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まどろみをついばむ


ノースシティが水に沈んだ。
言葉にすれば不幸な災害だが、幸いなことに甚大な被害は出ていないらしい。とはいえ完全に水ははけ切っておらず、未だ水に浸かったままである。水の街となったことを上手く利用して、ノースシティは車ではなくゴンドラが優雅に走っていた。

そんな二度とない光景を一目見ようと、ブルーノース大通りはいつもより人が多く集まっている。アイリーンもその一人だ。ビルが並ぶ都会から情緒あふれる異国に変わったとなれば興味も湧く。
澄んだ水が光に照らされて輝く街並みは美しい。涼しい風が凪ぎ、アイリーンのゆるやかな髪をさらう。爽やかな空気を吸うと気持ちいい。

(水辺の街に来たみたい)

手すりに寄り添って眺める景色は、光の水とゴンドラですっかりイタリアのヴェネツィアだった。

散歩しながら景色が一変したノースシティを堪能していると、水をかき分ける音が耳に入った。ゴンドラのオールを引く音とも、鳥が羽ばたく音ともまた違う。具体的に言えば誰かが落ちて岸にやってくるような、そんな感じがする。
辺りを見回す。アイリーンの予想はおおよそ当たっていたが、それは見知らぬ人物ではなかった。

「ヴィクターさん?」
「おや、アイリーン。奇遇ですね」

名を呼ばれたヴィクターが微笑む。
何故か水着やダイバースーツを着用しておらず、ヒーロースーツだった。当然スーツはずぶぬれで艶のある白銀の髪はしんなりしており、顔から水が滴っている。何かと不思議に思えば、右手にはサブスタンスのコアと思われる結晶がある。答えは一目瞭然だった。
鉄製の柵を掴み、足を引っかけて通りへ上がると、アイリーンの隣へ移動してくる。

「こんにちは。【サブスタンス】を回収しに潜っていたんですか?」
「えぇ。検知器に反応があったので来てみたのですが、レベルの低い個体でした。まぁ、先日なかなか見ないレベル三の個体を回収できたのでいいのですが」

その個体を思い返しているのか、外していた眼鏡もかけず、ヴィクターは恍惚とした表情で手にしていた【サブスタンス】を撫でる。傍から見れば不審者そのものだが、未知を研究する喜びを知るアイリーンとしては、「ヴィクターさんの研究が進みそうで良かった」とにこやかな笑みがこぼれる。

意見を聞かせてください、あのコーヒー豆美味しかったです、バレンタイン・リーグお疲れ様でした。そういった軽い雑談はメール越しにしていたとはいえ、クリスマスの礼だと一緒にランチを食べて以降の顔を合わせた会話だ。【サブスタンス】絡みの問題対応に追われていたし、休んでいるのかしらと心配していた。しかし、顔色に疲労も憔悴している様子もない。
興味のあることは気絶するまで取り組むことだってあるものだ。アイリーンも昔そんな風だった。バレンタイン・リーグでも疲れた様子を見せずイカレ帽子屋になりきっていたし、改めて元気そうなヴィクターを見て、内心安堵する。

「お元気そうでよかったです」
「休息は十分取っていますから大丈夫ですよ」
「ならいいんですけど。根を詰めてもすぐいい結果は出ないものですし。……なんて、ちゃんと研究職に就いたことのない私が言っても説得力ありませんよね」
「そんなことはありません。お気遣い感謝します」

礼を言うヴィクターの微笑みは優しく、穏やかな笑みがいつもより明るい。レベル三という稀有な【サブスタンス】の発見でまだ心躍っているようだ。
アイリーンも同じように笑い返したところで、ようやく気付いた。

「すみません、濡れているのに話し込んでしまって……タオルとか買ってきた方がいいですよね」
「あぁ、結構です。ヒーロースーツから一度元の服に戻ればいいので」
「服はともかく、髪も乾くんですか?」
「えぇ」

