外とは異なり冷房が効いた涼しい執務室で、肋角は椅子に持たれかかった。上から渡される退屈な書類を相手にすると疲れも溜まっていく。仕事も一段落した。最近気に入った葉巻を咥えて火をつけ、ニコチンを堪能する。煙を吐き出せば独特の匂いが鼻を刺激していった。
――――強くなりたいんです。
そういえば、そう言った子供がいたのも、同じように暑い日だった。
あの日も太陽が近づき肌を焼け爛させるような熱気だった。閻魔庁の帰りに三途の川へ寄った肋角は、ある子供を見つけたのだ。東の人間には珍しい、白銀の髪と碧の髪。顔以外は痣や怪我だらけの小さな体で、けれどもしっかりとした足取りで三途の川の橋を歩いていたものだから、獄卒の見込みがあるのではないか。そう考え近寄ってみた。突然現れた自分よりも大柄な男に声をかけられても子供は身じろぎひとつしなかった。勧誘すれば子供に思えぬほどひどく冷えた眼差しで問うた。
――――強く、なれますか。
――――何故だ?
――――誰にも負けないくらい、何をされても泣かないくらい、強くなりたいんです。できれば、この姿のままで……強くなりたいんです。
すでに精神的な面では子供の理想に達しているように思える。こんな小さな存在が何にも怯えぬような在り方を願い、そして心の強靭さを持つに至った過去はどんなものだったのか。少しだけ興味が湧いた。その志を気に入り、獄卒にしたのだった。
ずいぶんと懐かしい記憶だ。少しだけ意識を遠くに飛ばしていると、誰かが近づく気配を察知する。数十秒後にはきびきびしたヒール音が耳に入り、そして丁寧なノックの後、どこか機械的な声がした。
「賀髪です。今お時間よろしいですか?」
「ああ。入れ」
「失礼します」
賀髪は小さく礼をして肋角へ歩み寄る。長い髪と同じくまっすぐ背筋を伸ばす様は夏の暑さとは真逆の佇まいだ。この熱気では鬱陶しそうな髪も冷たい銀色をしているせいか、賀髪の周りだけ涼やかな空気が流れている気さえする。
「先日捕獲した亡者の件と商店街の飲食店で起きた乱闘騒ぎの報告書です」
「ご苦労」
美しさより無機質さが際立つ字が並び、理路整然とした文章を眺める。内容を把握した後机に置き、反応を待つ部下へちらりと目線を向けた。瞳の奥底には怯えも弱さもなく、むしろ賀髪の名を与える前よりもさらに強固になっている。意志の強さと体以外変化が見えない。
肋角は薄く笑みを浮かべ、椅子に腰を深く預けて腕を組む。
「今日はもう急ぎの用もない。休め」
「手伝えることがあれば請け負いますが」
「助かるが、上からのつまらん書類しかないな。さすがにやらせるわけにはいかん」
そうですか。安堵も落胆もせず淡々とした返事。部下は気だるげだったり元気と明るさだけは有り余る返答だったりするので気に留めない。
そのまま立ち去るものかと思っていた賀髪が口を開く。次にくる言葉の予想はつく。
「肋角さん。何度もお願いしているんですが、谷裂さんと組ませるのだけはやめてもらえませんか?」
何十回、いや何百回、何千回何万回と耳にした抗議。普段なら検討して受け入れるのだが、こればかりは何事もなかったかのようにしている。
谷裂と賀髪の言い争いは絶えず気は合わないくせに息は合う。二人で組ませると何日かかると踏んだ仕事も翌日には戻ってくる。お互い二人だけで長時間いたくないからだけでは成せないだろう。嫌だ変えてくれと言いながらも任務を放棄したり散り散りになってあたったりすることもないのが二人らしかった。その後は口を揃えて「もうやめてほしい」と抗議するのだが。
肋角はまだ残っている葉巻を咥える。賀髪の眉が少し動いたが、無視して肺に吸い込む。紫煙を吐き出すと真一文字に結ばれていた口の端が下がった。
