かったわ」

今思い出してもいい店だった。現実の星空やプラネタリウムより天井が少し低い分臨場感はあまりなかったが、誰かと食べながら天体観測しているような気分になった。誰かと一緒に天体観測したのはアカデミーまでだったし、何よりヴィクターが考えてくれたことが一番嬉しかった。

だが、少々……かなり失礼な態度を取ってしまったようにも思う。羨ましいなんて、きっといくらでも投げられた言葉だったろうに。別れ際に深々と謝罪すると、ヴィクターは面白そうに目を細め「お気になさらず」と言っていたが、本心かどうかは読み取れなった。

『えっ、いつの間にそんな進展してたの!? すご〜い』
『へぇ、粋なことするね』
「食事も美味しかったし。親子も多かったから、二人も家族で行ったらどうかしら」
『でもわたし、息子まだ小さいからなぁ。ミーナ行ってみたら?』
『そうね。今度予約してみようかな』

えぇと頷くと、ミーナがしみじみとした口調で、

『っていうか、 アイリーン、 最近本当楽しそうだね。元カレとデートしても「あ、そういえばデートしたのよね」 でさらっと流してたのに』
『うん、ヴァレンタインさんのこと、すごーく好きなんだなって思う』
「……好き?」

繰り返した声はからっぽだった。
好きか嫌いかで言われれば、もちろん好きだ。 だが、当然リズが口にした「好き」の意味合いは、アイリーンが思う 「好き」と違うだろう。

アイリーンの反応にリズが戸惑った声で言う。

『え、わたし、ずーっとアイリーンってヴァレンタインさんのこと恋愛対象として見てるんだと思った。 違うの?』

「ヴィクターさんは確かに素敵な人よ。 思慮深くて博識で、たまに少年みたいで」

話し方も所作も丁寧で、豊富な知識はどんな話題でも面白い。【サブスタンス】やオズワルドの話をしていると、時折冒険に出かける少年のようなひたむきさと純真さがある笑みをして、可愛らしい。

「でも、付き合いたいかとか聞かれると、違う……と、思うわ」

だって、今でも遠い星みたいな人だ。まだ湿っぽい雨のにおいとともに、思い出が色彩を伴って時を越えてやってきた。小さな頃、夏の星々が輝いていた空と同じで、眺めているだけで胸があたたかくなる。文字や写真では得られない温度を、今のうちに確かめている。なくなってもそのあたたかさを大事にしまっておけるように。

ミーナが大きなため息をついた。しばし間を置いて、アイリーンへ教師みたいに問いかけた。

『アイリーンはさ、恋愛の意味で好きってどういうことだと思う?』
「その人が欲しいとか、触れたいとか、かしら?」
『うーん、間違ってはないけど。……なんていうか、もっと言うと、人の心って手に入らないでしょ。手に入らないものを、求めようとする気持ちだと思うんだよね。でも自分の方へ引き寄せたくなって、そのもどかしさも緊張も楽しくなる感じ。あくまで私の考えだけど』

手に入らないものを求めようとする気持ち。何だか妙にしっくりきて、唇から「あぁ……」と乾いた音が出た。

星は手に入らない。消えるまで変わらない輝き。掴めない美しいもの。だから、星が好きだ。
恋人だった男性たちの顔を追想する。まだ顔の輪郭ははっきりしているし、デートした場所も告げられた想いも記憶に留められている。好きだったのは本当だ。本当だけれど、星のように焦がれていたかと問われると頷けるだろうか。

『ミーナにしては珍しく詩人っぽいね』
『うるさい。思春期どこかにおいてきました、みたいなアイリーンには分かりやすい表現でしょ』

からから笑ったリズにミーナが一喝する。一呼吸おいてアイリーンへ喋り直す。

『アイリーン、あまり自分の話をしたり、誰かと積極的に関わろうとしないし。以前と違うことしてるってだけで十分じゃない?』
「そう、かしら」
『うん、確かにいっつも事後報告』
『誰かに自分のことを話すのって、自分のことを理解してほしいっていう願望や期待だしさ』

言われてみれば、過去に自分から胸の内を告げたことも連絡を送ったこともなかったような気がする。口にしたところで叶わないことばかりだったから。望んだものが手に入ったことが本当に少ないから。

(そういえば、クリスマスのプレゼントも、別に欲しいものじゃなかった気がする……)

好きなものではあったけど、そのとき欲しいものではなかった。昔の父は電話してもメールしてもろくに聞いてくれなくて、ちゃんと伝えたはずなのに応えてくれたことが全然なかったから。
物思いにふけっていたところで、慌ててアイリーンは否定する。

「えっと、その、だからってミーナやリズを信頼してないとかじゃなくて……」
『分かってるよー』

リズの軽い、けれど慈しむような声音に目頭が熱くなった。
きゅっと拳を小さく握る。窓を見上げれば、スパンコールを散らしたように星々がきらめいて、その中でも冬の大三角がよく輝いていた。

低く冷静な声。さらさらの白銀。余裕がある理性的な顔。穏やかな目に潜む鋭い視線。たまに浮かべる少年のような笑み。時折落ちる暗い陰。話し上手で聞き上手なところ。常に論理的だけれど柔軟な考え。そして、胸に秘める、執念とも呼べるひたむきな情熱。アカデミーの頃とは印象が少し違ってきたが、ますますヴィクター・ヴァレンタインという星の輝きを感じていった。

「そうね……多分、私ヴィクターさんのこと、好きなんだわ……」

好き、と放った音が耳から胸に染み込んでいく。映画や小説はもっと甘ったるいフレーズのはずだったが、あたたかいと同時に苦しみがこみ上げてくる。伝える気がないし、きっと成就することもないから。

いつしか別れてしまうものだとしても。相手が忘れてしまったとしても。そのとき感じた幸福は胸の中で鮮烈に、時に淡く輝き続けるから。アイリーンは昔から、ずっと星の光をつかんで包み込んで、大事に飾っておいている。

「隣にいたいわけじゃないの。星みたいな人だから。だから、見ているだけでいいの」

(でも、もう少しだけ、近くで見ていたいわ……)

会いたいと思わなかったのだから会えなかった。隣にいたいと思っていないのだから、隣にいれるわけがない。
だから、もう少し。もう少しだけ、星のきらめきを間近に感じさせてくれればいい。そうしたら美しいものを胸にしまって生きていける。

アイリーンの儚く脆い声に、ミーナとリズは何も言わなかった。