×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -

融解するロジック


ヴィクター・ヴァレンタインの脳裏に、毎日思い浮かぶ人物がいる。
アイリーン・シェリー。ゆるくウェーブを描く深みのあるモスグリーンの髪と垂れたエメラルドグリーンの瞳、その左下にある泣きボクロ、そして何よりあたたかな笑顔が特徴的な女性である。

休憩時にコーヒーを飲んでいるとき、パトロール中に落ち着いたカフェを見つけたとき、面白い理論を考えついたとき。これは気に入るだろうか、どういう反応をするだろうかと想像してしまう。
それを世俗的に恋と呼ぶのだという。

恋。対象に特別な愛情を寄せること。理屈だけ理解していたものの、納得も体験することがなさそうなその感情を、ヴィクターは三十年以上生きて初めて感じていた。

「最近紅茶をいくつか買って飲んでるんです。フルーツ系も美味しいんですけど、スパイス系も美味しくて、つい飲んでしまって。ずっとコーヒーばかり飲んできましたから、いろいろ試すのが楽しいです」
「紅茶ですか。私はあまり嗜みませんが、マリオンは紅茶に詳しいですよ。今度一緒にパンケーキを食べる日にでもおすすめを聞いたらよいかと」

ヴィクターとアイリーンは短いデートをする。デートといってもカフェに入ってコーヒーを飲みながら話すだけの単純なものである。付き合う前としていることは同じだが、以前と違うのは、きちんと約束をしていて、アイリーンに会えるのを心待ちにしていることだ。
今日も仕事に多少余裕があったので仕事帰りに少し会わないかと提案した。ヴィクターは研究者とヒーローの二足わらじのため、必然的にヴィクターからアイリーンを誘うことになる。

「そうなんですか? マリオンさんはどこのお店が好きなのか、いろいろお聞きしたいです。でもコーヒーも飲んでますから、カフェインを摂りすぎてる気がしますけど」

アイリーンがまさしくにこにこという言葉が似合う顔つきで話している。つられてヴィクターも目元が緩くなる。
アイリーンと話していると、ベータエンドルフィンやオキシトシンが分泌されているのか、いわゆる多幸感を覚える。【サブスタンス】の研究をしているときとはまた異なるものだ。

「……ごめんなさい、そろそろタワーに戻った方がいいですよね」

時間の流れは早い。通話やメッセージも時折するのに、話題が尽きず共にいる時間は過ぎていく。

「あぁ、もうそんな時間ですか。私から誘ったのにもかかわらず、今日もあまり時間を取れずすみません」
「いいえ。こうして顔を見てお話できるだけで嬉しいですから」

アイリーンが朗らかな笑みを形作る。本心からだと推測できて、安堵が胸に広がった。
ヴィクターは夜の予定を脳内で確認する。もう少し時間には余裕がある。

「ありがとうございます。代わりといっては何ですが、せめて行ける場所まで送らせてください」

今は春で日の入りまで長いが、女性の一人歩きは危険だ。アイリーンを送るため……というのは半分建前で、可能なだけ話したかった。申し訳なさそうな顔をする彼女を言いくるめて共に歩く。

会話しながら、隣にいるアイリーンへ視線をやった。
ヴィクターとアイリーンは男女の性差が身体的特徴にはっきり現れている。アイリーンが顔を大きく上げなければヴィクターと目が合わない。危険なので歩くとき目線は前になる。その分ヴィクターはアイリーンを観察できる。
口元を手で隠すために揃えた指先は整っている。もみあげが顔にかかって邪魔になったらしく耳にかけたので、前からあまり見えなかった耳の形が分かる。追い風が大きく吹いて後ろ髪が舞えば、細く白いうなじが現れた。
ヴィクターは容貌や表情、仕草などから人間性や感情を読み取ろうとする意識が他人より強い。それが彼女に対して、最近無意識のうちに見てしまっているという自覚はあった。

「今日はここまでで大丈夫です。ありがとうございます」

レッドサウスのマゼンタアベニューまで着くと、アイリーンが言った。
彼女のアパートまで五分ほど。まだ空にオレンジが見える。別れても問題なさそうだ。

別れ際は、いつも彼女へキスをしたくなる。愛情を感じる相手にはしたくなるものらしい。「一般的な感覚とズレている、変な人」と評されるヴィクターであってもそれは当てはまるようだ。

