春色リップのくちづけ
そういえば、キスをしたことがなかった。
ヴィクターはふとそう思った。
ノヴァ、マリオン、ジャクリーン、ジャックとのポップコーンパーティー。マリオンが選んだという、不老不死の秘薬を飲んだ女性たちがひとりの男性を奪い合ったりしてバトルを繰り広げるコメディ映画を観ている。
今は主人公と医師の男性が結婚式を挙げた七年後のシーンが流れているが、その前に結婚式で主人公と男性が激しいキスを交わしていた。
アイリーンと恋人として交際することになった。これまでの人生を踏まえても、人間はおろか何かにキスをしたことがないことに気付いた。
恋人だからキスをしなければならないなんて誓約はない。当然生きている間にキスをしないと死ぬなんて義務もない。ヴィクター自身性欲が薄い方だという自覚もあるし、したいという意志もないのに強制的にキスをしたとして何になるのか。
だが、アイリーンに触れたくないと否定しきるのも違うような気がする。
(まぁ、今考えることではないですね)
ほんの数時間前まで任務と回収した【サブスタンス】の調査だったし、それ以外にも考えることが多すぎた。今は自分が主役だというポップコーンパーティーだ。映画を観た方がいいだろう。
思考を放棄したところで、すでにスクリーンには別のシーンが流れている。いつの間にか黒髪でショートボブの女性と、主人公が何やら取引の途中だ。長考していたらしい。
その後も映像は目に映していたものの、内容にはあまり集中できなかった。
「よし、解散にする」
特別任務を終えて数日。
ヴィクターはノースセクターの研修チームに戻ることが決まり、パトロールにも参加するようになった。復帰して初日、特に何事も起こらず無事に終了した。
音頭を取るマリオンはヴィクター、レン、ガストへ目を釣り上げる。
「言っておくが、今日は食事の日だからな。忘れるんじゃないぞ。特にレン。道に迷って遅れるようなら連絡しろ」
「……分かってる」
名指しされたレンが不満そうに口の端を下げた。
「言っておくけど、ガスト、ヴィクター、オマエたちもだからな」
「大丈夫だって。今日は弟分たちとも会う予定もねぇし、迷わず帰るよ」
「私はこの後予定がありますが、問題ないかと。何かあれば連絡しますよ」
アイリーンから「復帰のお祝いさせてください」と誘いが来て、パトロール後に大通りで待ち合わせすることになっている。
「チームに戻ることが決まりました」とメールしたときのアイリーンの返信は速かった。己が事のことのように喜んでいて、文面から声が聞こえてきそうだった。
マリオンからは怪しむような、ガストからは探るような眼差しが注がれる。ヴィクターの「予定」に勘づいているようだったが、答える義務はない。
レンはというと、そんな二人を見て無垢な幼子の顔をしていた。
三人と別れ、大通りで佇んでいると、アイリーンが駆け足でやってきた。少し乱れた髪が汗で額にくっついている。呼吸を整えながら、ヴィクターへ言った。
「ヴィクターさん、お疲れ様です。ごめんなさい、お待たせしてしまって……」
「私のパトロール先はブルーノースですから。セントラルにあるアカデミーから遠い貴方の方が時間がかかるでしょう。気にする必要はありませんよ。……アイリーン、走ってきて喉も乾いてるでしょう。貴方のおすすめのカフェはどちらですか?」
「こっちです。デパートの近くに、すごくいいカフェができたんです。コーヒーも美味しいんですけど、紅茶も美味しくて」
白い頬を淑やかに朱に染める。にこにこしながら話すアイリーンは、可憐という言葉が良く似合っていた。
連れてこられたカフェは客が多かったが会話は少なく、都会の喧騒から切り離されたように落ち着いている。店内に飾ってあるインテリアや風景画も趣味がいい。今らしさもありながら、年代物らしい家具なども置いてあってどこかノスタルジックだった。
