今日の夕飯当番は斬島と佐疫だ。でも今は夕飯の準備すら早い夕方。それにまだ二人は任務から帰ってきていない。それでもあと数時間後には何が食えるだろうと腹を鳴らしていたのだが、耐えかねて平腹は冷蔵庫を開けた
「何もねえ!」
冷蔵庫の中身は空っぽだった。顔を突っ込んで覗いてみても冷凍庫も野菜室を見ても何もない。あるのは牛乳とジュースだけだ。飲み物だけで満たされるほど平腹は少食ではない。
これは身の危機である。このままだと餓死してしまう。別に獄卒は死なないがきついものはきつい。特に平腹にとっては。
焦った平腹は談話室まで走った。乱暴に扉を開ける。目当ての人物はソファを広々と使って寝ていた。制帽をアイマスク代わりにして光をシャットアウトしている。しかし、田噛が眠りの世界で心地よくしていようと平腹には関係ない。というかもっと重要な案件である。
「田噛! 冷蔵庫何もねえ!」
間違って放送が大音量で流れてしまったスピーカーのように叫ぶ。それでも平腹は微動だにしない。田噛が起きないのはいつものことである。だが今は起きてほしい。
「なあなあ、オレ腹減った! 田噛何かある!?」
地震が起こったのかというほど田噛の体を揺らす。これでも起きないならシャベルで殴るか。そう思っていると、
「うるせえ」
拳が顔にめり込んだ。吹っ飛ばされて背中が壁にぶつかり、さらに反動で床に顔面が直撃した。痛い。しかし今はそれもどうでもいい。
「食いもん何もねえ!!」
「お前の頭ん中、食いもんのことしかねえのかよ」
「ちげーし! でも今は腹減った!」
むっとして反論すると疑わしげな眼差しをむけられた。それからけだるげに息を吐き、ようやく上半身を起こした。
「今日の当番が帰ってきたら頼むか、お前が買いに行きゃいいだろ」
「あ、そっか。じゃあ肉買ってくる!」
そうか、自分で買えばいいのか。そう考えたらテンションが上がってきた。今平腹の財布は寂しいことになっているが、買い出し用の金は共用だ。どうせ皆食べるし使えばいい。一人で行くより二人の方がいい、単純にそう思って平腹は田噛の腕を引っ張った。
「田噛も行こうぜ!」
「パス」
即答された。それも思い切リ渋い顔で。田噛のことだから予想はしていたが、それでも平腹はめげずに田噛をソファから引きずり下ろす。いてえ、と何か聞こえたが無視した。そのままずるずる引っ張っていると田噛が抵抗し始めた。
「何だよー、行こうぜ、何もねーし!」
「それはお前が昼の手巻き寿司に冷蔵庫にあるもん何でもかんでも入れて食ってたからだろ」
「ほ? そうだっけ?」
全く覚えていない。昼は手巻き寿司だった記憶はある。牛肉や刺身は美味くて何本も食べた。ただ、チョコレートや果物は上手く飲み込めずに吐いた。美味いものと美味いものを合わせれば何でも合うと思ってやったのだが。
きょとんと頭上にクエスチョンマークを浮かべて返せば、温かい色であるはずの橙は冷え切っていた。
「喧しいぞ。何を騒いでいる」
芯までまっすぐ通った硬い重低音。振り向けば、いつも通りの仏頂面と鋭すぎる眼光。谷裂だ。
「谷裂も肉買いに行こうぜ!」
「肉……?」
谷裂はただでさえ不機嫌そうな顔をさらにしかめたところで、ああと声をこぼした。
「確かにお前が食い散らかしたせいで何もなかったな。いいだろう、付き合ってやる」
「お、やった!」
人手確保。このまま三人で行けばそれなりの量は買い込める。せっかくだし食べたいものを買ってきて作ってもらおうか。なら焼肉か? そう考えていると、一向に立ち上がろうとしない田噛が言う。
「谷裂がいるなら俺はいらねえだろ。離せよ」
「馬鹿なことを言うな。ここに何人いると思ってる。俺と平腹のみで行ってもそんなに買えんだろう。明日何度も買出しに行かせるのかと小言を言われるぞ」
館には女も何人かいるものの、やはり男が多い。しかもよく食べる奴らばかり。材料は基本キリカとあやこが買ってくるとはいえ、いくら半身半蛇と二口女でも持てる量に限度がある。平腹たちも買出しにはいくが、やはり日中は本業もありタイミングが合わないことも多い。それでも田噛は諦めずに続ける。
