書き連ねるは愛しき恋人へ
授業を終え、早々と家に帰ったアイリーンは、机に向かって手紙を書いていた。
メールやメッセージが普及した昨今、手紙を書くこと自体が久々だ。送るような相手がそういなかったのだから、当たり前なのだけれど。
なのに何故今書いているのかというと、ブルーノースのヒーローが手紙を回収してその返事をするというイベントが行われるためだ。ヴィクターが参加するというのなら、アイリーンだって参加する。今回はファンのためのイベントであって、アイリーンは控えた方がいいのだろうが、手紙を書くなどなかなかないことだ。イベントを口実に、形に残る言葉を綴るくらい許されたい。
(手紙って難しいわね)
文章を書くだけなら簡単だ。日々の会話だけでは伝えにくいことを書き起こせばいい。しかし、長文だと時間をとらせてしまうかしら、でも短文だと味気ないかしら、などと考えてしまい、ペンの進みが遅くなる。レンやガスト、マリオンの三人へはとっくに書き終えたというのに、肝心のヴィクターだけが書き出しで止まっていた。
(ラブレターなんだから、もうちょっと特別な言い回しの方がらしいかしら? My precious one(わたしのたいせつなひと)とか)
新しい便箋を出そうとした直後、思い直して首を振った。大切な人はその通りだが、後で見返したときに絶対に後悔する。
ヴィクターさんへ。それだけ書かれた真っ白の紙を見つめ、アイリーンの頬が緩む。
今回は量が特に多いから事務的になってしまうはずだけど、アイリーンの手紙を読んでヴィクターがどう感じてくれるか、楽しみだ。返事がもらえるというのだからなおさらである。応援している、あるいは憧れている、もしくはひそかに恋い慕っている、ヒーローからの手紙。アイリーンからすれば恋人からの手紙。直接手渡されたならずっと大事にしまって時折読み返す宝物になる。ヴィクターにとってもそうであればいいと願う。
アイリーンは軽く頬を叩いて意気込み、止まっていたペンを動かし始めた。
イベント当日。ヴィクターが集荷してくれるという場所まで足を運べば、大勢の人が集まっていた。その中心には、ファンと会話をしながら手紙を受け取っているヴィクターの姿がある。
ブラウンと渋いグリーンの制服と、羽根ペンを模したバッチがつけられた帽子が良く似合う。モノクルはヴィクターの怜悧さを際立たせ、長い紐で艶のある銀髪をひとつにくくった様は、さながらファンタジーに出てくる配達人だ。イカレ帽子屋や執事、聖歌隊のときも感じたが、ヴィクターは本当に神秘的な美貌の持ち主で、誰よりも近い距離で見たことがあるというのに見惚れてしまう。
ヴィクターへ手紙を差し出すファンの中には、女性だけでなく男性もいた。ヴィクターはサイエンス誌などで論文が掲載されることも多々あり、学生や同業者からも尊敬の眼差しを受けている。デートの待ち合わせでも、先に待っていたヴィクターはファンからたびたび科学的な質問をされていた。心から敬意を抱く相手が、他の人からも同じ気持ちを向けられているのは嬉しい。
渡すタイミングを伺っていたとき、美しいターコイズブルーの双眸がアイリーンを映した。同時に眉目秀麗な顔立ちがやわらかく崩れる。大方受け取ったのか、ヴィクターがアイリーンの元へと来てくれた。
「アイリーン。貴方も手紙を書いてくださったのですね」
「はい。ヴィクターさんだけじゃなくて、マリオンさんたちにもあるので、渡していただけますか?」
「えぇ、きっと彼らも喜ぶでしょう」
ヴィクターはアイリーンからもらった四枚の封筒を見つめる。ブルー、グリーン、ローズレッド、そしてホワイト。ノースセクター研修チームのイメージカラーともいえる色だ。
「私への手紙は、ラブレター、ということでよろしいでしょうか?」
ヴィクターが艶っぽく微笑んだ。昼間から刺激が強い。
レンとガスト、マリオンたちの封筒とヴィクターの封筒は明らかに意匠が異なっており、誰が見ても一目で特別な一通だと分かる。ラブレターとして出したはずなのに、指摘されると顔が熱くなってしまう。
「は、はい。ファンの方のためのイベントですから、私が送るのも趣旨に反するかと思ったんですけど……せっかくですから、ヴィクターさんに書きたくて。迷惑だったでしょうか?」
「そんなことはありませんよ。とても嬉しいです。貴方が綴ってくださった想い、しっかりと読ませていただきますね。……では、また」
「はい、また」
ヴィクターはアイリーンに背を向けて歩く。別の集荷場所へ向かうようだ。
広い背を見送ると、視線が注がれていることに気付いた。ファンの好奇心と奇異の目がアイリーンに向けられている。ヴィクターと単なる知り合いだった頃からアイリーンは不思議そうに見られていて、とうに慣れた。恋人となった今はブルーノースの街中を堂々と手を繋いで歩いたことも幾度かある。しかし、「ラブレターでしょうか」などと色っぽく言うのは、周囲に「この人は恋人です」と宣言したようなものだ。照れが勝って俯いてしまいそうになってしまう。
アイリーンは走りたい気持ちをどうにか抑え、お気に入りの場所へ行くことにした。
ブルーノースには手紙を持って待っている人が多い。ヒーローへ想いを渡したい人がブルーノース中にいるのだと考えると、アイリーンが接している人たちはすごい人なのだと痛感する。