ヴィクターが頷いたところで、ひどく陽気な声が二人へ振りかかった。

「ヴィクターパイセ〜ン、アイリーンセンセ〜イ!」

特徴的な呼び方ですぐ正体が分かった。声がした方へ顔を向けると、ビビットな髪色、目元を隠すゴーグルをした元教え子のビリー・ワイズが大きく手を振ってこちらへ駆けてきている。その後ろから、多少甘いマスクを歪め不機嫌そうに口の端を下げているフェイス・ビームスが歩いていた。オフだったのか、二人とも私服姿だ。

「アイリーンセンセー、ひっさしぶり〜。元気?」
「元気よ。二人も元気そうね」
「まぁ、それなりに。今はビリーに無理矢理引っ張られて、気分はサイアクだけど」
「そんなこと寂しいこと言わないでよ、DJ〜!」

オーバーに泣き真似をするビリーにフェイスはため息をつく。変わらぬ二人にアイリーンは朗らかに笑った。

「二人は相変わらず仲良しね」

アイリーンの言葉に、ビリーがフェイスの肩を抱いてピースサインを向ける。

「もっちろん! だって俺たちベスティだし」
「だから違うって」

フェイスは整った顔を思い切りしかめ、ビリーの手を払う。鬱陶しさがひそめた眉に表れていた。

「てゆーか、オイラからしたらヴィクターパイセンとアイリーンセンセーも仲良しに見えるけどナ〜。道端で話し込んじゃってさ。秘密のオハナシ?」
「ちょっと、ビリー、やめときなよ」
(仲良しって……恋人に見えるってことかしら?)

今の教え子にも詮索されていることだ。以前なら「若いと男女が二人でいれば連れ合いに見えるわよね」とのんびり思っていたのだが、今はほんのり胸があたたかくなっていく。悟られるわけにはいかず、アイリーンは苦笑交じりにのどかな顔を見せるに留めた。
ビリーがニヤニヤする一方、フェイスは他人のことに首を突っ込むなと言わんばかりに呆れた顔をしていた。ヴィクターはというと、やはり大して気にした風もなく、淡々と事実を述べて否定する。

「ヒーロースーツの原理について、機密に引っかからない程度に説明しようかと。なので秘密のお話ではありませんね」
「ワーオ……専門的な難しい話か、世間話みたいなことしか話してない感じ? センセーの弟から聞いて想像はしてたけど、つまんな〜い」
「そんなもんでしょ。ビリーが変に考えすぎなんだよ。……ていうか、ヴィクターのチームって今観光ツアーをやってるんじゃなかった?」

そういえば、少し前にヴィクターからそんな話を聞いた。観光客にサブスタンスを教えるいい機会だと、普段に比べればどこか浮足立った様子で話していたことをよく覚えている。
以前はクレープ作りと接客、今回は観光案内。ヒーローはパトロール、サブスタンス回収に【イクリプス】撃退、【LOM】、それらのためのトレーニング。ただでさえヒーローは業務が多すぎる。特に担当セクターは市民へのサービスもこなさなければならないし、大変だ。
ヴィクターは研究にも携わっている。なおさら激務のはずだが、疲れなど微塵も見せない微笑みで答える。

「今は休憩時間です。少ししたら、観光案内に戻りますよ」
「ヴィクターパイセンの観光案内かー、なんかちょっと気になるカモ」
「いたって普通というか、ごく一般的な感じだと思いますが」
「ヴィクターさん、いつも説明が丁寧ですから、観光する方も楽しいでしょうね」

生徒から「意外と物知り」だの「外見に似合わずインテリ」だの言われることが多いが、アイリーンの知識はだいぶ偏っている。天文学、化学、物理学、数学、美術学、考古学。それ以外の知識も持ったヴィクターは、例を用いて詳しく説明してくれて理解しやすい。サブスタンスについて半年前は詳しくなかったアイリーンも、今は駆け出しの研究者程度の学があると自負できる。

「ふふ。そう思ってもらえているならいいのですが」

素直な称賛を受け、ターコイズブルーの瞳に少しだけ喜びが滲む。

「そうかな〜? じゃあ、このあたりで一番ホットな遊び場を教えてください!」

ビリーはヴィクターを試す眼差しを向け、楽しげに回答を待つ。
ホットな遊び場。ノースシティで若者に流行りの場所。

(どこかしら?)