すぐさま周囲に人がいないことを確認する。そしてアイリーンとの距離を詰め、そっと頬に触れた。
アイリーンもヴィクターが何をするのか察したらしく、白い頬を赤く染め、ゆっくりまぶたを閉じた。
その一連の仕草に、ヴィクターの胸がひどくざわつく。良からぬものが体の奥底から出てくるような、ふつふつと熱が腹の底で煮えていくような感覚。

それをぐっと抑えつけ、ヴィクターはやわらかな唇にくちづけた。唇とリップの感触を一瞬だけ味わう。よほど親密な家族間であればするような軽いキスだろう。しかし、唇と唇での神経接続はアイリーンが初めてで、未だ目眩がして、けれどひどく心地良かった。

「おやすみなさい、アイリーン」

普段通りの別れの挨拶。ヴィクターに続いてアイリーンも同じことを口にするはずが、今日は返ってこない。アイリーンはキスを落とされた唇に細い指先を当て、色っぽく目を伏せていた。
ヴィクターが軽く首を傾げ無言で見つめていると、アイリーンは上目遣いに言った。

「あの……もう一度、キスしてくれませんか?」

切なげで熱い眼差しに、またヴィクターの心臓がどくんと大きく脈打った。唇に力が入る。しかし、あくまで表情に出ないよう努めた。
アイリーンはヴィクターの返事を待っている。瞳は揺れ、祈るように胸の辺りで両手を重ねていた。こんなに愛らしく待つ女性からキスをねだられていて断る男性はいるのだろうか。常に余裕があると言われるヴィクターですら無理だ。以前ならば冷めた瞳で断っていたに違いないが、今は好いていると自覚している女性からのお願いである。そもそも断るつもりはなかった。

「一度だけでいいのですか?」

けれども、少し意地悪をしてみたくなって。質問で返してしまった。

「あ……」

想定通り頬の赤みが増した。今すぐ叶えたくなる。

「少し長く、してほしいです」

アイリーンとのキスは一瞬重なって離れるだけだ。事前に確かめていようが人目に触れる可能性の方が高い。それもあってか、ヴィクターに長くキスをするという発想がなかった。男女が何度もキスする映画は見たことがあるし、衆人環視の中でキスする恋人たちも目にしたというのに。

(キスは、触れるだけのものではないのでしたね……)

気付きを得て口と目が緩む。

「えぇ、もちろん」

唇を重ねて数秒。息遣いが分かる距離まで離れてコンマ数秒でもう一度。もう一度。もう一度――――というところで、理性が本能を止める。
これ以上すると人目につく。キスを見せつける趣味はないし、そのあたりのモラルは持ち合わせているつもりだ。
横目で周囲を見回した。幸いなことに、この十秒程度の目撃はされていないようだ。
ヴィクターは目を細め、眼下のアイリーンへ問う。

「……貴方のご期待には応えられましたか?」
「はい。とっても嬉しいです」

照れと幸福が混ざった微笑みが、アイリーンの顔に広がっていく。
再び触れてしまいそうになる。ヴィクターは体に力を入れた。
ヴィクターの心の内を知らないアイリーンは手を振って別れを告げる。

「おやすみなさい、ヴィクターさん」
「えぇ。おやすみなさい、アイリーン」

ヴィクターも笑って帰路へつく。

太陽が沈んでいく空を見つめ、夜の空気を感じながら考える。
視覚、聴覚、嗅覚、触覚。四つもの感覚から得られるアイリーンの情報が、ヴィクターの欲を――――具体的には下半身を刺激してくる。これは、つまり。

(特定の人物と恋人として交際を始めたことで、性欲が湧いてきた……ということでしょうか)

ヴィクターも健全な成人男性だ。睡眠による生理的現象、もしくは疲労で性器が硬化した経験はある。しかし、他者による刺激で性的欲求が高まったことはない。どうすれば子どもが産まれるのかを知ったところで、それ以上の興味は他に向いた。女性の裸体を見たことはあるが、人体の部位を知りたいがための好奇心によるものだ。それも人体解剖書、映画の一部、美術品である。

(性欲を向けてしまう対象はアイリーンだけ? それとも、女性なら誰でも?)