それでも、アイリーンが知る彼らは、人より親切なことを除けばいたって人間味ある男性だ。なるべくして『ヒーロー』になった、心優しい人たち。『ヒーロー』を目指す若者の学校で仕事をしているものの、ヒーローと実際に話した回数は数えられる程度だ。別世界の人と関わっていることに、未だ不思議な気持ちになる。
目的地へ向かう途中、アイリーンはある光景を見て足を止めた。高齢の婦人が地図の前で固まっている。何やら考え込んでいる横顔だ。
以前のアイリーンであれば、声をかけるか迷っている。
「どうかされましたか?」
アイリーンは和やかに明るく声をかけた。ヴィクターやレンたちならきっとそうするから。
話しかけられ、婦人がアイリーンへ顔を向けた。顔に刻まれた皺こそ多いものの、目元が涼しく品のある女性だ。ヴィクターと似たターコイズブルーの瞳には、知的さと老いを感じさせない芯の強さがあった。凛々しく聡明な雰囲気が漂って、少し近づきがたさも感じる。
「道に迷われたのであれば、お手伝いします。……違うでしょうか?」
「あら……ありがとうございます。エリオスミュージアムに行きたいのですが、ご存じでしょうか?」
「エリオスミュージアムですか? 私も今から行くところなんです。ここから近いですし、よろしければ、入口までご一緒しませんか?」
ヴィクターと出会ってからというもの、アイリーンはエリオスミュージアムに何度も訪れている。単に展示物を見たり、ナレーションを担当したヴィクターの解説を聞きに行ったり、併設されたカフェでコーヒーを楽しんだり、ティーパーティーに誘われ参加させてもらったりと、明らかに他の市民よりエリオスミュージアムへ足を踏み入れた回数が多い。今日もせっかく外に出るので、カフェに入るつもりだった。
「では、申し訳ありませんが、お願いできますか?」
「もちろんです」
婦人は気難しそうな表情のまま、けれどしっかり礼節を感じさせるように頭を下げた。
背が低いアイリーンよりもゆっくりとした足取りの婦人に合わせて足を進める。コミュニケーションは不得手だが、このまま長い間沈黙というのも味気ない。アイリーンはありきたりな質問を投げた。
「おひとりで観光に来られたんですか?」
「はい。ニューミリオンの近くに用事があったものですから、ついでに立ち寄ったんです。昨日、貴方と同じように助けてくれたヒーローの方から、エリオスミュージアムはどうかとおすすめされました。……貴方は、きっとニューミリオンの方ですよね。今日はイベントがあると聞きました。それで行くのでしょうか?」
「今日のイベント、ご存じなんですね」
「ヒーローに手紙を渡すイベントがあると、ホテルで宣伝されていました」
「そうなんですね。でも、もう手紙は渡したので、エリオスミュージアムには併設されたカフェに行くんです。展示はたびたび見ていますから、今日は特に用がないですし」
「たびたび?」
平淡だった婦人の声音が驚きで滲む。
「はい。ニューミリオンに住んでいながら関心がなかったんですけど……その、恥ずかしながら、恋人の影響で【サブスタンス】を面白いと思って。庭も綺麗ですし、定期的に花々が変わって素敵ですよ」
自分でも分かる。一年以上前と今の自分は違う。星や美術品のような半永久性のあるものだけでなく、植物や魚といった生を感じるものを興味深く感じる。見知らぬ他人へも優しくありたくなる。やったことのないことに挑戦したくなる。我ながら本当に単純で笑ってしまうほどだが、変わろうとする意識そのものはいいことだと思い込むことにしていた。
アイリーンが朗らかに笑うのに対し、婦人はどこか冷めた表情をしていた。
「なるほど。貴方の恋人は、私の孫のように奇特な方なんですね」
「奇特……でも、夢中になれる者がある人って素敵ですよ」
「そうでしょうか? 私の孫の場合、夢中というより、それ以外は人ですら興味がないように思います」
「日々を漫然と生きるよりずっといいと思います。……でも、肉親からすれば、冷たく感じてしまいますよね。無神経なことを言ってすみません」
「いいえ、もうそういう子だと思っていますから」
突き放した諦めの口調だった。アイリーンは口を閉ざし、息を呑んだ。
家族は、血が繋がった赤の他人だ。仲がいい家族もいれば、悪い家族もいる。アイリーンもこの婦人とおそらく似た気持ちを抱えていた。
しかし、家族間の問題はただでさえデリケートである。知り合いどころか通りすがりの第三者にあれこれ言われたら気分が悪くなるだけだ。同調しようとするのをやめて別の話題を探す。
「そういえば、ご用事は何だったんですか? 差し支えなければ教えてください」
「用事ですか。ニューミリオンの近くの――――」
半ば強引な切り替えだったが、婦人もそれに乗ってくれた。
いくつか言葉を交えているうちにエリオスミュージアムに辿り着いた。集荷場所のうちのひとつだからか、入場する人々は観光客よりも地元の市民が占めている。この調子だとカフェも混んでいそうだった。
「ここです。チケットの受付は右にありますよ」
「貴方は?」
「カフェの利用だけだったらチケットは不要なんです」
「そうですか。ありがとうございます、世話になりました」
「お役に立てて良かったです」
また深々と頭を下げ、婦人が人をかき分けて受付まで歩いて行く。チケットの列に並ぶのを見届けた後、アイリーンもカフェへ向かった。