「内装も趣味がいいですが、客層も落ち着いていていい店ですね」
「そうでしょう。専門店ではないですけどコーヒーと紅茶の種類が多いですし、お茶菓子も美味しいんですよ」
ヴィクターにも褒められ、ますます笑みを深くさせたアイリーンがメニュー表を差し出す。確かに種類が多い。スタッフ側のガラス棚に飾られている茶葉やコーヒー豆も、メニューの数だけありそうだった。
メニューの中から気になったコーヒーを一杯頼むことにする。アイリーンはしばしメニュー表とにらめっこしていたが、ヴィクターとはまた違うコーヒーを店員に注文する。
「ヴィクターさん。復帰おめでとうございます」
「ありがとうございます。少し前まで、またこうしてヒーロー業に勤しむ自分を想像できなかったのですが……不思議なものですね」
本当に、この一ヶ月いろいろあった。長年かけてきた研究が完成して、今までしてきたことが明るみになり糾弾されて、それでもヒーローに復帰して。
正直、今でも暗い海の底にいるような気がする。だが、先に光が点々と灯っているのは、ノヴァやジェイたちおかげだ。
「本当に――――不思議なものですね」
あたたかくすっきりとした気持ちが浮上して、ヴィクターの口元がほころぶ。まっすぐな言葉にアイリーンの目が丸くなった。すぐに慈しみの眼差しをヴィクターへ向けた。
「ヴィクターさんが迷いながらも自分で決めて、今の結果になったんですよ。だから、何も不思議なことなんてありません」
断じるアイリーンの顔は外からの光に当てられて輝いている。記憶の中のオズワルドも光っていたが、アイリーンにはまた異なる印象を抱く。凡庸で月並みな感想だ。瞳孔を開いて自分を見ているからか、などと考えてしまうが、それだけではないような気がする。
「お客様、お待たせいたしました。ご注文のルワンダコーヒーと、キンボのエスプレッソです」
会話が終わるタイミングを見計らっていたのか、店員が注文していたコーヒーを恭しくテーブルへ置く。
アイリーンは「ありがとうございます」と笑い、コーヒーカップを手に取った。まだ湯気が立っているコーヒーを冷ますため、数回息を吹きかける。
――――そういえば、キスをしたことがなかった。
何でもない仕草に、ふいに数日前の考えが思い起こされる。
思考に引っ張られ、ヴィクターはアイリーンの唇を見つめた。コーラルピンクのリップが塗られているせいか、艶があって瑞々しい。触れれば柔らかそうな唇は常にほころんでいる。ヴィクターの薄い唇とは異なり、ふっくらした厚みは女性らしさを感じる。
「このコーヒー、甘い香りだけど、酸味が強くて美味しい」
白いコーヒーカップにリップがほんの少しだけついた。うっすら下唇に残ったコーヒーを紙ナプキンで拭き取る。何でもない一連の所作にすら注目してしまう。
「あの……どうしましたか? もしかして、パトロールの後でお疲れですか? ごめんなさい、気遣えなくて」
観察しすぎて、受け答えができていなかった。目の前のアイリーンは眉を八の字にさせてヴィクターの顔を伺っている。
貴方の唇を見つめていました、と素直に言えるわけもない。ヴィクターは目を逸らし、まだ日が沈みきっていない外へ視線を移した。
「……いえ、何でもありません。ただ、日が長くなってきて春が来たと思いまして」
「そうですね。まだ少し寒いですけど、暖かくなればもっと花も咲いてきますし」
「花ですか。春の花といえば、グリーンイーストのリトルトーキョーには日本のサクラが植えてありましたね。もう少しすれば見頃かもしれません」
「サクラ……。じゃあ、今度お花見でもしませんか? 私、あまりサクラ見たことなくて……。あ、もちろんヴィクターさんが良ければですけど」