一度深く考え始めると、意識が疑問に集中してしまう。ならば検証すべきだ。

タワーに戻り、まずネットでアダルトビデオを借りてみた。ちなみにアダルトビデオを選んだ理由は画像より情報が多いからだ。
他者のセックスシーンを観賞して視覚や聴覚から刺激を受け、性欲解消するのに利用されるもの。存在は知っていたものの、まさか自分が観ることになるとは。人生とは不思議なものである。

ノヴァを筆頭に誰かが入ってこないよう、ドアの内側からロックをかけておく。観ている途中に入られたら困る。特にお転婆ロボさんジャクリーンが来たら、マリオンが喉を壊す勢いで怒鳴り鞭を振るってくるだろう。
イヤホンの音漏れがないかなど十全に確認した後、ヴィクターはアダルトビデオを再生する。何やらストーリーがあるようだが、セックスが始まりそうなところで停止ボタンを押す。詳細などどうでもいいのだ。

私用携帯機器の中に男女が映る。女性がスーツから部屋着に着替えた。いつもと違う生活感のある姿を見たせいか、男性は興奮している。
ヴィクターに変化はない。

男性が女性を抱きしめキスをするが、女性は嫌がる素振りは見せない。受け入れたと認識した男性が女性の服を脱がす。女性の肌面積が増えていく。鎖骨や太もも、さらに下着が露出し、乳房がまろびでた。
ヴィクターは真顔で見知らぬ男女の性行為を見つめる。

『ああっ、あんっ!』

男性が触れるたびに女性が喘ぐ。やけに甲高いからなのかイヤホンの音質によるものなのか、耳障りだった。まるでターミナルのアナウンスのようなアイリーンの声だと落ち着くのだが。
ヴィクターは己の股間へ視線をずらす。陰茎の大きさは視聴前と同じだ。
これ以上見ても無意味だと判断し、男性器が女性器に挿入されたところで停止した。数時間前、アイリーンに感じた性的興奮は今のヴィクターに存在しない。

(ケースはひとつだけ。ただ別のものを借りるというのも……。単純に気分ではない? アイリーンならば反応が違う?)

アイリーン・シェリーを可能な限り正確に脳内で描く。
まず、ヴィクターより頭ひとつほど小さな背格好をしている。癖がついた髪は、キスをしたとき頬にかかってやわらかかった。緑の垂れた瞳から向けられる眼差しは優しく、時に甘やかだ。くすんだピンクの口紅をつけた唇は何度くちづけても感触がいい。小さな手はヴィクターより少し温かい。腎臓と膵臓と消化器だけが入っていそうな腰は、人にぶつかりそうだったところを引き寄せ、その細さを手の平に知った。ブラウスを押し上げる乳房のやわらかさもそのとき腕越しに感じた。臀部は女性らしく曲線を描いている。スカート丈のせいで膝から上は分からないが、少なくとも露出していたふくらはぎは必要最低限の脂肪と筋肉でできていそうだった。

アイリーンはどんな風に嬌声を漏らすのだろうか。アイリーンが性的に興奮したとき、どんな表情をするのだろうか。自分が触れようとしたら、どう受け入れてくれるのだろうか。

そう。セックスはアイリーンが受け入れてくれることが前提だ。
暴れるほど拒絶される可能性は限りなく低い――――と思われる。当然「心の準備が」「まだ早い」などと言われることも想定している。しかし、キスをねだった様子から、あくまで「ヴィクターがしたいから許可してくれる」のではなく「アイリーン自身も欲があるから許可する」のではないか。ヴィクターには多少楽観的な予測があった。
何故そんな願望が入り交じった仮説を立てているのか。ヴィクター自身奇妙だった。
ひとまず置いておく。今答えを見つけるべきことは別のことだ。