エリオスミュージアムのカフェはコーヒーも美味しい。エスプレッソを一杯。それから甘いカプチーノを一杯飲む。泡立ったミルクのまろやかで甘味が口の中に広がる。たまにはミルクを楽しむのもいい。
カプチーノを飲み終えてカフェを出ると、黄色い声や元気な声が耳に入った。
「レンくんからありがとうって言われちゃった」
「ね〜、嬉しい。またマリオンくんと並んでるところ見たいなー」
「ママー、アリスのお兄ちゃんにお手紙渡せたよ!」
「良かったわね。お返事、楽しみにしましょうか」
エリオスミュージアムの担当はレンだったらしい。レンは他の三人と比べるとぶっきらぼうだが、真面目だ。ぎこちない笑みを浮かべ、言葉少なながらしっかり対応する姿を想像する。可愛らしくて微笑ましい。それはファンが増えるだろう。小さなファンもいるのは、読み聞かせをした影響のようだ。
レンはアカデミーで実際に教えていた生徒だったこともあり、応援したい気持ちが強い。手紙はすでにヴィクターへ託したとはいえ、見かけて見送るくらいはしたい。
入口付近に佇んで十分ほど。レンが退場ゲートを通って出てきた。
手を振ってみる。早く次の場所へ行きたいだろうから気付かないだろうと思っていたら、深い海の底のようなブルーの目と合った。体の向きを変え、アイリーンへ近づいてくる。
「お疲れ様、レン」
「あぁ。あんたも手紙を書いたのか」
「えぇ。でも、もうヴィクターさんに渡したの。レンたちにも書いたから、後で読んでくれると嬉しいわ」
「そうか」
レンは神妙な顔をしている。ファンから手紙をもらったばかりにしては不釣り合いな表情だ。
「どうかしたの? 次の集荷場所まで分からないとか?」
「いや、それはヴィクターがナビゲートしてくれているから大丈夫だ」
「ヴィクターさんが?」
「あぁ。GPSで居場所を把握して、そこから目的地まで案内してくれる」
レンの方向音痴は相当なものだとヴィクターやガストから聞く。それを助けるために、ヴィクターが手紙を回収しファンと交流しつつ、レンの位置を見て頭の中の地図を照らし合わせて指示する。ヒーローと研究部の掛け持ちで普段から膨大なマルチタスクをこなし続けているとはいえ、感嘆の声を漏らしてしまう。
レンがアイリーンに向き合う。ブルーの瞳に迷いの色が見える。
「レン?」
もう一度やわらかな声で呼びかける。言葉にしてくれるのをじっと待った。
唇に躊躇いをつくり、視線が動く。何度かそれを繰り返し、レンがぽつりと話し始めた。
「……さっき、ヴィクターのおばあさんに会った」
ヴィクターの肉親が祖母だけであることは知っている。事実のみを述べているだけだと言わんばかりに平然と言っていたので、心寂しく祖母の元から離れたわけでもなさそうだった。
「ヴィクターさんのおばあさま……ニューミリオンに来てから会ってないって前に聞いたことがあるわ。ヴィクターさんに会いに来たのかしら」
「いや、用事のついでに来ただけで、会おうとしてなかった。ヴィクターも同じだった。でも、おばあさんの話しているヴィクターの印象と、俺の感じている印象がまったく違って……あんたは、ヴィクターに情がないと思うか?」
ヴィクターに、情がない? アイリーンからすればありえない単語の並びに、数秒思考が止まった。そして強く否定する。
「そんなことないわ。人よりずっと情がある方だと思う」
情のない人間は人の感情を理解することを放棄して、自分だけの世界で生きているはずだ。
恩師の願いであったという『ヒーローを強くする』ことを目標に、過ちを犯し心を押し殺してまで達成しようとなどしない。生涯を捧げる覚悟で受け継いだ夢を叶えられなくなりそうになったとき、絶望の底に佇んでいたりしない。単なる客だったアイリーンが気落ちしていた顔をしていたからといって、真摯に相談に乗って応えてくれたりしない。包み込むようにアイリーンを抱きしめ、何度もキスをして、甘すぎて眩暈がしそうなほどの好意を伝えてくれたりしない。
アカデミー時代のヴィクターは、見た目も雰囲気もひんやりとした氷のような人だった。卒業して以降は論文でしかヴィクターを知らなかったから、にこやかに微笑むのが意外だったし、少年のように瞳を輝かせて話すのも驚いた。それだけでも印象が覆ったのに、ここ一年でさらに変わっていく。
理性的な落ち着いた紳士で、けれど可愛らしい一面もある、本当に魅力的な人。それがアイリーンの中のヴィクター・ヴァレンタインだった。
しかし、ヴィクターの祖母はアカデミーより前でヴィクターとの交流が止まっている。アイリーンでさえ変化しているのだから、ヴィクターの祖母と、レンとアイリーンのイメージが乖離しているのも当然だ。
「レンは、ヴィクターさんの印象を変えたいの?」
「いや……」
レンの視線が逸れる。どうするべきか困っているようだった。
「お互い会おうとしていないなら、それでもいいんじゃないかしら。私たちには知らない複雑な事情があるのかもしれないから……もしあるなら、いつか口にしてくれるわ。家族だからって、誰もが仲がいいわけじゃないもの」
口から出た音は、思っていたよりざらついて陰鬱なものだった。
アイリーンは、家族が――――厳密に言うと、父と養母が苦手だった。年の離れた弟はちょっと心配しすぎてしまうくらいなのだが、どうしても二人と相互理解できるつもりがなかった。
