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面影は幻影


ノースセクターのパトロールと報告を終え、本日の勤務時間が終わった。まだ夜のトレーニングが残っているが、予約した時間には余裕がある。
レンはエリオスタワーに帰る前に、馴染みの本屋『笑う猫書店』に向かうことにした。所持している本はまだいくつか積んでいる。かといって無意味に時間を潰したくもない。早く帰って誰かに捕まり厄介事に巻き込まれるのも避けたかった。

夕方でも空に青が見えるほど明るく、昼の陽気が残っている。最近寒暖差が激しいが、今日は暖かいからか出歩く人も多い。【イクリプス】騒動や火災といった大きな被害に見舞われたものの、現在のレッドサウスは活気に満ちて人々に笑顔が戻っている。
騒がしいのは嫌いだ。けれど、アカデミーに入る前まで住んでいた街並みが賑やかであることはいいことだ、と思う。

通りを眺めながら歩いていると、向こう側から見知った女性を見つけた。
レンが気付いたとほぼ同時に、女性がレンへ朗らかな微笑みを向ける。

「お疲れ様、レン。パトロール帰りかしら」
「……あぁ」

そっけない返答だったにもかかわらず、アイリーン・シェリーはゆるやかに笑ったままだった。

レンはアカデミーに通っていた頃、アイリーンの担当科目を受けていた。つまり元生徒と教師で、今はヒーローとそのメンターの恋人へと関係が変化している。本当に微妙な関係である。再会したときは卒業して一ヶ月ほどだったこともあってまだ顔を覚えていたが、そんな短期間で再会すると思っていなかった。
マリオンはヴィクターに恋人がいることが未だに信じられないようだし、話が膨らむからかガストはアイリーンの名が挙がると会話に混ざってくる。レンとしては正直ヴィクターが誰と付き合おうとどうでもいい。
……いや、さすがに幼馴染のウィルやアキラだったら困惑するか。
二人に関心がないので、チームの空気が浮ついたとき居心地が悪くなるのだ。

アイリーン自身に対しては好感を抱いている……方だと思う。うるさくないし、妙な詮索や不要な気造いをしない。周囲に比べレンの癇に障ることを口にしないから、というのもある。レンと同じような理由なのか、アイリーンは生徒に慕われていた。他の教師より生徒に囲まれていることが多く、質問するのにタイミングを見計らうのが面倒だったくらいには人気だった覚えがある。

「何か予定があるの?」
「いや……ただ本屋に行くだけだ」
「そう。邪魔してごめんなさい」

いくら嫌いではないからといって、長話をしたい相手というわけでもない。アイリーンは意図を汲み取ってくれたのか会話を打ち切った。

「あれって……」

しかし、ふいにアイリーンがレンよりも遥か上空へと視線を上げた。
アイリーンの視線を辿る。ここ一年でよく見るようになったミントグリーンの鉱物がふよふよと舞っていた。

(【サブスタンス】か)

回収しなければ。レンがヒーロースーツに換装しようとした途端、【サブスタンス】はスピードを上げてアイリーンに近づいてきた。庇えるようにすぐさま前に出る。
その瞬間、【サブスタンス】が頭上でまばゆい光を放った。強烈な光に目がくらんで反応が遅れる。市民たちも突然のことに戸惑っているのが耳で分かった。

「きゃ――――」

市民の驚きの声に紛れて後ろにいたアイリーンの悲鳴が聞こえたが、瞼の奥に光が焼きついて安全を確認できない。

「にゃあ?」

何故か猫の鳴き声が耳に入る。疑問を追及している暇はない。

ようやく光が収まった。レンはゆっくり瞼を開く。周囲を見回してみるも、さっきの【サブスタンス】は見当たらない。しかも後ろにいたはずのアイリーンもいなかった。レンに声もかけず勝手にその場から離れるような性格ではないはずだ。

「にゃあ」

再び猫の鳴き声がする。気になって足下に目をやると、垂れ耳で緑がかった黒猫がレンを見つめている。黒猫はズボンの裾を前足でくいくい引っ張った。どこか必死な様子に心臓へ矢が刺さる。とても可愛い……が、今は愛でる状況ではない。

後ろ髪を引かれつつ、レンは猫を無視して辺りを観察する。猫の傍にはアイリーンが持っていたアイボリーのバッグが無造作に置かれていた。
人間を移動させる【サブスタンス】だったのか、別の性質を持つものだったのか。どちらにせよ、司令やマリオンに報告し、探す必要がある。
通信機に触れようとしたとき、