「だったらリヤカーでも何でも使えばいいだろ。それとも斬島たちでも待ってろよ」
田噛の言葉に谷裂が反論しようとしたところで、煙草の臭いがした。館で煙草を吸うのは一人だけだ。
「お前たち、こんなところで何をしている?」
肋角を視界に入れた途端、谷裂が姿勢を正し頭を下げた。
「お疲れ様です」
「冷蔵庫何もねーから、食いもん買いに!」
平腹は何もせずに質問だけ答え、田噛は上司の前だというのに起き上がりさえしない。むしろ天を仰いでいる。
「そうか。なら煙草も買ってきてくれ。三人とも頼んだぞ」
三人とも、ということは田噛もということで。視線を下に下げればようやく田噛が立ち上がった。いつも少し猫背気味なのに、肋角の前だからかまっすぐに立っている。
「……分かりました」
それでも表情はかなり憂鬱そうだ。器の広い肋角は何も言及せず満足そうに口角を上げた。そのまま三人を通り過ぎる。
「行くか!」
返事の代わりに舌打ちが聞こえた。
獄都商店街。食べ物や酒といった飲食類や日用品から何に使うのか用途が不明なものまで、様々なものを取り扱っている。人間でいうスーパーや専門店など店は豊富で、大抵のものは揃うのでここで買うことになっている。
田噛が乗ったリヤカーを引いていれば目的地が見えてきた。同時に、何か輝いている布が視界に入った。いや、よく見れば布ではない。髪だ。凪いだ銀髪から一瞬獄卒の服と同じくすんだ深緑が覗いた。
「あれ、賀髪じゃね?」
そう言うと、隣にいた谷裂の目つきがいっそう険しくなった。
谷裂と賀髪は仲が悪い。見ただけでこうやって空気が荒れるくらいには。平腹からすれば、内容はともかくよく話しているし、仕事も一緒だしでそんな風に全く見えないのだが。
獄都商店の前まで来るとやはり賀髪で間違いなかった。声をかけようと口を開く。
「本当にありがとうございます。助かりました」
その前に柔らかい女の声に遮られた。賀髪ではない。よく見れば賀髪の前に知らない女がいる。人型で赤い肌をしており頭に角が生えているが、同じ獄卒ではなさそうだ。道案内でもしたのだろうか。それだけで感謝を述べるには女の目が何だか溶けている。対する賀髪の目はやはり冷えているものの、何だかいつもと違う。本当に少し、わずかではあるが、目元が優しい。ような気がする。そういえばキリカやあやこと話すときも顔はほんの少し穏やか、そうに見える。平腹になんて腐った生ごみを見るような眼差しに、まさに言葉の刃と呼ぶにふさわしいくらい刺々しい口調のくせに。
「いえ、大したことはしていませんから。貴女にお怪我がなくてよかったです」
そう言われても女は何度も頭を下げ、ようやく賀髪から離れて行った。見送るように振り向いた賀髪が三人を――というよりおそらく谷裂を見た瞬間、先程まであった(ように思えた)優しさが消滅した。
「阿呆三人で買い物ですか?」
「誰が阿呆だ!」
「ちげーし!」
「こいつらと一緒にすんな」
三者三様の否定にやはり冷え冷えとした目のまま続ける。
「冷蔵庫の中身を食べ尽くしたり、執務室の窓を野球のボールで割ったり、上手くサボろうとしたら人選を間違えて逆に始末書を書く羽目になったような方々を阿呆と呼ばずして何と呼べばいいんですか? 馬と鹿ですか?」
「オレ馬でも鹿でもねーし!」
「バカって言われてんだよ馬鹿」
田噛に突っ込まれた。そうなのか。驚いているともはや賀髪の目が人間なら殺せそうなほど冷たくなっていた。不安や哀れみも入っているようにすら見える。もう一度深々とため息をつく。それからもう用はないとでもいうように、三人の間を通り抜けた。無視して帰るらしい。
「おい、買出しと言ったろうが。手伝う素振りも見せんのか、貴様は」
背中を向けた賀髪へ、谷裂が声を荒げて引き留める。立ち止まった賀髪は視線だけ投げた。
「手伝う振りでいいんですか? それならやりますけど」
「そんなわけあるか!」
「男性三人にリヤカーまであるんですから私はいらないでしょう。どれだけ買い込むつもりなんですか。というか、鍛えているはずの体は飾りなんですか?」
「飾りかどうか、貴様の体で確かめてやっても構わんぞ」