とっくに成人した今、「ずっと寂しかった」「お母さんや私よりも他の人との時間を取ったことが悲しかった」「いい子でいることが嫌だった」なんて、言えない。十何年も隠してきた気持ちをぶつけても、謝罪より「今更どうして」と返ってくる可能性の方が高い。表面上は上手くやってきているのだ。弟に余計な負担をかけたくない。
そもそも、謝罪もいらない。もう父ではアイリーンを変えられない。あたたかなクリスマスで、イベントのたびに子どもときから続く虚しさや苦しみに苛まれなくて良いのだと――――星のように美しいひとが、小さな子どものアイリーンを救ってくれたから。もう何もいらない。
レンの目がまたたく。暗い声が返ってきたのが意外だという表情だった。
驚きの眼差しを受け、はっと我に返る。優しい人であろうとしたいのに、自分の感情に当てはめてほど遠い回答をしてしまった。アイリーンは無理矢理笑みを形作る。
「でも、誤解は解けたらいいわよね。ヴィクターさんは、本当に優しい方だから」
貴方のお孫さんはとても素敵な人なのだと、ヴィクターの祖母へ伝えられるのが一番だ。しかし、伝える側の自己満足で終わってしまうこともある。解消するには難しい問題だった。
何故か眉をひそめつつも、レンが頷く。
「優しいというか……ヒーローではあるな」
「えぇ。レンも優しくて、ヒーローらしいわ」
アイリーンは目を細める。
レンも変わった。いや、その優しさを、アイリーンがあまり知らないだけだった。アカデミーの頃はもっと刺々しく冷え切っていて、何者も寄せ付けず、常に気を逆立て威嚇しているような空気を纏っていた。【HELIOS】に入所してからはどんどん薄れて、やわらかい部分を見せるようになった。
アイリーンの預かり知らぬところで、仲間たちと交流していくうちにゆっくりと変化している。元教え子が成長し活躍するのを見られるのは、教師にとって喜ばしいことだ。
レンはむっとした顔を見せた。
「突然なんだ」
「ふふ。だって、仲間の印象を払拭したいなんて、優しい人じゃないと思わないもの」
「そうか?」
「えぇ。レンも立派なヒーローよ」
アイリーンは顔いっぱいに慈しみを広げた。
微笑ましさがいたたまれないのか、レンの頬が赤らむ。それから頭の帽子を深く被った。
「……俺は行く」
「そうね、話し込んでごめんなさい。頑張ってね」
アイリーンが手を振る。レンはそれに目だけ応えてくれた。
手紙を渡して一週間が経とうとしていた。日はまだ高いが、アイリーンはアカデミーを出てまっすぐ
帰宅する。
軽く家事を済ませて明日のことを考えた。あくまで目安としてヒーローが来るスケジュールは公開されている。どこでヴィクターたちの返事を受け取ろうか、特設サイトを見つつ思案する。四人に書いたのだから、それぞれが渡しに来る場所まで行く必要があった。知り合いだからといってまとめて渡すようなことは、礼節を備えたマリオンが許さないはずだ。
ヴィクターの元へ行くのは最後にしようと決めたところで、アイリーンはふいにレンの問いを思い出した。
――――あんたは、ヴィクターに情がないと思うか?
教壇以外は一定の声量のアイリーンでさえ、大声で否定したいほどだった。
(でも、きっと私が言ったところで、あんまり意味ないわよね……)
今生活を共にしているレンが異を唱えても意見を通したのだから、頑固な人のようだ。アイリーンが語ったところで、訝しげな表情をしたかもしれない。
視線を宙に浮かせたとき――――突如、着信音が鳴った。そばにある携帯機の画面にはヴィクター・ヴァレンタインの文字がある。アイリーンは慌てて画面をタップした。
「こんばんは、ヴィクターさん」
『こんばんは、アイリーン。今、電話しても?』
「大丈夫です」
『明日、何か予定はありますか?』
明日はヒーローが手紙を返してくれる日だ。ファンから手紙を受け取ったのだから、ヴィクターも返事を書いてファンたちに渡す。アイリーンの予定を尋ねる意図が読めない。
「いえ、特にこれといったものは……。皆さんのお返事をもらいにブルーノースに行くくらいです」
『そうですか。急で申し訳ないのですが、これからターミナルまで向かっていただけませんか?』
「ターミナル?」
『はい。深夜のリニアに乗って私の祖母に会いに行くのですが、そのときに貴方を紹介したいのです』
「え……」
祖母に、紹介。アイリーンはその言葉を頭の中で反芻する。
ヴィクターとアイリーンは恋人である。とはいえ、唯一生きている血の繋がった家族に恋人を紹介するのは、生涯を共にすることを考えていると宣言するようなものだ。
三十を過ぎれば、世間一般では結婚を前提にした付き合いになるケースが多い。しかし、アイリーンからすればヴィクターと共に過ごせる時間があるだけで幸せで、そういったことは全く過ぎったことがなかった。
アイリーンはヴィクターに気付かれない程度に深呼吸した。ヴィクターのことだから、言葉通り紹介したいだけのようにも思える。一人で勝手に暴走して、違うと返されたら恥ずかしい。
『もちろん突然のことですから、無理にとは言いません。ですが――――貴方が来てくれたら、私はとても嬉しい』
懇願にも似た、強い思いが声にこもっていた。切実さに胸を打ち響かせるようなヴィクターの声を聞くのは初めてだった。嬉しくて愛おしくて、心が震える。