申し訳なさそうに謝るアイリーンに笑みを向ける。
「構いませんよ。この頃は落ち着いていますから。私もサクラを見るのは久しぶりですし」
「本当ですか? 楽しみです」
アイリーンが優しく目を細める。一足早い春の笑みを浮かべるアイリーンは、文字通り楽しそうで嬉しそうだった。
ヴィクターもつられて口元が緩んだ。アイリーンの微笑みは心地よいものにしてくれる。
花見の予定を決め、ヒーロー向けの【サブスタンス】講義の話をしているうち、アイリーンが「あ」と声を漏らし、腕時計を見た。
「今日はチームで夕食でしたよね。そろそろお時間じゃないですか?」
「もうそんな時間ですか。すぐ暗くなりますから、送りましょう」
「でも、私の家、レッドサウスですから間に合わないでしょう。私は大丈夫ですよ」
「連絡を入れておきますから問題ありませんよ」
受け身な彼女には少し強引なくらいがちょうどいい。ヴィクターの少々強い声音に、じゃあお願いします、と小さく言った。
会計を済ませ歩きながら話していると、すぐにレッドサウスにあるアイリーンの自宅に着いた。マンションの玄関前でアイリーンが改めて礼を述べる。
「ヴィクターさん、ありがとうございました」
「いいえ。私も祝ってくださって嬉しかったです」
おやすみなさい、アイリーン。続けようとしたところで、また視線が唇に向いた。
――――今ここでキスをしたら、彼女はどんな反応をするのか。
「……アイリーン。目を閉じていただけませんか?」
「? はい」
アイリーンが不思議そうに首を傾げながらも、従順なまでに瞳を閉じる。
睫毛が伏せられ、頬に影ができている。未だ幼さが残る顔と左目の下にある泣きボクロはアンバランスなのに、妙にマッチしていた。艶めいた唇は無防備だ。
キスをしたいという欲より、彼女がどんな反応をするのか。好奇心の方が勝った。
今、都合がいいことに誰もいない。ちょうど皆が帰路に着く時間帯だからだろうか。
ヴィクターはオズワルドの眼鏡を外し、ワイシャツのポケットに掛ける。そっと肩に手を添えると、アイリーンの体の強ばりが伝わる。だが、唇にきゅっと少し力が入っただけで沈黙したままだ。
そして、そのままくちづけた。
キスは甘くも酸っぱくもなく、口紅の人工塗料の味がしたが、リップのぬめり、そして唇の柔らかさは直に感じられた。
「あ、の……ヴィクターさん?」
口を離すと、アイリーンが顔を赤く染めてヴィクターを見上げている。珍しい表情だ。戸惑いと喜びと照れが混ざった複雑な眼差しは、いつも上品に微笑むアイリーンにしてはひどく子どもっぽく――――可愛らしい。
(……可愛らしい?)
そう、可愛らしい、と思った。
赤ん坊や小動物を愛でる気持ちとはまったく不同な感情。女性がことある事に口にする「可愛い」とも違うように思う。
見つめてくるアイリーンに笑みを向ける。自分でも意地悪く笑っているのが分かった。
「キスをしたら、貴方がどんな反応をするかと思いまして。……嫌でしたか?」
「いえ……嬉しい、です。とても」
アイリーンは熱を帯びて真っ赤になった頬に手を当てる。深いグリーンの瞳が甘く溶けて幸せそうに光っている。
その瞬間、ヴィクターはもう一度アイリーンへキスをしたくなった。肩に添える手に力が入る。有無を言わさず唇を重ねようとしたところで、理性がすぐに体を制止した。
さすがに紳士的ではない。一呼吸置いて、今度はきちんと許可を乞う。
「アイリーン。もう一度、キスしてもいいですか?」
ヴィクターよりもずっと小さな体のアイリーンが、軽く首を縦に振った。
周囲を確認してから、ヴィクターはアイリーンへくちづけを落とす。
甘味などしないはずなのに、二度目のキスは何故かひどく甘く感じられた。