「俺の采配が間違っていると?」
「……」
肯定も否定もできずに賀髪は沈黙する。ここまで動作含め、毎度寸分違わぬやり取りだ。
肋角は陽炎が揺れる窓の外へ視線をやった。空は広く爽やかすぎるくらい晴れ晴れとしている。誰かの笑い声が遠くから聞こえてきた。遅れて叫び声があたりに響く。何年も変わらぬ屋敷の日常だ。それからゆっくり赤い瞳を賀髪へ戻す。冷たく、けれど美しい瞳には肋角が映っている。とうの昔、獄卒に誘った少女と同じ瞳。
「俺の見解ではお前たちは変わったと思うが。どうだ?」
「何も変わってないと思いますが」
寸分の間も入れず、賀髪は若干眉間に皺を寄せる。
「あいつにも良いところはある。お前も他人の長所を短所に捉えてばかりいるような奴ではないだろう。禁欲的で真面目なところはお前にとって好ましいはずだが」
特に毎度勤務態度に不満を抱いている平腹や田噛でも労をねぎらったり、褒め立てたりすることもある。目が合えば最終的に武器を取り出すような谷裂であれ、それは同じはずだ。苦手だから嫌いだからと全てを認めないほど浅慮でもない。
肋角の投げかけから音はない。蝉の鳴き声が暑さをかきたて、再び部屋を浸食する。凍った氷が溶けたように、賀髪の瞳が少し揺れた。
「………………そうですね」
時間をかけた返答。葛藤が見える眼差し。よほど口にしたくないらしい。
「自分に厳格で、実力に驕らず努力する点は谷裂さんの美徳でしょう。彼自身はともかく、強くありたいという努力を笑うようなことはしたくありませんので。……かと言って鍛錬ばかりなのはどうかと思いますが」
だが、こんなにすらすらと谷裂を褒める賀髪は初めてだった。少なくとも谷裂への好意的な言葉はかけたとして一言二言で終わっていたはずだ。自身も居心地が悪いのか、最後に一言添えてバランスを取っている。
「それを口にしてみたらどうだ」
「そんな言葉をかけたところで谷裂さんが機嫌を良くするわけでもやる気を出すわけでもないでしょう。賞賛が欲しくて鍛えているわけでもないですし」
よく分かっているじゃないか。言おうとしたところでまた葉巻を咥えて吸い込んだ。谷裂と賀髪は、斬島と佐疫のように親友でもなく平腹と田噛のように相棒でもない。理解しているから何だと波立つだけだ。まっすぐ肋角の赤い瞳を見つめる髪が美しい獄卒は、あくまで事実を述べているだけだと言わんばかりだった。
「五臓六腑ぶちまけて死んでほしいですが――――そういうところは、嫌いではありません。自分の求める目標があり、それを成そうとする向上心と折れぬ強さは、信頼できます」
今度は迷いも嫌悪もない。その眼差しや声色には真摯さと誠実さ、谷裂という男への敬意や信頼すら感じられる。好きと嫌いではないの差は大きい。とはいえ、常に生理的に谷裂へ無理です死んでくださいと口にしている賀髪からすれば、最大の譲歩であり好意であり賞賛なのだろう。
「そうか」
肋角は目蓋を閉じて薄く微笑んだ。
夕方もうだるような暑さは続く。空にはまだ青が残っていたが、アブラゼミからヒグラシに鳴き声が変わっている。冷えた部屋にいるとはいえ喉が渇く。頼むにもキリカとあやこはそろそろ帰る時間だ。休憩にもちょうど良い。
執務室を出て一階へ降りる。外ほどではないとはいえ、館の廊下は熱気がこもっていた。館の敷地内には誰もいないのか、部下たちの談笑もギアラの歩く重音も何者かが暴れているような騒音もなく静まり返っている。
そんな中、声が聞こえた。鍛錬場からだ。執務室から鍛錬場は少し距離があるが、肋角には外の蝉の中から音を拾うくらい造作もない。聞き覚えのある声なら尚更だ。
「二百三十五、二百三十六、二百三十七、二百三十八、」