来てくれたら嬉しいなんてヴィクターから言われたならば、アイリーンが返す言葉はひとつだけだ。
「分かりました。行きます」
『ありがとうございます。では、チケットはこちらで購入しておきますので、九時にセントラルのターミナルでお待ちしています』
通話が切れた。アイリーンは画面が真っ暗になった携帯機器を握る。
「祖母に、紹介……」
ヴィクターの言葉を、もう一度口にしてみる。
自分は、人生の半分会っていないような肉親に、紹介したいと思えるような存在なのだ。喜びと気恥ずかしさが胸の中で混ざって、透明で綺麗なもので満たされていく。
あたたかい気持ちに浸っていたいが、時間が惜しい。せめて第一印象くらいは良くありたい。まずは服を決めて、それから最低限の必要品をリストアップすることにした。
準備をして夕食を軽く済ませ、ヴィクターとセントラルのターミナルで合流する。真夜中に差しかかろうとする時間帯のターミナルは、今から帰宅しようとする人がまばらにいる程度で、大きめの荷物を持っているのはアイリーンたちだけだった。
ヴィクターが予約してくれた席に座ると、窓から見える風景が動き出した。そろそろ事の経緯を聞いてもいいだろう。アイリーンは右隣のヴィクターへ尋ねた。
「イベントの日に、レンからヴィクターさんのおばあさまに会った話は聞いたんですけど……。ヴィクターさんはお会いしてないんですよね?」
「おや、レンから聞いていたのですか。えぇ、祖母とは会っていません。ですが、手紙をもらったので、会いに行こうと思ったのです」
「おばあさまから?」
「はい。十五年以上こちらからメッセージだけ送っていて、彼女からほとんど返信はなかったのですが……レンが手紙を通じて、私のことをいろいろと伝えてくれたようです」
「レンが……」
問うてきたレンの表情を思い返す。何がきっかけになったかは分からないが、ヴィクターのことをちゃんと伝えたいと思ったのだろう。
「ふふ。本当に、優しい子ですね」
「はい」
元教え子の優しさに顔をほころばせたところで、アイリーンの心が冷える。自分に、そこまでの行動力はなかった。
黙り込んで目を伏せたアイリーンへ、ヴィクターが怪訝な目を向ける。
アイリーンは俯いたまま苦笑した。
「実は、レンからおばあさまの話を聞いたとき、私はお互い会う気がないならそれでいいんじゃないかって答えたんです。お互いが好きであれば嫌いであったり、私のように、片方が好意的でも、もう片方は苦手だったりすることもありますから……」
親が勝手にいい子だと言うから、わがままを押し殺す子どもがいただけだ。何をしたら正解だったか。今のアイリーンに模範解答はもう不要だが、そういう家族もたくさんいる。
「でも、ヴィクターさんがおばあさまに会いに行くと決めたのは、おばあさまからの手紙に良いことが書かれていたからなんですよね。行動しないとお互いの気持ちなんて分からないこと、改めて気付かされました」
当たり前のことだ。言葉にしなければ、行動しなければ、伝わらない。分からない。こうだと決めつけるアイリーンが、臆病者なだけ。
せっかくヴィクターが祖母へ紹介しようとしてくれているのに、ほの暗く凍ったものが浸透していく。
すぐに暗くなる。悪い癖だ。笑わなければ。顔を上げ、アイリーンは長年培った笑みを浮かべる。
ヴィクターはしばしアイリーンを見た後、穏やかに目を細めた。
「レンが伝えてくださっていい方向に転がったのは結果論ですし、気にする必要はありせんよ。私も祖母から手紙がくるとは思っていませんでした」
ヴィクターがそっとアイリーンの小さな手に触れた。アイリーンより少し冷たい、けれどあたたかな人肌を感じる硬くて大きな手。
「それに、アイリーンの場合は貴方が父親と話したくないのでしょう? 前にも言いましたが、したくないことを無理矢理する必要はありません。それで貴方が傷つくならなおさらです」
「ヴィクターさん……」
いつだって、ヴィクターは優しくあたたかな言葉をくれる。心の中の雨はすぐに止み、晴れ晴れとした春の光が降り注ぐ。
「ありがとうございます」
感謝と幸福でできた微笑を浮かべるアイリーンに、ヴィクターも唇をほころばせる。
今、キスしてほしくてたまらなくなった。しかし、ここはリニアの中で、深夜便とはいえちらほら他の乗客がいる。アイリーンはキスをねだる代わりに、ターコイズブルーの奥で光る星へ甘い眼差しを注ぐ。ヴィクターもじっとアイリーンの瞳を覗いている。
星が輝く静かな夜。恋人たちは、しばらく見つめ合っていた。
リニアの中で眠り、降りると外は明るい陽の光で包まれていた。見知らぬ街中の風景を楽しみつつ移動する。
一時間ほどで、ヴィクター祖母が住むという家に着いた。高齢の女性が一人で住むにはとても広く、掃除が行き届いた綺麗な一軒家だ。
「私が先に入ります。声をかけるまでドアの前で待っていただけますか?」
「分かりました」
ヴィクターはインターホンを鳴らし、祖母の許可を得て中に入った。
残されたアイリーンは玄関で佇む。
(紹介してもらったら、ご挨拶して……菓子折りは持ってきたけれど、恋人の家族に会うときってどうしたらいいのかしら? 初めてだからメッセージで聞いておけば良かったわ。……ううん、勘違いされるから、忘れてて正解ね)