「にゃあ……」

気付いてと言いたげな切ない声と、潤んだ目で懇願している。レンの胸がぎゅっと痛む。屈んで猫の背を撫でてやった。

ふわふわした毛並みは心地いい。首輪はないが、丁寧にブラッシングされているかのような艶がある。垂れた耳が黒猫の愛らしさをさらに増長させていた。丸く大きなグリーンの瞳は光を吸い込んできらきらしている。大人のようだが、ずいぶんと体が小さい。まるで、アイリーンが猫になったかのような――――。
ひとつの結論に辿り着き、レンは目を見開いた。そうであれば合点がいく。ヒーローになる前なら馬鹿馬鹿しいと一蹴していたかもしれないが、様々な経験を経て、【サブスタンス】ならば可能であることを知っている。

「……先生……なのか?」

にゃあ。まるで「そうよ」と頷くように、黒猫が鳴いた。



司令に通信で一部始終を説明した後、レンはすぐにエリオスタワーへ帰ってきた。もちろんアイリーンと思わしき猫と、彼女の荷物を運んでいる。
黒猫はとても大人しく、レンが抱いても静かに腕の中で収まってくれていた。会話が通じるようなそぶりを見せるが、毛づくろいをしたり丸まったりしていて、思考は完全に猫になってしまっているようだ。

まずはヴィクターのラボに足を運ぶ。司令は「ノヴァとヴィクターに伝えておくから」と言っていたし、ラボにいるはずだ。問題の【サブスタンス】はすでに他のヒーローによって回収されているので、分析しているところだろう。
ラボの扉をノックするとちゃんとヴィクターの声が返ってきた。ドアが開くと、どこか怪しさを感じる笑みで出迎えられた。

「お疲れ様です、レン。話は司令から伺っていますよ」
「にゃあ」

ヴィクターを視界に入れると、黒猫は少し高い声で一鳴きした。レンの腕から離れて、ヴィクターの元へ歩いていった。しかもヴィクターのズボンに頭をすり寄せている。

(あのヴィクターに……?)

猫に逃げられたショックよりも驚きが先だった。パトロールで猫に遭遇したときも、以前サーバルキャットを世話したときも、いつだってヴィクターは猫に、というか動物に逃げられていたというのに。

ヴィクター自身も驚いているらしく、ぱちぱちとまばたきを繰り返している。体を寄せる猫を持ち上げ、机に乗せた。そして、鋭い目で猫の全身を観察する。
黒猫は鷹の目にも似たヴィクターに怯えることなく、むしろターコイズブルーの瞳をじっと見つめている。目を細め、また「にゃあ」と甘く鳴いた。

「動物に逃げられるどころか、近づいてこられるのは初めてですね。この黒猫がアイリーンなのですか? 確かに彼女と連絡がつきませんが」
「多分な。【サブスタンス】が光った後、いなくなった代わりにこの黒猫がいたんだ」

ヴィクターが再び黒猫に目を向けた。黒猫は尻尾をゆっくり左右に振っている。

「ふむ。毛色と垂れ耳を見るに、アイリーンのようにも思えますね。人間の言葉は理解できているのでしょうか」
「いや、話しかけたら分かっているように鳴くこともあるが、おそらく違う」

そうですか、とヴィクターは相槌を打つ。どこか軽い声音だった。
恋人だからか、ヴィクターはアイリーンに対して優しい。一年も共にいないレンでも、マリオンが怪訝な表情をするのを納得するくらいだ。慌てふためくヴィクターも想像つかないが、いつもの調子のままなのも変なのではないか。

黒猫はというと、呑気に毛づくろいをし始めた。ピンクの舌がちろちろ動いて可愛い。しかし、この黒猫が本当にアイリーンならばこのままではいけない。

「治るのか?」
「えぇ。【サブスタンス】によって人間が動物になるのは初めてのことではありませんから」
「そうなのか?」
「はい。ただ、何年も前に採取したものとは成分が少し異なっていましたので、以前の特効薬とまったく同じものというわけにはいかないかと。一日もあれば出来ると思いますが」
「……そうか」

淡々と述べるヴィクターの言葉に、そわそわしていた気持ちが落ち着く。息を吐くと、ヴィクターと目が合った。子どもを見つめるような顔だった。

「心配しているのですか?」

何もかも見透かす瞳がレンを貫く。分かっていると言わんばかりの微笑みが苛立たしい。

「あんたはどうなんだ。恋人が猫になったっていうのに、ずいぶん平然としてるな」
「先程も言いましたが、動物化させる【サブスタンス】は初めてではありません。治せる確証がありますし、そうでなくとも治してみせますよ。アイリーンでも、違う方でも」