店の前にも関わらずいつもの応酬が始まった。とはいえ、今のところ口だけで済んでいる。一応店の前だからだろうか。大体五分もすると蹴ったり殴ったりしだすのに。ついにお互いの息がかかりそうなほど顔を近づけている。この調子なら顔に唾でもつきそうだ。
すでに置いて行かれた平腹と田噛は、二人が言い争う様を若干遠巻きに見ていた。田噛に至ってはリヤカーの中で寝る体勢に入っている。
「なー、田噛」
「何だよ」
「やっぱ谷裂と賀髪って仲いいよなー」
そうとしか思えない。好きとか嫌いとか平腹にはいまいち理解できないが、嫌いなものをわざわざ持ってきて食べようなんて思わない。それに喧嘩するほど……なんとか、なんて言葉を誰かが言っていたし。意味は忘れてしまったが谷裂と賀髪にぴったりだったような気がする。
なー? 相棒に同意を求めれば、
「馬鹿、」
そう言われた瞬間、ぷつんと意識が暗くなった。
平腹が馬鹿な発言をしたせいで倒れた。
「仲がいい」なんて谷裂と賀髪に言えば、怒りの矛先がこちらに向かう。館の獄卒たちとって禁句なのである。だが、平腹はすぐに頭から色々なものが抜ける馬鹿なのでたびたび口にしては二人に殴られたり刺されたりしている。そのせいでなおのこと記憶力や知識が消えているのではないかと田噛は推測していた。
そもそも目を合わせたら口論どころか腕を潰そうとしたり目を抉ろうとしたりすらするような奴らのどこに「仲良し」要素があるのか。全く意味不明だ。
はあ。倒れている平腹を見下ろし、田噛は深々とため息をつく。そしてゆっくりと起き上がった。
「おい、賀髪。お前のせいで荷物持ちが減ったんだからお前も手伝えよ」
「……分かりました。付き合います」
多少の責任は感じているのか、間を置いて了承する。
意識のない平腹をリヤカーに乗せ、店の前に移動させた。
「私は野菜を選んできますから、貴方たちは肉や魚を持ってきてください」
「待てよ。リヤカーの番が必要だろ。俺は残る」
「どうせ貴様はそのまま寝るつもりだろう。そうはさせんぞ」
「そうですよ。リヤカーのことも心配ですが、寝て番にならないので谷裂さんと一緒にいてください」
見透かされていた。真面目二人が。これが斬島か平腹あたりならそうかと騙されてくれるのだが。田噛は不機嫌に舌打ちする。
いつもは気が合わないくせにこんなときばかり連携がいいのか不思議でならない。本当にわけのわからない奴らである。
スーパーに入り、二手に別れる。中はろくろ首や獣人、蛇に正体不明の生物など様々な種が混在していた。
「肉と魚か。何にするか」
「日付だけ見といて適当に買えばいいだろ。日持ちしねーやつばっか買っても仕方ねえし」
「それもそうだな」
谷裂はふむと納得しながら肉のコーナーを見る。田噛もそちらへ目を向ける。牛、豚、鳥、馬、羊といったよくあるものから、何やら謎の言語で書かれた奇妙なものまである。とりあえず食べて問題ないものがいい。他はどうなろうと勝手だが、自分が腹痛以上の症状になるなど勘弁だ。
パッケージに書かれた日付を確認しつつ、田噛は安全そうな商品を谷裂が持つカゴへ入れていく。
――――そういえば、谷裂と賀髪が出かけて行動を共にする場面というのは任務以外で初めてだ。そしてふと、田噛は常日頃の疑問を谷裂にぶつけたくなった。
「……そういえば、谷裂」
「何だ」
「お前、賀髪とやり合って疲れねえのかよ」
怒りは体力を使う。理性を失いそうになるほど怒りを覚えたとして持続しない。田噛も平腹や他の獄卒にキレても、最終的に呆れるか疲れて諦めることも多い。それが谷裂と賀髪の間にはない。同じ館に住んでいるのに出くわすたび噛み合っていたら疲労するに決まっている。しかももう獄卒として長いことやっているのだから、嫌いだからと揉め事に持っていかなくてもいいだろうに。
谷裂は普段以上のしかめっ面で答える。
「疲れるだとかそんな問題ではない。忌々しいことだが、無視したくても無視できない相手というのはいるものだろう」
「そういうもんか?」
「そういうものだ」
同じ獄卒だからとか憎まれ口を叩かれるからとかそんな理由ではないことは、どこか入り乱れた紫を見て分かった。そのすっきりしない眼差しに何故か見ているこちらの胸がざわめく。だが、これ以上言及しても田噛に得なことは何もない。