――――ヴィクターさん。

目の前で自分の名を口にする彼女は、常に穏やかに微笑んでいる。
では、自分の下で自分の名を口にする彼女は? あの時のように頬を赤く染め、艶のある眼差しを向けるのだろうか。それとも――――。

そこまで思考を進めて、ヴィクターは下半身の窮屈さに気付いた。スラックスの一部が見事なまでに膨張している。

「……ふむ」

そのまま、途中で停止したアダルトビデオを再び視聴する。興奮状態ならばまた違う結果が得られるかもしれない。

『もっと、もっとぉ!』

男性がピストン運動を繰り返すたびだらしなく女性が喘ぐ。女性の表情と体、そして結合部分がやたら映し出される。本来の目的でレンタルしたのであれば凝視するべきところなのだろう。
三分も経過すれば他人のキスとセックスを見るのが苦痛になってくる。利用する男性はよく長時間見られるものだ。ヴィクターはビデオを止めた。
股間を確認する。通常時よりは膨れているが、やはり萎えていた。

また頭の中にアイリーンを呼び戻す。
赤らんだ顔の彼女がベッドに倒れている。アイリーンは目を泳がせていたが、数秒後ヴィクターへ視線を合わせた。甘く湿った瞳は目が離せなくなるほどの色気がある。頭の中の彼女とはいえ、目の当たりにしたばかりなのでやけに生々しく感じられる。
キスをする。長く、長く。舌を入れてみる。アイリーンの唇からくぐもった声が出た。唇を吸う。脳内でも、ちゅ、ぢゅ、と音が鳴る。先程のアダルトビデオが性欲を煽るためにやたら音を立てていたせいで引っ張られているようだ。
服の上からふくらみを撫でる。一瞬肩が震えたものの、アイリーンはキスに集中したままで、胸や脚に触れるヴィクターの手を許している。
イメージしているだけなのに、いや、むしろ都合よくしているせいか、理性がだんだん薄れていく。

もう少し。もっと。目をつむって夢想にふけっていたとき。

――――ポン。

頭の中で広がる靄を、メッセージの通知音が消し去った。
現実に戻されたヴィクターは目を見開き、反射的に内容を確認する。研究部内の業務連絡だ。淡々とした事務的な文章がふわふわとした思考をクールダウンさせる。

(私は、一体何を……)

冷静になった途端頭痛がしてきた。検証のためとはいえアダルトビデオを視聴し、あまつさえ女性の裸や触れたときの反応、セックスすら妄想する。昔のヴィクターならば決してしなかった行動だ。
試行回数は少なく、内容も稚拙だが、「性欲が増したのか」については是として良いだろう。

結論がひとつ出たところで、暗く粘ついた陰が胸の内に生まれて這いずり始めた。グレイやレンたちに感じたときと同じもの。以前は押し殺せたのだが、今は自分の中で上手く処理できそうになかった。

(今日はもう寝るべきですね……)

眼鏡を外し、眉間を揉む。顔を下げると、やはり性器が主張していた。

「ふぅ……」

憂鬱さと後ろめたさが大きくため息となって唇から出た。部屋に戻るよりも前に、他のことに集中して思考回路を正常に戻す方がよさそうだ。
そう考え、ヴィクターは次の【サブスタンス】講義に使う資料を探すことにした。


何とか欲を鎮めて睡眠を取り、次の日。ヴィクターは共有ルームのリビングで朝食を食べ、腹を満たした後、コーヒーを飲んで一息つく。
先ほど起こされたばかりのレンは、まだ眠いらしく険しい表情でサンドウィッチを食べていた。マリオンは洗面所を占有していたガストへ未だに説教している。
三人を一瞥した後、液晶テレビへ視線を移す。ニュースが報道されている。原稿を読み上げていたアナウンサーが真剣な顔から一転、明るい笑みを浮かべた。

『それでは、次のコーナーです。そろそろ夏も近づいてまいりました。この夏注目のスポットをご紹介いたします』

ブルーノースの会員制屋内プール、グリーンイーストの海、そして今はイエローウエストの屋内外プールが紹介されていく。水着になるには早い季節だが、イエローウエストのプールは屋内ということもあってすでに水着の男女で賑わっていた。