ヴィクターと恋人になったと話したときも、友人たちは祝ってくれるよりまず驚愕していた。あまりにも予想通りの反応で苦笑してしまった。家族に紹介なんて連絡すれば、絶対に驚きの返事が並ぶ。しかし、アイリーンも同じように反応したので、早合点だと怒る資格はない。
一人でいると悶々としてしまう。心臓の鼓動が早くなっていくのを感じる。深呼吸して胸に手を当てた。
「アイリーン、お待たせしました。どうぞ入ってください」
「は、はい。お邪魔します」
落ち着いた声をかけられ、現実に戻る。不安を胸にためながら、アイリーンは家に踏み入った。
中も有機的なインテリアが並べられておしゃれだ。家主のセンスだろうか、などと考える余裕はない。あと十数歩でヴィクターの祖母がいる。遅くなりそうな足を何とか奮い立たせる。
リビングに入った。まっすぐ見据えて挨拶しようと口を開く。
「あ……」
はじめましてよりも先に、驚きの吐息が唇からこぼれた。
目の前にいたのは、ヴィクターへ手紙を渡したその日、道案内をした女性だった。
「あら、あのときの……」
婦人も覚えてくれたらしく、エメラルドグリーンの目を見開いている。
「おや、知り合いでしたか?」
「えぇ。エリオスミュージアムまで案内していただいたんです。あのとき、恋人の影響で【サブスタンス】に興味を持ったと言っていたけれど……恋人とは、貴方だったのですね、ヴィクター」
ヴィクターがアイリーンの肩を抱いた。目を丸くしたアイリーンをよそに、ヴィクターはあくまで冷静に、そして堂々と告げる。
「はい。私の大切な人です。おばあさまに紹介したいと思いまして、無理を言って彼女にも同行してもらいました」
私の大切な人。シンプルで強い言葉に、アイリーンの胸が甘く打ち震える。目と喉の奥が熱くなってきたのをどうにか抑え込む。
ほぅ、と驚愕か納得か読み取りにくいため息が聞こえた。
「レンさんの手紙にも書かれていたけれど……貴方に、大切な人……。そう」
婦人はしみじみと、ヴィクターと過ごした短い間を思い起こすように言う。そして、ヴィクターと同じ理知的な目をアイリーンへ向けた。相手と向き合おうとする、真摯で綺麗な目だ。
アイリーンは姿勢を正し、崩れそうになった顔を引き締めた。
「ヴィクターの大切な方。お名前を伺ってもよろしいですか?」
「アイリーン・シェリーと申します、ミセス・ヴァレンタイン」
唇を結んだまま、けれど婦人は優しい眼差しでアイリーンを見つめている。
「好きに呼んでくださって構いません。貴方はヴィクターの大切な方なのですから」
何度も「大切な方」などと呼ばれては顔が火照る。恋人や婚約者よりもずっと重い響きのような気がして、顔どころか耳まで赤くなっていそうだった。
気恥ずかしさを隠せぬまま、アイリーンは尋ねる。
「では……その、おばあさまと、お呼びしても良いでしょうか?」
「えぇ。もちろん」
頷いた後、婦人は目を伏せる。
「ヴィクターはここまで来たのは、良い仲間に恵まれたからだと思っていましたが――――孫がやわらかくなったのは、アイリーンさん、貴方のおかげでもあるのでしょうね」
常に張りつめた厳しい顔つきをしていた婦人が、やわらかく顔を崩した。
かけてもらった言葉はとても嬉しいものだ。そうであればいいと思う。しかし、アイリーンはゆっくりと首を振る。
「いいえ、おばあさま。ヴィクターさんが変わった要因は、私ではないと思います」
「そうなのですか?」
「ヴィクターさんの周りにいる仲間が、本来持っている優しい部分を引き出してるんです。私からすれば、いい影響を与えてくださっているのはヴィクターさんの方ですから。前の私は、毎日淡々と過ごしていたんですけれど……」
昔感じた星の光を大切にして、時折眺めて過ごす。数字と遊んで、友人との会話や数年ごとに変わる生徒との交流を楽しむだけの、無味乾燥とした日々。それだけで十分だった。アイリーン・シェリーは何となく歳を重ねて生を終える、はずだった。
「でも、今はいろんなことを学んだり、人に優しくあろうとしたり、昔は避けていたことを頑張ってみようと思ったり……全部、尊敬する人のおかげです」
ヴィクターが日常を美しく光り輝くものに変えてくれた。誰にも見つからず流れ落ちるだけのはずだった初恋が、突如名前をつけられて一等星の輝きになった。すべて隣にいる心優しい人のおかげだ。
「アイリーン……」
「本当のことですよ」
感謝や愛が少しでも伝わればいいと思いながら、隣の大切な人へ微笑む。
ヴィクターの祖母は恋人たちを見つめ、穏やかな声で言う。
「いいえ。きっと貴方のおかげです。あのヴィクターが、大切な人だと紹介するくらいなのですから。貴方はとても素敵な方なのでしょう」
「そんな、」
「そうですよ、おばあさま。アイリーンはとても可愛らしくて、魅力的な女性です」
「ヴィ、ヴィクターさん」
さらりと言うので、アイリーンの体の温度がまた上昇する。二人きりならまだしも、初めて会った人へ、しかも相手はヴィクターの祖母である。このまま羞恥と歓喜で内側から体が溶けてしまいそうだった。
婦人は落ち着き払った顔のまま目を細めた。
「ヴィクター。貴方がそんな顔をするとは思ってもみませんでした。長生きはしてみるものですね」
「そんな顔、ですか。だらしない顔をしているのでしょうか」