「やたら口が達者で鬱陶しくて敵わん。あの女の長所など大抵の仕事はこなせることくらいだな」
聞いてもいないのにぺらぺら喋る。谷裂の言葉に田噛の眉を上がった。嫌いだの何だの言う割に認めてはいるらしい。斬島への敵対心とは異なる嫌悪感からないものだとばかり思っていた。続ける気のなかった話題に食いついてしまう。
「……仕事できるとは思ってんだな」
「気に食わんが、実務から事後処理まで任務を遂行する能力はあるな。何度も組まされれば分かる」
ふうん。気の抜けた相槌をして、肉用の調味料を手に取ってカゴに放る。
今まで賀髪と組んだことはないが、というか組みたくないが、確かに田噛や平腹を捕まえる動きも書類作成も機敏だ。サボるな働けと説教するくせに仕事ができない奴だったならば反論したくもなる。できても反論どころか文句しかないのだが。肋角に数え切れぬほど二人一緒にされている谷裂なら、なおのこと賀髪の能力を把握できているだろう。
「おい、田噛。いらんものを入れるな」
「ちっ」
コーラを手にしたらバレた。前を向いていたのに。後ろに目でもついてんのかこいつ。田噛は渋々コーラを飲料コーナーへ戻した。
適度な量の肉と魚を選び終え、野菜売り場にいた賀髪と合流し、会計を済ませる。
さすがにあれこれ買えば量がすごいことになった。リヤカーに乗せるにも運ばなければならない。袋に詰めたところで田噛はそれなりに軽そうなものを先に奪う。すると最後の品を袋に入れた賀髪が目を細める。
「田噛さん、もう少し持ってくれませんか? さすがに谷裂さんの力が有り余ってるとはいえこれは無理です」
「持つだけありがたいと思えよ」
「そんなことで偉ぶるな」
「全くです」
本当にうるさい奴らだ。変なところで息が合う。そう吐けば平腹の二の舞になるので絶対に言わないが。
顔に不満を示したが聞いてくれやしないことは分かっている。田噛は無言でもうひとつ袋を手に取った。
「……お前、本当に女かよ」
何度も行き来するのは面倒に思ったのか賀髪も袋を持っている。女の筋力ではなかなか辛そうな量が袋に入っているが、賀髪は涼しげな表情を一切崩していない。斬島や谷裂のように趣味が鍛錬でもなかったはずだし、平腹のように怪力でもないはずだ。
「女のつもりですが」
「こいつが男なわけないだろう」
谷裂が怪訝そうに言う。
丸い尻、大きすぎる胸、それらに相反する細い腰。極端な曲線を持った体はどう見ても女にしか見えない。中身は全く可愛げなどないのだが。
そもそも谷裂と体技でやり合えている時点で持てるか。田噛は一人で勝手に納得する。
「私は女ですが……」
ヒールの音を立たせて平腹が伸びているリヤカーへ向かい、荷物を置く。長い髪のカーテンで一瞬横顔が見えなくなる。顔にかかった髪を振り払い、強い瞳が田噛と谷裂を見た。怒り以外で温度を感じたことのなさそうな目がひたむきな情熱を灯している。
「男性だろうが何だろうが負けるつもりもありませんし、何があっても私の信条も決意も折れぬ心を持っているつもりです」
研いだ刃の眼差しは強靭で、その言葉通り何があろうと傷ひとつ負わないだろう。たとえ体がボロボロになろうと決して自分の意志を曲げないだろう。そんな風に思わせるほどその目には強い説得力があった。元々目の前の女をか弱い奴だと感じたことなど一度もないが、なおのこと高温の熱ですら溶けない冷たい鉄の女に見える。
谷裂は厳しい目つきのまま口を閉ざしている。それから黙ったままリヤカーに荷物を載せていく。一言も発さぬままでいくのかと思えば、
「……貴様にしてはいい心づもりだな」
ぽつりと、だがはっきりと谷裂が言った。先程の「仕事ができる」発言よりも静かでずっと誠実な音をしていた。
谷裂さんがそんなこと言うなんて気味が悪い、とか言い放つものかと思っていたが、賀髪は腕を組んで目を伏せている。ようやく柔らかな唇が開き、
「……谷裂さん。変な場所に食材を置かないでください」
今までの会話の流れを断ち切るように言った。どこかガラスのごとき澄んだ冷たい空気も霧散し、谷裂の表情に険が戻る。