下着とはデザインと機能が異なるものの、水着は肌の露出が洋服より多くなる。普段のヴィクターであれば水着の女性がテレビの向こう側にいようが目の前にいようが目移りすることはない。

しかし、今はもう少し「対象はアイリーンのみなのか」の証左がほしい。疲れがたまっていても多少は欲が湧いてくるだろうか。
ヴィクターはじっと水着の女性たちを注視する。ワンピース型の水着を着た女性もいれば、胸元と背中を見せつける女性もいる。意識的に体を作っているであろう女性、逆に手術をしたのか肉付きに違和感を覚える女性と、体つきも十人十色だ。
やはりアイリーンと同じものは感じない。深煎り豆特有の強い苦味がなおのことヴィクターを冷静にさせてくれる。

「ドクター、プールに行きたいのか?」

コーヒーを飲みながら見つめていると、ガストが声をかけてきた。

「プール? 何故です?」
「なんでって……テレビの特集じっと見てるだろ。ニュース以外でテレビ見てるドクターなんて珍しいし」

ガストに指摘され、ヴィクターの口から「あぁ」と納得した声が漏れた。ニュースであれば情報を拾うが、それ以外は読書にあてるか話題を振られてテレビを見る。

「先生でも誘うのか? なんてな」

ガストは冗談まじりに笑った。
見当違いだが、そう思ってくれたなら都合がいい。性欲を向ける対象が限定されているのか確かめるために水着の女性を見ていた、などと馬鹿正直に口にしたら呆れられるか場がしらけるかのどちらかだ。

「ふん、ヴィクターとプールや海とか笑えるくらい似合わないな」

ヴィクターがどう返すか迷う前にマリオンが口を挟んできた。

「そうですか? 似合わないと判断した理由を伺っても?」
「はぁ? 明るい太陽の下、水着で泳いでるオマエなんか似合わないに決まってるだろ。いつもラボに閉じこもってるくせに」
「その理屈だとノヴァも似合わないことになりますが」
「……うるさい。オマエに似合わないと言えば似合わないんだ」

否定ができなかったマリオンは罵倒で誤魔化した。これ以上言及すると激昂するに違いない。ヴィクターは肩をすくめた。

「ま、まぁまぁ。でも、海っていいよな。俺たちも夏になったら行ってみねぇか? せっかくだしさ」
「なんでそうなる」
「マリオンもレンもドクターも、なかなか行かないんじゃないかって思っただけなんだけど。レン、どうだ?」
「俺は興味ない」
「えぇ……」

 ヴィクターを除いた三人が海に行くかどうかで盛り上がり始めた。ルーキー研修が始まった頃であれば、マリオンもレンも「行かない」とだけ答えて会話が終了しただろうに。チームの変化にヴィクターは目を細めた。
チームで行くかはともかく、グリーンイーストの海に足を運ぶのはよさそうだ。できれば人が溢れる前がいい。

自分一人で散策するのもいいが、ガストの言う通りアイリーンを海に誘ってみようか。ヴィクターもアイリーンも外に出かけるとはいえ、行き先はカフェや博物館などで付き合う前と変わらない。

(アイリーンはアクティブな方ではありませんから、海辺を歩くのはいいかもしれませんね)

澄んだ青空の下、凪いだ風が吹いている。自分の瞳と同じ色をした海を見て「海、綺麗ですね」とアイリーンが目をほころばせる。そんな光景が容易に思い浮かぶ。

(すぐには無理でしょうが、考えておきましょうか)

「……ヴィクター、何笑ってるんだ。気持ちワルイぞ」

マリオンが顔をしかめて話しかけてきたので、ヴィクターは脳内の風景を消して「何も」とすました顔で返した。


数日後。手持ちの業務は出来る限り済ませ、ヴィクターはアイリーンをディナーに誘った。ディナーといってもブルーノースにあるスカイレストランやマニフィークのような高級レストランではない。彼女が気軽に応じられるような、レッドサウスにある比較的安価なレストランである。ドレスコードがある場所は別の機会に誘った方がいいだろう。