「えぇ。良い顔をしています。鏡を見たら分かりますよ」
「ふむ……」
ヴィクターは端整な顔つきにどこか幼い表情を浮かべる。
それがひどく可愛らしくて、アイリーンはくすくす笑った。婦人もどこかおかしそうに、優しく微笑んでいた。
それから数時間。三人であれこれ談笑した。幼い頃ヴィクターはこうだったとか、科学の話ばかりでよく分からないとか、味覚はそこそこ合うとか、思い出話や世間話に花を咲かせる。
しかし、ヴィクターには郵便配達がある。話を切り上げてニューミリオンへ戻らなければならない。
「おばあさま、お元気で。近いうちに手紙を書きます」
「えぇ。貴方も元気で、ヴィクター」
「お邪魔しました、おばあさま」
「アイリーンさん。貴方が来てくださって、楽しいひとときを過ごせました」
こちらこそ。返す前に、ヴィクターの祖母の目が真剣なものに変わった。そして、アイリーンへ頭を下げた。
「ヴィクターはとても変わった孫ですが……どうぞ、よろしくお願いいたします」
付き合い始め。うららかな春、サクラが散りそうな頃。ヴィクターの親友にも同じことを言われた。肉親や親友に任せてもらえるような信頼をどこで築けたのかは疑問だ。自分は、芯が強く慈愛に満ちた女性とはまるで違うのに。
「はい」
しかし、そう思ってもらえているのに、否定するのも違う。アイリーンはきちんと受け止め、微笑みで返した。
好きな人の祖母は、満足そうに目をほころばせていた。
婦人と別れ、ニューミリオンへ帰る。
リニアの席に座って、ヴィクターがタブレットを取り出す。仕事が溜まっているのだろう。それでも祖母に会いに行くと決めたヴィクターは行動力がある。アイリーンも挑戦してみようと奮起しているが、やはり仕事や年といった現実的なことに囚われることも多い。
尊敬できる人が仕事に集中できるよう静かに過ごした方がいい。ヴィクターが教えてくれた本を取り出すために、アイリーンはバッグの中に手を入れた。
(でも、ちょっと眠くなってきたわ)
リニアの中は静かだったが、良質な睡眠からはほど遠い。しかし、隣のヴィクターは平然としている。ショートスリーパーだと常日頃言っているものの、一切顔に出ないのは慣れなのか、ヴィクターがすごいからなのか。どちらもだろう。
眠いと感じた瞬間にあくびが出てきそうになって、口元を手で隠す。噛み殺したらヴィクターと目が合った。恥ずかしい。アイリーンは目を逸らす。
ヴィクターはくすりと優しく笑う。
「眠ければ寝てください」
「す、すみません」
「構いませんよ。今日は無理に付き合わせてしまいましたから。本当に、ありがとうございます」
「いえ、こちらこそおばあさまに紹介していただけて嬉しかったです。距離がありますから気軽には行けませんけど、またおばあさまにお会いしたいです」
「そうですね。祖母も貴方を気に入ったようですし、いつか行きましょうか」
恋人として認めてもらえたようだが、気に入るかは別なのでは。首を軽く傾げる。
「初対面の人間にしてはだいぶ心を開いていたかと思いますよ。少なくとも私より貴方の方が好ましく感じたでしょう」
「そ、そんなことはないと思いますけど……」
「名作文学の話ができて楽しそうでしたよ。私もだいぶ前に読んだことがありましたが、私の感想には憮然とした表情でした」
人物の心情や文章の構成よりも時代背景や科学的な視点の感想に婦人は顔をしかめていた。アイリーンは面白くて感動の声を上げたのだが、不満だったらしい。無理に同調せず、自分の感じていることを素直に言っただけなのだが、それが功を奏したようだ。
ならば、嬉しいのだけれど。ほっとして、瞼が重くなった。
「ニューミリオンに着きそうな頃に起こしますよ」
「……すみません。お言葉に甘えて、少し寝ますね。おやすみなさい、ヴィクターさん」
「はい。 おやすみなさい、アイリーン」
目を閉じた途端、耳の奥で、この世の何よりも好きな音が響いた。
ニューミリオンに着く頃には、空がオレンジ色の美しいグラデーションを描いていた。1時間もすれば紺が侵食するだろう。
「アイリーン。よろしければ、このあたりで一時間ほど待っていただけますか?」
セントラルターミナルで降りて、ヴィクターは言った。
「はい、大丈夫ですけど……何か忘れ物ですか?」
「えぇ、とても大切な物を。申し訳ありませんが、どこかで時間を潰してください。必ず戻ってきますので」
「もちろんです」
ヴィクターがエリオスタワーの方へ向かうのを見てから、カフェのテイクアウトでコーヒーを買った。何とか待ち合わせの席を見つけて腰を落ち着かせる。
(忘れ物……すごく楽しみにしていたことを、忘れている気がするわ)
アイリーンの誕生日、二人が付き合った一周年記念。どちらも違うので、サプライズの選択肢は外れる。はて、と記憶の引き出しを引っ張って考えた。
――――はい。私の大切な方です。
――――あのヴィクターが、大切な人だと紹介するくらいなのですから。貴方はとても素敵な方なのでしょう。
だが、思い出されるのは、ヴィクターや、ヴィクターの祖母からの言の葉だった。熱いため息が出て、頭がぼうっとしてしまう。振り払うにも頭の中を占めている。うっとりして、人前で晒せる顔を保てられているか怪しい。頭を振りかぶって熱を冷やそうとする。
――――アイリーンはとても可愛らしくて、魅力的な女性です。