口元に笑みを携えたまま、ヴィクターがアイリーンを見た。視線に気付いた黒猫は毛づくろいをやめ、また甘えた声を出す。

アイリーンがこれを聞いたらどう思うのだろう。一瞬疑問が頭をよぎったが、きっと彼女は「ヴィクターさんは研究者でヒーローだもの。ヴィクターさんらしいわ」と楽しげに笑う気がした。これ以上口出しするのも馬鹿らしくなって、レンは口を閉ざす。

「では、猫……アイリーンはこちらで預かります。トレーニングに行くなり、部屋で休むなり、好きにしてくださって結構です」
「分かった」

にゃあ、にゃあ。レンが背を向けたと同時に黒猫が鳴く。レン、ありがとう。そう言っているように思えた。



マリオンからの厳しい指導を受け、三人で夕食を取った後、ヴィクターが共有ルームにやって来た。黒猫を大事そうに抱いている。

「お、ドクター。何か食いに来たのか?」
「えぇ。それから、猫用の餌を。手が離せないのでお掃除ロボさんに購入をお願いしたのですが、こちらにありますか?」
「それなら、さっきジャックがキッチンに置いていった」
「あぁ、あれですか」

ジャックが運んできた猫用の缶は、何度かHPで閲覧したり購入したりしたことがあるレンでも見たことがなかった。サーバルキャットのときもそうだったが、高級なものを買うことに躊躇いがないらしい。
ヴィクターは黒猫を腕から解放し、段ボールの箱を開ける。その間も黒猫はじっとしていて、猫缶を開けて準備しているヴィクターを見つめていた。

「その猫が先生なのか?」
「はい。彼女と連絡が取れないことと、レンの証言から、この猫はアイリーンのようです」

黒猫にアイリーン・シェリーの意識はおそらくないはずだ。しかし、見知らぬはずのマリオンやガストから視線を向けられても黒猫は堂々としていて、どこか余裕すら感じる。アイリーンの穏やかながらも泰然とした態度が猫になっても現れているようだった。

「ほんと【サブスタンス】って何でもアリだな」
「何でも……と断じることはできませんが、面白い実例は多いですね。動物の耳だけ生やすものもありましたし、言語中枢に影響を及ぼしておかしな語尾を強制的につけるものもありました。興味を持ったのであれば教えますよ。如何ですか、ガスト」

「い、いやぁ、今は遠慮しとく……。そ、それにしても、猫になっても美人だな、先生」

ヴィクターの【サブスタンス】講義から逃れるため、ガストが話題を無理矢理変えた。
黒猫(となったアイリーン)は、艶々としながらやわらかそうな毛で体を覆っている。大きな目は神秘的なグリーンで、オーロラのような美しい光を帯びている気がしてくる。顔は種類によるものか少し丸いが、体は細くてすらりとしている。確かに猫でいう「美人」の条件に当てはまっていた。
だが、ぴくぴく動く垂れた耳や、長い尻尾を左右に揺らして餌を待つ様は誰でも心臓を射抜けると思えるくらい可愛い。元人間でなければ、いつものように愛でるところなのだが。

「動物に美人と表現するのは少しおかしな気もしますが、そうですね。毛並みもやわらかいですし、瞳も美しいですし」

ヴィクターに頭を撫でられ、黒猫がごろごろと喉を鳴らす。
微笑ましいといえる光景に、マリオンは何故か秀麗な顔を歪めている。

「元々がそうだからか、ずいぶん大人しいな。ラボで待たせても大丈夫だったんじゃないか?」
「離れようとするとついてくるものですから。……アイリーン、食事ですよ。食べられますか?」

差し出された皿に食いつかず、まずは匂いで安全を確認する。それから小さな口で餌を食べ始めた。隣に置かれた水もちびちび飲んでいて、レンはますます本当の猫ならばと思ってしまう。

「つーか、今更だけど先生にあげるのって猫用の餌でいいのか?」
「以前も似たような事例があって動物用の餌を与えたことがあります。そのとき被害者の体に影響はありませんでした」
「なるほどな。先生、美味いか?」
「にゃあ」
「それは良かった」
「にゃあ」
「……なんか、人間の言葉が分かってるみたいだな。すげぇ」
「猫は二、三フレーズなら理解できるようです。意味まで理解できているかどうかは不明ですが。大人しくしてください、と言えば暴れずにいてくれたので、検査のときも助かりました」