エリオスタワーからレッドサウスへ向かえば、アイリーンはすでに待ち合わせ場所で立っていた。

「アイリーン、お疲れ様です」
「ヴィクターさん。お疲れ様です」

ヴィクターが声をかけると、アイリーンの顔がぱっと明るく花開く。ヴィクターといるアイリーンはいつでも心の底を照らすような笑みをしている。それはヴィクターといるからだと、最近ようやく知った。

「誘っていただいたレストラン、美味しそうなメニューがたくさんありましたね。楽しみです。ヴィクターさんは行ったことあるんですか?」
「ランチは食べたことがありますが、ディナーはありませんね。ですが、味は保証しますよ。ワインもあるそうですから、少し飲んでみませんか?」
「いいですね」

今日は気温が高いからか、アイリーンは鎖骨が見えるニットを着ている。シンプルな紺のニットとメラトニンを吸収していなそうな白い肌の対照が際立つ。
出会った頃も同じような服を着ていたはずだし、いつもならさして注目する点でもない。しかし今のヴィクターは違う。眩しい肌へつい視線を向けてしまう。

「ヴィクターさん?」

アイリーンが不安げな眼差しを送ってくる。会話を途切れさせるほど見入ってしまったらしい。
ヴィクターは笑って誤魔化す。

「店までどう行こうか考えてしまいまして。では、行きましょうか」
「はい」

事前に地図は頭に入れていたので店まで迷わなかった。店内は家族や友人、同僚に恋人たちといった多種多様な関係の客で混んでいたが、耳をすませなければならないほどの騒がしさはなく過ごしやすい。料理も評判通り美味で、機会があればまた来てもよいと思えた。アイリーンも料理を食べるたびに「美味しい」と感嘆している。

「ワイン、美味しいですね。複雑ですけど、舌馴染みがよくて。何杯も飲みたくなります」
「えぇ。香りもボリュームがあっていいですね」
 
アイリーンの言葉に頷き、ヴィクターはもう一口ワインを飲む。

(む――――)

談笑と料理を楽しんでいるうち、今行っている研究の仮説がもうひとつ頭に降ってきた。良い考えが沸いてくるのはふとした瞬間だ。すぐさまポケットに常備しているメモとペンを取り出し、勢いよく書き始めた。
研究が進みそうな事柄を思いつけば、会話の途中だろうが打ち上げをしていようが、早く試したくてラボへ直行する。そんなヴィクターに周りは声を荒げたり困惑したり呆れたりする。批難されることも多いが、深刻に省みることはない。
アイリーンと付き合ってからはさすがに彼女を放置して帰るのをやめた。その代わり時折携帯機器やノートに考えついたものをつらつらと綴っていく。短くとも五分、最長で数十分、アイリーンはヴィクターが書き終えるのを待つ。申し訳なさはあるのだが、閃いたアイデアや理論が頭から抜け落ちてしまうのは避けたかった。

一通り書き終えてメモとペンをしまう。テーブルには冷えてしまったヴィクターの料理とお互いのワインが置かれている。いつの間にかウエイターが来てアイリーンの分を片付けたらしい。
ヴィクターは謝罪しようとアイリーンと目を合わせた。彼女は子どもを見守る母親のような顔をしている。慈しみと優しさが混ざった瞳はヴィクターを決して責めていないが、逆に居心地が悪くなった。

「すみません。またメモをしてしまいました」
「いいえ。何か思いついたらメモをすることって大事ですから。ヴィクターさんの真剣な顔を見るの、好きですし」

アイリーンは目をほころばせる。偽りのない表情だった。こうして微笑むアイリーンは、淑やかさと艶が同居しつつ、幼い少女のように無垢でもあった。
「好き」と彼女は何の恥じらいもなく口にする。自然の摂理のように。そんな透き通ったまっすぐな好意に、まだくすぐったさと戸惑いを覚える。星の瞬きを直に浴びた気がして、少し前まで仄暗い道のような道を歩いていた身には目がくらんでしまう。何度かアイリーンに対して下卑た妄想をしていたので、胸があたたかくなると同時に棘が刺さった。

「……ありがとうございます」

ヴィクターは何とか笑みを形作って感謝を述べた。
しかし、女性にも性欲はある。アイリーンもヴィクター同様かなり薄いと踏んでいるが、どうなのだろうか。純粋に気になって尋ねてみる。