鍛錬場へ足を向ければ、谷裂が腹筋をしていた。何故か冷房もつけずに運動しているせいで汗が滴り床に溜まっている。傍に大きな水筒もあるものの、鬼気迫る表情に引っ張られて部屋も地獄のような熱気に包まれている。このままでは熱中症で倒れそうだ。
「精が出るな、谷裂」
「二百四じゅ、……肋角さん!お疲れ様です」
声をかけられてようやく谷裂が肋角に気付き慌てて立ち上がった。そして九十五度きっちりと腰を曲げる。
「鍛えるのは良いが、冷房くらいつけたらどうだ。さすがのお前でも倒れるぞ」
「そ、そうですね。忘れていました」
この暑さで忘れることは難しいように思うが。切羽詰まっていたのか何か別のことに思考を囚われていたのか。谷裂は取っている水分以上の汗の量、赤らんでいる顔。どちらにせよ休んだ方が良い。
「とにかく、鍛錬するにしても少し休め。それに手に怪我もしているだろう」
力を入れて握り潰していたらしく、谷裂の掌は血で滲んでいる。獄卒にとってすぐ治る怪我だが治療した方が当然治りも早い。
肋角の言葉に谷裂は目を泳がせた。
「いえ、これは……その、賀髪にまた嫌味を言われまして。奴を殴ろうか殴らないかで拳に力を入れすぎたせいかと……」
拳は傷ついておらず壁や床に傷や穴もない。いつもなら躊躇なく殴りかかっているはずが耐えきったようで、肋角はほうと感心の声を漏らした。
「珍しいな。すぐに殴る蹴るに走るお前たちが」
「鍛錬すると言ったところで奴が下がったので……。余計な一言もありましたが、努力する者の邪魔はしないと」
言われてみると、訓練として妨害しても内容を無視して攻撃したりなどはしない。誰かが鍛錬しているところで声をかけてもすぐに立ち去っている。努力そのものを笑うことはしない、と言った通りだ。
「そうか。賀髪らしいな」
昼の言葉を思い出し、口角を上げた。そして同じ問いを谷裂に投げかける。
「どうだ、谷裂。出会った頃より多少賀髪の印象は変わっているんじゃないか」
「…………はい。多少は、ですが」
幾分か遅かったものの、谷裂は素直に頷いた。
「任務に対する姿勢は、勤勉でしょう。当然といえば当然ですが」
言いづらそうに、けれどしっかりと常日頃感じているものを連ねる。
「それに、以前奴は負けぬと言いました。信条や決意を折ることは絶対しないと」
何をされても泣かないくらい強くなりたい。あの頃の記憶をたとえ忘れているとしても、魂の奥底に刻まれているらしい。その通り、獄卒としての、女としての尊厳を踏みにじられたとしてやり返すだけの強靭な精神がある。無論他の獄卒たちも貧弱な者ではない。賀髪自身が勝ち負けを決めているだけだ。
谷裂は淀みなく言の葉を紡ぐ。
「野干吼処の炎に焼かれて死んでほしいですが――――そういうところは、好ましい、かと。何者にも媚びぬ心持ちと、折れぬ強さは、信頼できます」
最初から迷いも嫌悪もない。その眼差しや声色には真摯さと誠実さ、賀髪という女への敬意や信頼すら感じられる。嫌いだの鬱陶しいだの常に口にしている谷裂からすれば、最大の譲歩であり好意であり賞賛なのだろう。
「そうだな。それがあいつの良いところだ」
肋角は満足げに目を細めた。
避けられぬ面倒な用事で赴いた閻魔庁への帰路。後ろには連れてきた谷裂と賀髪が並び、無言で歩いている。それだけなのにやたら重苦しくひりついた空気だが、いつものことなので気にしない。
「皆に土産でも買って帰るか」
「「はい」」
同時に頷いて同時に視線を交わす。刹那、周囲の重力が強くなり圧がかかる。だが、肋角がいるためか、二人ともすぐにそっぽを向くように顔を前へ正し、元の空気に戻った。