マリオンが先ほどよりも幾分か眉間の皺を緩めて言う。

「ふぅん。本当にアイリーンさんみたいだな。オマエが動物に好かれるなんて今まで見たことないし」
「そうなのか?」
「あぁ。小さい頃、ノヴァたちと動物園に行ったときもミリオンパークに遊びに行ったときも、ヴィクターが近づくだけで避けたり吠えたり逃げたりしてた」
「そ、そんなにか。言われてみれば、ドクター、サーバルキャットのときも避けられてたな……」
「はい。昔から動物には好かれない性質ですから、不思議な気分ですね」

三人で話している間にも黒猫は与えられた食事を食べている。ちょうどお腹いっぱいになったらしく、半分ほど残して鳴いた。碧の海を思わせる目はさざ波ひとつなく、どこかぼんやりしている。しかし、片付けるためにヴィクターが近くに来ると、尻尾をぴんとまっすぐに立てた。皿を片付けた後、コーヒーを淹れようとするヴィクターから片時も離れない。待つのだと理解したようで、黒猫は座り込んで小さな体に尻尾を巻きつける。

(可愛い……)

レンは黒猫の一挙一動に見入っていた。レンが接するのは野良がほとんどである。人懐っこい猫もいれば警戒心が強い猫も多く、レン自身がされたことはあまりない。「可愛い」と「羨ましい」が頭の中を占めていく。だが、猫を見つめすぎるのは良くないし、そもそもあの黒猫はアイリーンなのだった。最初はアイリーンだと知らず撫でてしまったとはいえ、再び触れるのに抵抗がある。思い出したレンは顔を逸らした。

「レン。撫でますか?」
「と、突然なんだ」

突然の問いに声が上擦った。

「いえ、ずいぶん熱心にアイリーンを見つめているので、触りたいのかと」
「……いい、のか?」

出そうと思ったのは断りの言葉だったはずが、何故か戸惑いに変換されていた。

「えぇ。何があるか分かりませんから、清潔な手で触れていただければ」

(許可をもらったなら、いいのか? でも……)

逡巡していると、黒猫がレンの足元へやってきた。大きな瞳を見開いてレンを見上げている。無垢な瞳から目が離せない。
どうにでもなれ。レンは屈んで黒猫の背を優しく撫でる。途端に黒猫がぐっと体を伸ばした。先程までの体の長さと一致しない。骨がなさそうなやわらかさにいつも驚く。

「なぁ、ドクター。俺も猫の先生の写真撮っていいか?」
「写真を撮るのに私の許可は必要ないかと思いますが……」
「いや、今は猫の姿でも、元はアイリーン先生……ドクターの恋人だろ? 嫌かと思ってさ」
「人間だろうと猫だろうと、本人が拒否していなければ問題ないでしょう。不安でしたら後程アイリーンに確認すれば良いですし。ガストは撮った写真を何かやましいことに使うつもりなのですか?」
「ないない! んなつもりねぇって! 先生とか関係なく、猫が可愛いってだけで」

レンの耳にガストとヴィクターの会話は入ってこなかった。黒猫が嫌がらない程度に触れたり観察したりする。こうしていると、またあのサーバルキャットを追想する。あの子は元気だろうか。
ふと、しばし口を閉ざしていたマリオンを見た。マリオンは隣で紅茶を飲んでいるが、目が黒猫へ向けている。姿勢は綺麗なのに、視線だけが落ち着かない。

「マリオンも触りたいのか?」
「なっ……ち、違う。ボクはいい」
「マリオンも触れたければどうぞ。大人しいですよ」
「だからボクはいいって……!」

マリオンが声を荒げると、黒猫はレンの膝からマリオンの膝へ移動した。突然のことにマリオンの体が跳ねる。
黒猫が待ちの体勢でマリオンを見つめる。眼差しは澄んでいて優しいのに、あまりにまっすぐなものだから、攻撃されているようでもあった。

「にゃあ」
「お。触ってほしそうだぞ、マリオン」
「…………」

マリオンは戸惑いと好奇心が混ざった表情を浮かべる。十秒ほど経って、遠慮がちに手のひらでやわらかな毛並みを堪能し出した。
男性にしては細めの指が黒い背を動かすが、黒猫は悠然としている。時折目を細めて鳴くので、マリオンの白い頬が薔薇色に染まった。

「先生が治る目途って立ってるのか?」
「はい。特効薬ももうすぐ作れそうです。明日には元の彼女に戻れるでしょう」
「そっか。なら安心だな」

四人はしばらく猫の話題で歓談する。本を読むつもりが、ずっとリビングに居座っていた。その答えはレンとマリオンの真ん中で休んでいる。生き物というより精巧なつくりもののようにも思える。

ヴィクターが食べ終えた食器をシンクに戻したとき、なぁ、と高い声がリビングに広がった。
黒猫はヴィクターの元へと駆けていく。ヴィクターが「おや」と軽く驚きつつ、大きな手で黒猫を抱き上げ机に運べば、満足そうに鳴いた。