アイリーンも一緒になって考えてみる。日頃教師として若者と交流しているので、これが美味しいだの可愛いだのバズってるだのと教わるものの、具体的な場所まではさすがに分からない。覚える気がないのも原因なのだが。

しばし顎に手を当てていたヴィクターが口を開いて答える。

「ふむ……エリオスミュージアムをお勧めします」
「ぶっ」
「あら」

フェイスの笑いとアイリーンの驚きが唇から漏れる。

ショッピングやスイーツショップ、カフェテリアなどはノースシティにも多いので行きつけの場所を口にするのかと思っていたのだが、さすがにエリオスミュージアムは遊び場と聞いてすぐに思いつく単語ではない。学生の時分から流行りに疎すぎたアイリーンでさえ異を唱えたい。
ビリーは瞳がゴーグルに隠れて表情が読みづらい。だが、今のビリーの口の端は大袈裟なくらい引きつっていた。

「え、エリオスミュージアムが一番ホットな遊び場……? さすがにそう思ってるのはヴィクターパイセンだけじゃ……」
「そうでしょうか? 観光客に質問されたときも、自信をもってそう答えているのですが」
「ワーオ……」
「で、でも、ニューミリオンにしかサブスタンスはいませんし、楽しい方は楽しいと思いますよ。……遊び場とは言いづらいですけど」
「センセー、さすがにフォロー苦しくない?」

ビリーに突っ込まれる。
ヴィクターは真面目に回答したのだ。ならばそれ以外何を言えというのか。

「あぁ、一応そういった情報がまとまった資料は持っていますよ。マリオンが自ら作成し、無理矢理押し付けてきたものが内ポケットに……」

驚愕と笑いに包まれる三人をよそに、ヴィクターがヒーロースーツのポケットから携帯機器かメモを探し始める。
しかし、先程までヴィクターは水に浸かっていた身。メモであれば濡れているのではないだろうか。アイリーンの予想通り、ポケットからは開くこともままならないしわしわのメモが出てきた。

「おや……水に濡れて読めなくなってしまいました」
「ぶふっ、嘘でしょ……」
「興味がなさ過ぎて今の今まで忘れていました。今度は紙ではなく、データでくださいと要求しておきましょう」

それでもマリオンが怒ってヴィクターに掴みかかる様が容易に思い描けるのは何故だろうか。興味が無いものは注意が疎かになりがちなので、アイリーンは肯定するように微笑んでおいた。

そんなヴィクターに、ビリーが意気揚々とレクチャーすると言い出して昼食を摂る流れになる。となると、アイリーンは邪魔だろう。
はてどうするかと悩んでいれば、ビリーの顔がアイリーンへ向いた。

「アイリーンセンセーはどうする? もうご飯食べちゃった?」
「ちょうどお腹もすいてきたし、お誘いは嬉しいけど……お邪魔じゃないかしら?」
「俺っちはぜ〜んぜん! ヴィクターパイセンとDJは?」
「私も構いませんよ」
「俺もいいけどさ……先生うるさくないし。でもヒーローの男三人と市民の女の人一人って、ちょっとマズくない? 先生が気にしないならいいけど」

それもそうだ。アカデミーの頃からフェイスはよく気が回る。面倒事を回避するためでもあるだろうが、今回はおそらくきちんと相手を気遣ってのものだ。

「ヴィクターさんといても今のところ変な手紙が来たりとか、誰かに脅されたりとかはないけど……フェイスと一緒だとそういうこともありえるのかしら?」

ヴィクターのファンに会ったのは片手で数えられる程度で、熱心に話をまくしたてられようが、おそるおそるサインを求めようが、その誰もに彼は「ありがとうございます」と礼を述べ、サインであれば願いに応じるくらいだった。
運がいいのか何なのか不明だが、ファンがアイリーンに話しかけたことはない。探るような目線を向けられたことはあるけれど。

「今まで来てないんだ? なら、まぁ大丈夫……かな」
「もしそういう危ないことがあったら言ってネ、センセー。何とかするよ。――――ヴィクターパイセンが!」

急に話を振られたヴィクターが目をしばたたかせる。

「私ですか? 確かに事実と異なることを広められても困りますが……アイリーンに被害が及ぶのは忍びないですからね。何かあったら仰ってください」
「ありがとうございます」