獄都商店まで道なりに歩く。炎暑にもかかわらず街はいつも通りの賑わいで、鬼や一つ目、河童に猫又、傍目から生き物に見えない球体など様々な住人が跋扈している。特にかき氷、酒を含んだ冷たい飲み物が売っている店に住人が群がっていた。
「冷たいものにでもするか。お前たちは何がいい?」
後ろにいた谷裂と賀髪に視線を投げかける。
「あちらに売っているかぼすジュースとかどうですか? さっぱりしていて夏に良いかと」
「かぼすか。それならそのまま買った方がいいだろう」
「食べ物にすると平腹さんや斬島さんあたりが全部平らげますよ」
「飲み物でも変わらんだろうが」
「ボトルで買っておいてコップに注いでおけばまだ管理できるでしょう」
黙る谷裂。肩をすくめる賀髪。
賀髪の意見を汲んで飲み物にするか――――と、口を開こうとしたところで、急に肌寒くなってきた。いや、肌寒いどころではない。寒い。空は曇で覆われ、風は強くなり、ぬるく湿った空気は乾き、突然雪山にでも放り投げられたようである。
この程度耐え切れるが、他の住人は堪ったものではないだろう。当然住人たちは突然の異変に騒然となっていた。肋角たちが原因は何かと辺りを見回していると、
「たっ、助けてくれ!」
悲鳴が上がった。叫んだ首無の男が脇目もふらず走っている。首無男が通り過ぎた途端、さらに気温が下がり吹雪いてすらきた。
「さ、寒い……さっきまで暑かったのに、凍りそう……」
「おい、あの雪女の仕業じゃねぇか!?」
逃げ惑う住人たちの視線を辿る。そこには首無男を追いかけるように一人の雪女が歩いていた。長い黒髪、白い着物に赤い帯と一見普通の雪女だ。しかし、前髪に隠れて表情が見えないが口元は弧を描いていた。
雪女が歩くたびに寒さが増し、氷柱が生まれている。このままでは八寒地獄の摩訶鉢特摩と同じ景色にすらなりそうだった。
「おい、そこの獄卒! あいつどうにかしてくれ!」
傍にいた狼男が怒りと懇願が混じった声でがなり立てる。この場にいなくとも五分もしないうちに特務室に回ってきただろう。
「谷裂、賀髪。首無男と雪女を捕まえろ」
「はっ」「はい」
命令の直後、二人が同時に動き出す。谷裂が首無男、賀髪が雪女。相談などせずとも役割ができていた。
賀髪は吹雪をものともせず雪女へ向かう。雪女を糸で捕縛する。雁字搦めにされても雪女は不気味な笑みを張り付けたままだ。対する賀髪の表情は吹雪よりも冷たい。捕まえても吹雪は止まない。そのまま引っ張る。近づいて来たところで容赦なく腹を蹴る。一見細い女の脚から出たとは思えない重く鈍い音が辺りに響いた。
「うぁっ、」
躊躇なく蹴飛ばされた雪女は地面へ膝をついた。腹の中と血を吐き出していようが気遣わず、賀髪は標的をさらに締め上げている。
吹雪が止む。先ほどまで雪山の景色へと様変わりしていたが、太陽が現れて再び熱暑に戻っている。とはいえ、雪女の氷は太陽で単純に溶けるものではない。近くにいた不運な住人は足や半身、ひどいものは全身氷漬けにされている。遠くの道も同じような風景が広がっているはずだ。
同時に谷裂も首無男を引きずって戻ってきた。谷裂の手にある男の後頭部に大きなたんこぶがある。血は流れてない。金棒ではなく拳を使い、それでも手加減したようだ。あの谷裂の拳を受けてたんこぶで済んだだけましだろう。
元に戻った安堵や捕まえた二人へ礼を述べる声と雪女への不満の声が上がる中、土から雪へ変わった道をしっかりと踏みしめ、肋角はまず優秀な部下を労わった。
「ご苦労。二人とも、さすがだな」
「「ありがとうございます」」
またも口を揃え、火花が散る。今にも争いを始めそうな部下を無視して雪女へ声をかけた。
「そこの雪女。意識はあるか?」