あまりにも自然な口調で、極めて冷静に言われたことが蘇る。甘い痺れが支配して、ますます昂る。
アイリーンは諦めて、無理矢理コーヒーカップを手に取った。淹れたばかりのコーヒーがますますアイリーンの体を熱くする。舌に広がる苦味が甘美さを増長させる。せめて不審な目で見られるのを避けるため、アイリーンは背を丸めたのだった。
「そこの、可愛らしい方」
冷たいコーヒーを飲んで、ようやく胸の熱さがいつもの温度に戻った頃。聞き慣れた声がアイリーンを元の世界に帰した。恥ずかしい気障な呼びかけだが、自分のことだと顔を上げた。声の持ち主は、いつもアイリーンへそう言ってくれるから。
「ヴィク、」
「貴方にメッセージです。受け取ってください」
銀髪の美しい配達人から差し出されたのは、四つの封筒だった。
「あ……」
そういえばそうだった。ヴィクターの祖母へ会うことがあまりにも大きい出来事だったものだから、ラブレターとファンレターを出していて、その返事がくることをすっかり忘れていた。婦人の家を出るときにはまだ覚えていたのに。
アイリーンはにっこりと笑った。
「ありがとうございます、郵便屋さん。手紙、楽しみに待っていたんです」
「礼には及びません。では」
配達人が次の届け先へ走り去る。ひとつにまとめた髪が大きな背中で揺れ動く。バッグの中身はたくさんの封筒が入っていたので、これから多くの人へ気持ちを渡しにいくのだろう。
美しい配達人を見届け、アイリーンは渡された手紙を改めて確認する。
シンプルなブルーの封筒、鳥が描かれたグリーンの封筒、銀箔の薔薇が印刷された赤い封筒、それから天体図がデザインされた紺の封筒。レンとガスト、マリオンがこれがいいと選んだと考えると笑みがこぼれる。しかし、天体図の封筒なんてアイリーン好みのものは、わざわざこの一通のためだけに買ってくれたのだろう。ヴィクターのささやかな心遣いにきゅんとする。
こんな大切な手紙は、一人でひっそり読みたい。アイリーンは立ち上がり、急いでレッドサウス行きのターミナルへ向かった。
家に着いてすぐさま最低限のことを済ませ、バッグの中から手紙を取り出して椅子に座る。シーリングを剥がし、期待に胸を膨らませて封を切った。
――――My Dearest(わたしのいとしいひと),アイリーンへ。
真っ先に目に入ってきたのは、甘い言葉だった。予想だにしていない書き出しに、アイリーンの体が燃え上がる。
(愛しいひと、だなんて……)
同じラベルで括られた感情を天秤にかけた場合、釣り合うことはない。前はそれで傷ついたから、心の奥底で怖くなって気持ちをぶつけることをやめた。でも、今は少しでも通じたならそれでいいと、思ったのに――――。大切な人。可愛らしく、魅力的な人。愛しいひと。ヴィクターもそう思ってくれている。熱量や重さが伴わなくても、同じ気持ちであることが嬉しかった。
アイリーンはとっくに満たされている。これでまだ続きがあるというのだから、読み終えたらどうなってしまうのだろう。死に急ぎそうなくらい忙く動く心臓をなだめながら本文を読み進める。
――――嬉しい言葉の数々、ありがとうございます。貴方が私のことをどう思ってくださっているかよく分かりました。そんなに良い印象を持っていただけるのも、少々気恥ずかしいものですね。
――――貴方と出会って、一年半以上経ちます。おそらく私が経験することがなかったであろう感情が芽生え育っていることに、私自身驚いています。
――――貴方に笑っていてほしい。触れたい。大切にしたい。幸せでいてほしい。共に在りたい。
――――恋や愛とは何なのか、長らく心で理解することができませんでしたが、貴方に感じるこの気持ちを、それに当てはめたいと思います。
――――感情に持続性はそうありませんし、この先何が起こるかも読めません。何の根拠もありませんから、研究者として不適切な発言ですが……きっとこれからも変わらないのでしょうね。
――――あたたかで美しい星の輝きを、ずっと貴方に見ることでしょう。
――――愛をこめて。ヴィクターより。
視界が歪み、文字が滲む。手紙に落ちないようしっかり目に力を入れた。しかし、最後の文が目に入った瞬間、ほろほろと熱い喜びが溢れ、頬をつたう。ヴィクター自身の言葉で綴られた言の葉が胸に沁みて、あたたかく美しい光でいっぱいになっていく。
春の星が綺麗にまたたく夜、ヴィクターは「星を見ている」と口にしてくれた。あのときも強い光がアイリーンの胸を占めたが、宇宙のすべてから星の光を集めてきたような心地だった。青白い高温の光が体中を駆け巡る。
ヴィクターはアイリーンと共に在りたいと思ってくれている。自分でも知らぬうちに恋をしていた人が、そう感じてくれている。夢のようだ。今、眩い輝きに焦がされて死んでもいい。
あぁ、でも、そうしたら、この優しく誰よりも愛おしいひとの幸せを願えない。共に在りたいという願いを無下にしてしまう。それは、嫌だ。
アイリーンは世界で一番美しい手紙にそっとくちづけた。
「私も……私も、ずっとずっと、貴方に星を見ています、ヴィクターさん」
たくさんの喜びとともにこぼれた言葉は、ヴィクターと同じようにあたたかで美しいものだろうか。そうであればいいと、アイリーンは祈った。
ポストマンイベント、ありがとうございました。