言葉だろうが暴力だろうがヴィクターに敵う人間はそうそういないはずだ。ヴィクターの微笑に安心していると、ビリーも明快に言った。

「俺っちも依頼してくれればお安くするよ〜。アイリーンセンセーにはアカデミー時代主に単位で助けてもらったし!」
「そこはタダで助けるって言いなよ」
「キャンディ買うくらいのお値段だし、オイラ的には実質タダだってば」
「ふふ、ビリーもありがとう」

軽い調子だが、お金にシビアなビリーが「実質タダ」と言うくらいなのだから、ビリーなりの優しさだろう。

笑った後に視線を下げると、ヴィクターの足下が湿っている。アイリーンは慌てて頭を下げた。

「ごめんなさい、ヴィクターさん。ずっと濡れたままで放置してしまって……」
「水に塗れた程度で風邪をひくほど柔ではありませんから、問題ありませんよ」

耳につけていたインカムのボタンを押す。すると、瞬きの間に水を吸って重そうだったヴィクターの服は白と紺を基調とした服に、髪も乾いて何故か三つ編みに変化した。
ニューミリオンには特殊能力を持ったヒーローがいて、他の地域からすれば不可思議な原理でしかないが存在する時点でSFのような街だ。とはいえ、アイリーンはヒーローと【サブスタンス】や【イクリプス】の戦闘に遭遇したことも、直接害を被ったこともない。ニューミリオンに十年以上住んでいながら、現実離れしたような現象を目の当たりにするのは初めてだった。改めて、現実――――ニューミリオンはフィクション小説よりも変わっているようだ。
驚愕と同時にエリオスの技術に感動し、アイリーンは小さく手を叩いた。

「HELIOSの技術って本当にすごいんですね。私、化学とか物理学とか天文学とか、自然科学はともかく機械工学みたいな応用科学はさっぱりで……空中元素から服を作っているのも加味すると……。うーん、どういう原理なのかしら」
「先程は言いそびれましたが、よろしければご説明しますよ。まあ、機密に関わらない程度の簡単なことしか教えられませんが」
「いいんですか?」

ぱっとアイリーンは目を輝かせる。ヴィクターの話は知的好奇心を刺激されて楽しい。
アカデミーの頃によく聞いたビリーの話題も尽きることなく、つい吹き出してしまうほどだった。ビリーの話しぶりもいいが、想い人であることを除いてもアイリーンにはヴィクターの語り口の方が面白く感じる。

にこにこと話すヴィクターとアイリーンから若干距離を置いたビリーがぼやく。

「ねー、DJ。やっぱりオイラたちってお邪魔虫?」
「あの二人、少なくとも今はお互い意識してるって感じじゃなさそうだし、気にしなくていいんじゃない?」
「そうかなぁ。まぁ、いっか。……ヴィクターパイセン、アイリーンセンセー! 二人で盛り上がってないで、早く行こ〜」
「えぇ」
「ごめんなさい、ビリー。今行くわ」

歩き出したビリーとフェイスの後ろをヴィクターとアイリーンがついていく。三人の足取りはゆっくりとしていて、歩幅が大きく違うアイリーンでも焦らずに済む。

アイリーンは隣に並んだヴィクターの横顔を盗み見た。ターコイズブルーの瞳は喜びで光っていて、形のいい薄い唇は高揚で口角が上がっている。宝探しで宝を見つけた少年のような表情が、アイリーンは好きだ。まるで自分のことのように喜びを享受する。

――――銀河の中を歩いているみたいな日々が続けばいいのに。

まばゆい光がそこら中にちらばっていて、その強く透明な光を吸い込んで心の中を灯す。たとえいつか想いを無下にされたとしても、誰かの想いに負けてしまうとしても、その光には価値があったと思い返すだろう。

だから、薔薇の花が咲いていて、キツネがそばにいるうちが一番幸せであることに、アイリーンはまだ気付いていなかった。