雪女は目だけこちらに向ける。名に似合わぬ、熱を持った暗い眼が黒々とした髪の隙間から覗く。
「……どうして邪魔をするの?」
瞳とは反対に純粋な疑問の音をか細い声に乗せた。
「邪魔と言われてもな。罪人なら構わんが、さすがに住人を氷漬けにしていては対処せざるをえない」
「私……あの人を殺そうとしただけなのに」
本当に大した意味を持たないかのようにさらりと言った。ずいぶんと過激な告白だ。
「器物破損、凍傷被害どころか殺害までして罪を重ねるつもりだったのか」
「止められて良かったですね」
「ふむ。何かこの男に恨みがあるのか?」
「恨み……? 恨みなんかないわ。だって私、どうしようもなくあの人のことを愛しているの。ずうっと私といてほしいくらい愛しているわ! ――――だから、殺そうと思ったの!」
愛。家族友人恋人夫婦ペット、様々な関係に通じ、優しくあたたかく時に甘い感情であるそれ。もちろん話の雪女が抱いていたように仄暗く湿っていて粘ついたものでもある。しかし、通常愛と言われれば前者や想定するだろう。
愛しているからずっといてほしい。だから殺そう。そうすれば自分のもの。独占欲、愛憎、盲従、依存、それらが混ざった発想は人間も妖怪も神であっても古からある話だし、現在に至るまで対応させられる事例だ。現にそんな考えを持った雪女が目の前にいる。
愛は罪か、是非は問えない。ただ、今回は妄執に囚われて他者の命を奪おうとしている。罪があれば罰があるものだ。人間であっても亡者であっても妖であっても、何者であっても。
「そういうのは二人きりでしてくれませんか。仕事が増えるので」
「全くだ。勝手にしろ」
谷裂と賀髪が冷淡に言い放つ。肋角も同じ意見だ。
さっさと別の部署に引き渡して処罰を任すか。早く来い、本庁のは仕事が遅い。内心毒づいていると、雪女は三人の態度を気にせず興奮した様子で尋ねる。
「だってそうでしょう? 好きな人と共に在りたいでしょう? もしかして、貴方たちってそういう存在がいたことないかしら?」
偏執的な愛に取り憑かれる雪女はようやく顔を上げて微笑んだ。その笑みは淑やかで清楚で、けれども妖しい色気があり、何も知らなければ見惚れていた者もいただろう。だが、肋角も谷裂も賀髪も冷淡に見下ろすだけだ。
「ありません。言葉通り殺したいほど死んでほしい方ならいますが」
「俺は獄卒だ。そんな奴いるわけがなかろう。不愉快で殺したい女ならいるが」
賀髪は不機嫌そうにため息をつき、谷裂は忌々しそうに顔を歪ませた。反対に爛々と妖しく輝いていた雪女の瞳が明るい光へと変わる。
「まあ! ――――じゃあ、貴方たちはその人のことを愛しているのね!」
ぴしり。空間が歪んだような音がした。
谷裂は困惑と不快が混ざった表情を浮かべている。賀髪に至っては吐き気を催して眩暈と頭痛が襲っているのか、ただでさえ血色の悪い肌が青白く変化していた。
普段から互いの脚を踏みつけ頭を壁にぶつけ腕をもぎ取ろうとしているのに、愛と断じられては悪寒が走り我を忘れそうになっているのも納得だ。
「仲がいい」、投げかけられることは多い。それだけの言葉で口に発した相手は二人によって意識を失うことになるか、二人の声が荒々しくなる。恋い慕う情の意味を含めた「好きなのではないか」。少なくとも肋角が知る範囲でそんなことを尋ねられていたことはない。
「嫌いなら無視すればいい。でも殺したいほど嫌いなら好きなのでは?」そういった天邪鬼のような考えか。この雪女の思考に基づけばそうなるのは筋が通っている。前後関係の繋がりは見えないが。
谷裂が雪女へ鋭利な眼差しを向けて言う。
「この女に愛だと? もしそうだとするなら――――そんなもの、野干にでも食わせた方がましだ」