「アイリーンは自分から誰かに触れようと思ったことはありますか?」
「触れようと思ったこと……。スキンシップってことですか?」
「えぇ」

唐突な質問だったにもかかわらず、彼女は「そうですね」とすぐさま受け入れ、頬に手を当てて天井へ視線をやった。

「あまりないかもしれません。私からハグしたり手を繋いだりしたこと、長い付き合いの友人でも少ないですし……。パーソナルスペースは広い方だと思いますから、そのせいでしょうか?」

確かに彼女からヴィクターへ触れてきたことはない。手を繋いだのも抱きしめたのもキスをしたのも、すべてヴィクターからである。身長差がかなりあるのも理由の大部分だろうし、アイリーンから触れられたことがないからといって疑心暗鬼に陥ったりしない。まるで楽園にでもいるような彼女の微笑が、ヴィクターの心に十分すぎるほど伝播していくからだ。

「ヴィクターさんはどうですか? ヴィクターさんもパーソナルスペースは広い方かなと勝手に思っているんですけど」
「仰る通り、パーソナルスペースは広いと思います。スキンシップも……ないですね。幼いマリオンとよく手を繋いだ記憶はありますが、はぐれないためでしたから」

だから、ますますアイリーンに触れたがることを不思議に思う。衝動に駆られ手を繋ぎたくなって、抱きしめたくなって、キスをしたくなって――――もっと、触れたくなる。
もし冬にこの渇きが胸の内に生まれていたなら、無理矢理抑え込んでいた。彼女と距離を置いていた。研究のために不要でしかない煩悩。理知からほど遠い、なおさら排除すべき欲求。そんなものは無駄で、何の益にもならない。
アイリーンはどこか硬い表情で何やら考えている。その理由を推測できず、ヴィクターは尋ねる。

「どうしました、アイリーン。何か気になることでも?」
「その……やっぱりスキンシップってした方がいいのかしら、と思って。触れて好意を伝えるのも大事なことですし……」
「そういうことですか。ですが、無理をしてスキンシップを図る必要もないかと。スキンシップはコミュニケーションの一種ですが、しないからといって好意が伝わらないわけではないですから」

ヴィクターの周囲でスキンシップをよくしている人物といえば、ウエストセクターのディノ・アルバーニが思い浮かぶ。実際彼は上手くスキンシップを図ることで好印象を持たれることが多い。しかし、いちいち触れなくとも好意は伝わる。少なくとも目の前のアイリーンからはポジティブな気持ちを常に感じる。

「うーん……。私はそばにいるだけで満足してしまって全然行動に移せてないことが多いので、余計気にしてしまうのかもしれません」
「貴方は言葉で伝えるタイプなのでしょう。それも、とても大切なことだと思いますよ」
「そうですね。でも、ちゃんと触れたいと思うときもありますから。家族や友人、ヴィクターさんとか……好きな人に触れられるのは嬉しいですから」
「触れられる場所がどこでも嬉しいものですか?」

軽い気持ちで尋ねる。問いにアイリーンの目が軽く見開かれたかと思うと、すぐに伏せた。顔に羞恥が広がっていく。熱を抑え込むように左手を頬に押し当てる。

「人にもよりますけど……その、ヴィクターさんなら、どこでも……」

そして、か細く消え入りそうな声で言った。

繰り返し短いくちづけを重ねたときもひどく色っぽい顔つきをしていたが、こんなにも恥じらった表情を見せるのは初めて――――いや、エリオスミュージアムの庭園でも見せたことがあったか。アイリーンはどこか余裕すら感じられるほどさらりと言葉で好意を伝えるので、少し過剰にも思える反応だった。

そんな彼女の様子にヴィクターは鼓動を乱され、目が離せなくなる。「可愛らしい」という言葉が、不快な匂いを伴って再び頭をよぎる。
恋人という関係になって数ヶ月。デートや通話などを通じてアイリーンのことを魅力的な女性だと改めて感じていた。けれども、自分の認識よりずっと目の前の女性に心惹かれているようだった。