「はは……。先生、猫になってもドクターのことが好きだな」
「そこまでの意識が残っているとは考えにくいですが……」

どこか演技じみた笑みが、とても優しいものに変わった。

「レンが猫を好きな気持ちが分かりました。愛らしさに癒されているのですね」

ヴィクターのさすり方が気持ちいいらしく、エメラルドグリーンの目は穏やかだ。ちろちろ小さな舌で撫でる手を舐めている。

「……オマエがそう感じるのは、猫が可愛いからというより、猫になったアイリーンさんがオマエに甘えていたからじゃないのか」
「甘えていた?」

想像もしていなかったと言いたげな声だった。マリオンは先程からまた不機嫌な顔をしていたが、ますますそれが広がっていく。だが、レンにはマリオンがしかめっ面になるのも分かる。

「俺も、そう思う。すり寄ったり、喉を鳴らしたり、舐めてきたり……そういう行動は猫が好きな相手にするものだ。多分……先生は、あんたに甘えていたんだろう」

サーバルキャットがいたとき猫の行動学を学んだと言っていたのに、忘れてしまったのだろうか。それとも、普段動物には嫌われているから結びつかなかったのだろうか。どちらにせよ、黒猫(アイリーン)がヴィクターのことを好きで、甘えていることは確実だった。
ヴィクターの微笑に、別のものが加わる。

「ふむ……。なるほど。そうですか」
「にゃあ、にゃあ」

ヴィクターの目に応えるように黒猫が鳴く。甘い声を聞き、涼やかな青緑の瞳に幸せが滲み口角がゆるく上がった。そんな表情をレンは近くで見たことがあった。
誰だったか。考え出してすぐに分かった。

(姉さん……)

恋人を紹介したいと言ったシオンも、同じ顔だった。シオンとヴィクターはまるで違う性格だし、そもそも性別も違うのに。どうして姉の顔を連想するのだろう。疑問の中に懐かしさと切なさが混ざる。

「にやにやするな、気持ちワルイ。惚気るならガストだけにしておけ」

頭に浮かんだ姉の甘い微笑みは、マリオンの強い語気によって消された。

「な、なんで俺?」
「惚気? そのつもりはなかったのですが、具体的にはどのあたりでしょう?」
「うるさい、全部だ全部!」
「はぁ。全部、ですか」

腑に落ちないヴィクターが首を傾げると、黒猫も真似て首を傾げた。
同じポーズをする一人と一匹に、レンは少し頬が緩んだ。

          ◇          ◇           ◇

翌日。今日一日の業務を終えてエリオスタワーに戻る。チームメンバーはそれぞれやりたいことや用事があるようだ。

「レン。お疲れ様」

職員用の扉に向かおうとしたところで、昨日も聞いた声がレンの足を止めた。顔だけ向けると、予想通りの人物がレンへ微笑んでいる。

「元に戻ったんだな」
「えぇ。助けてくれてありがとう。それから、迷惑かけてごめんなさい。それだけなんだけど、直接言いたくて」
「別に。あんたが気にすることじゃない」

猫になってしまったのがアイリーンであろうとそうでなかろうと同じ対応をする。今回はたまたまアイリーンだっただけだ。
アイリーンは三十過ぎにしては幼げな顔に喜びを広げる。

「そうね、レンはヒーローだもの。それでもお礼を言いたいの。ありがとう」

まっすぐで単純な感謝の言葉がレンの胸に刺さる。むず痒い思いが生まれて目を逸らしたくなった。しかも意識はなかったとはいえ、猫のアイリーンを撫でていたのだ。今更心苦しさが渦巻く。

「……あぁ」

そんなレンの心中を知らずに、アイリーンが微笑みを深くさせる。
本当にそれだけを伝えに来たようで、アイリーンは「またね」と言って去っていった。

離れていくアイリーンの背を見送る。癖のついた髪がふわりと吹いた風で右へ流れ、昨日感じた毛並みの感触を思い起こす。胸の中に小さな喜びと後ろめたさで混ざって苦い気持ちになる。
同時に、ヴィクターはアイリーンへ猫になったときの話をしたのか気になった。

(どうでもいいか)

メンティーのレンが気にすることではない。ヴィクターは姉の恋人でもないし、アイリーンは姉でもないのだから。
今日はまたマリオンとのトレーニングがある。復讐のため、強くなりたい気持ちは変わらない。
それでも、願いの中にも薄暗いだけではないものが、少しだけ生まれてきたような気がした。