紫の瞳が噛みつくような光を帯びる。
そんなものではないと。優しくあたたかく甘く、暗く湿っていて粘ついたものではないと。そういうものにするなと、言っているようにも見えた。
賀髪も深呼吸して意識を元に戻す。そして、碧の瞳が同じように光る。
「全くです。私は死体を飾って愛でる趣味もありませんし、野干どころかそこらへんの虻にでも食べさせます。それに――――そういった言葉で片付けるのは、私と彼に対する侮辱です」
愛というものを馬鹿にしているわけではない。けれど、別のものだと。何も知らない者が勝手に決めつけるなと。そう拒絶しているようだった。
目から放たれる軽蔑はひどく凍っていて、直視されたら傷を負いそうなほどだった。その冷たさを一心に受ける雪女も目を丸くしている。冷え冷えとした眼差しに一瞬正気を戻したのか、濁った目が少し光った。
肋角は笑みを浮かべ、閉ざしていた口を開く。
「谷裂、賀髪。そこまでにしておけ。本庁の獄卒に後を任そう。……ああ、ちょうど来たな」
本庁の制服を着込んだ獄卒たちが向かってくる。文字通り縄についた雪女と首無男を引き渡し、ついでに街の修復対応を手伝えと言われるものかと思っていたが、簡素な質問に答えた後に解放された。上の機嫌が良いのだろうか。いつもこうなら良いのだが。
これにて一件落着――――といきたいところだが。ちらり視線を移動させれば、凍ったために病院へ運ばれていく住人、つもりに積もった雪を前に悩む獄卒と住人が目に入る。
「こうなってはさすがに土産は買えんな」
「たまには我慢させておきましょう。……それにしても、ありえないことを言われて気分が悪いです」
「それは俺も同じだ。あの雪女、気色悪い言葉を使いおって」
二人が不快感が頂点まで高まった顔つきでぼやく。肋角にとっては面白いものが見れて胸の内が満たされているが、当然のことながら谷裂と賀髪はきむしりたくなるほど激しい怒りがこみあげてきているはずだ。何も聞かなかったことにして歩き出す。
「二人とも、帰るぞ」
「「はい」」
また声が重なった。しかし睨むような気力もないようで、そのまま後ろから二人がついてくる気配がした。
犬猿の仲、水と油、不戴天。ひどく仲の悪い間柄、憎悪の入った関係はそんな風に呼称される。閻魔庁外部機関である特務室にも、そんな男女二人がいた。
「賀髪、貴様また余計なことをしおって。あれは俺一人で十分だったろう」
「あのとき私が援護しなければ貴方今頃片足なくなっていますよ。別に私は貴方の腕がなくなろうが頭が潰れようがどうでもいいですけど、あれで歩けなくなっても困りますので。谷裂さんみたいな筋肉で重い方、引きずりたくないですし」
「あの程度で足がなくなるほど柔な鍛え方はしとらん。そもそも引きずるどころか放置するだろうが貴様は!」
「そうですね、放置します。でもそれは谷裂さんもでしょう?」
「当たり前だろうが。一人で帰って来い。むしろ帰って来なくていい」
寸分の間もなく繰り返される会話。紫の瞳と碧の瞳は鋭利な眼差しを交えて離さない。目を逸らしたら負けだと言わんばかりだ。今すぐお互い様掴みかかろうとするのが分かるほど剣呑な空気が流れている。
二人に気付いた同僚たちは平然とそれを眺めている。
「谷裂と賀髪、朝帰りか」
「夜行ったみたいだからね。にしては元気だけど……」
「よくもまあ飽きずにやるよな……。とばっちり受けなきゃ何でもいいが」
「今日の飯何かなー。ステーキ食いてえ!」
「あ、朝からステーキ食べるの……?」
「あはは。今日も平和だねえ」
何も変わらないような光景に、青碧の目をした大きな獄卒は愉快そうに笑うのだった。