「すみません。貴方を辱めるつもりではなかったのですが」
「い、いえ。分かってますから、大丈夫です」

否定するものの顔の赤らみは消えていない。
「どこでも」の意味は、ヴィクターとアイリーンで同じなのだろうか。手や肩、唇以外の場所も含まれているのだろうか。そうでなければ、ここまで照れるものだろうか。

「その……ヴィクターさんは、私から触れられるのは、嫌じゃないですか?」

どんどん都合の良い方向に行く思考回路を、アイリーンの問いが止めてくれる。ヴィクターは再び顔を取り繕った。

「何故そう思うのですか?」
「いくら恋人でも分別はないと、と思って。ヴィクターさんが嫌なことはしたくないですし」
「貴方は思慮分別のある方なので、問題ないかと思いますが。それに、先程貴方も言っていたでしょう。誰かに触れようとするのは愛情表現の一種だと。触れられたくない相手に触れるほど、私は酔狂な人間ではありません。強制はしませんが……アイリーンからも触れてくださると嬉しいですよ」

答えながら納得する。好きだと感じている。だから触れたくなる。触れられたくないのに触れはしない。むしろ触れられることを、喜ばしく思う。ヴィクター・ヴァレンタインにとって初めての感情。
アイリーンは顔を赤らめたまま、しかしようやくヴィクターと目を合わせた。

「が、頑張ります」
「ふふ。楽しみにしています」

ヴィクターが笑うと、アイリーンは気まずそうにワインを飲んだ。
 
 
食べ終わって会計した後、ヴィクターはいつものようにアイリーンを送る。
アイリーンは隣で穏やかに微笑んでいて、数十分前までの照れ様が嘘のようだった。

「最近はあそこの店が流行してるんですって。生徒が言ってました」
「この間はカーマインストリートの店だとお聞きしたような……。流行り廃りは早いものですが、周期があまりにも短いですね」
「ふふ、そうですね。行ってみようか迷ってるうちに別の店を教えられることが多くてびっくりします」

アイリーンが笑う。

会話を続けようと口を開いたとき、指先がヴィクターの手のひらに触れた。何か、と口にする前に、するりと手を握られ、指をからめられる。なめらかな手のぬくもりは夜の肌寒さから守られるようで心地よい。
自然な動作に少し驚く。だが、ヴィクターは手を振りほどくことも歩みを止めることもしない。
「触れてもいいか」と赤面して尋ねるものだから、いつかのことだと思っていた。しかも単なる手繋ぎ方よりも密着度が高い。
ヴィクターは意地悪く言う。

「こんなに早く有言実行されるとは思いませんでした」
「口だけの人間だって、貴方には思われたくなくて」
「そんな風に思ったことはありませんし、思いませんよ」
「私が嫌なんです」
「はぁ。そういうものですか」
「はい」

アイリーンは頷き、褒められた小さな子どものような、どこか自慢げな表情を浮かべた。

「…………」

ヴィクターは指の腹でアイリーンの甲を撫でてみた。気のせいだと思われぬように数度。アイリーンの体が一瞬強張ったが、ヴィクターの誘いに応じるように強く握り返してきた。
ちらと右隣へ視線をやれば、頬が桃色に染まっているのが見えた。しかし、可憐な唇はゆるく笑みを描いている。
彼女の健気さに、胸の中の気が昂っていく。呼吸してどうにか抑圧する。

「スキンシップ」の範囲に収まる接触ではもうヴィクターは満足しきれない。

結論として、ヴィクターはアイリーンに対してのみ性的欲求があり、興奮していると言えた。
そんなことを隣で幸福を漂わせる彼女は分かっていないだろう。ヴィクター自身、誰かに対して性欲をぶつけたいと思うことがあったのかと驚いているほどなのだから。
アイリーンの体はヴィクターの想像通りなのか。どれほど差異があるのか。かけ離れていたとして落胆などするはずもない。そもそも、そこはどうでもいい。

(彼女に、触れたい)

目で、耳で、手で、唇で、舌で――――もっと別のところで感じたい。

(もし機会があるなら、言ってみましょうか)

愛情を伝えるために――――貴方とセックスしたい、と。