「何? ここなら落とす心配もないだろうが」
「平腹さんが突然起きて袋を蹴り落とすかもしれないでしょう。もう少し考えられないんですか?」
「何だと」
「おい、ここで時間食うなら俺もリヤカーで寝るからな」
「「…………」」
そうあくびを噛み殺せば喧嘩が途切れた。
谷裂と賀髪はほんの少し見つめ合っていたが、やがてそっぽを向き、谷裂はリヤカーの持ち手部分の中に、賀髪はリヤカーの側面へと移動する。
――本当、めんどくせえ奴らだな。
田噛は内心大きなため息をつき、リヤカーに乗り込もうと歩き出した。
ゲームが好きだ。何故だと理由を聞かれると困るが、コントローラーをガチャガチャ動かして画面の中の敵が倒れるのは楽しい。
今日も任務を終えた平腹は私服に着替え、談話室でゲームをしていた。談話室に大きな液晶テレビはないため携帯型ゲーム機を持ち込んでいる。人間が作ったゲームは年々進化している。どんな技術が使われているかなど全く分からない。そんな知識はゲームをするだけなら不必要だし、分かる気もしない。
ボタンを駆使して敵を殺す。今のところ苦戦せずにいるせいで何かが頭から流れている気がする。田噛が教えてくれたはずだが一文字すら忘れてしまった。知っていようがいまいが何の腹の足しにもならないのでどうでもいいのだが。
人間が作った新作のゲームに没頭していると、冷えた刃のごとき声音が平腹をゲームの世界から現実へ引きずりおろした。
「――貴方があの魍魎ごと私を叩き潰そうとしたせいでしょう」
「そのまま潰れてしまえと思っていたからな。どうせ貴様のことだから避けたろうが」
「あの魍魎、意外と頭が回ってましたから私が避けたら逃げてましたよ。というか、肉塊になった私を残して帰ってきたら貴方が回収する羽目になると思いますけど。もう少し考えられないんですか?」
「それを言うならそもそも貴様の立ち回りがおかしかったぞ。魍魎の下ではなく背後に回れたはずだ」
弾丸のような会話の応酬。談話室から顔だけ出してみれば、予想通りの二人が歩いていた。今日も一緒の任務だったらしい。ただでさえ厳しい谷裂の表情はさらに険しく、温度の無い賀髪の目には怒りが燃えている。そんな二人を観察していたら谷裂と目が合った。
「何だ、平腹。見世物ではないぞ」
岩でも貫きそうな眼差しを向けられたところで怯む平腹ではない。答えようとすると賀髪が尋ねる。
「平腹さんは任務が終わったんですか?」
「終わった! からゲームしてる!」
「本当か?」
「本当だって!」
谷裂に疑いの眼差しを注がれる。大声で否定すると賀髪が言った。
「貴方の場合前科がありすぎて信用がないので仕方ないのでは? まあ、終わってなくても自業自得なので知りませんが」
先ほどより多少怒りが沈んだのか落ち着きのある瞳に戻っている。言っていることはひどいが。反射的に平腹は不満げに眉を歪める。
「えー、ひどくね?」
「賀髪に同意するのは癪だが、当然の対応だろう」
谷裂も頷いている。いつも反発し合っているのに説教するときだけ息が合うのは何故なのか。平腹はむっと唇を曲げた。
抗議しようと口を開いた途端、賀髪が平腹の手にあるゲーム機へ視線を落とした。賀髪がゲームをしたところは見たことがない。平腹が見たことがないだけでもしかしたら興味があるのかもしれない。奪われないように背後へ隠した。
「やらねーぞ!」
「いりません。貴方にそんな新しいゲームを買えるお金があったのかと思っただけです。平腹さんは食べ物やら何やら買っていつも金欠のイメージなので」
「間違ってはないな。盗んだか?」
「ちげーし! ボーナス出たから買っただけだし!」
さらに声を荒げて否定する。二人にこんなに疑惑の目を向けられる理由はないはずだ。そういえばこの間谷裂の金棒を持っていったら奪い返されて頭を金棒で叩かれた。でもあれは借りただけだ。谷裂は盗んだと言い張っていたが、自分に都合の悪いことは忘れるに限る。
「もう使ったのか。もう少し計画的に使え」
平腹の言葉に谷裂の眉間の皺が少し深まった。
話題を逸らすため、平腹は賀髪へ顔を向けて尋ねる。
「つーか、賀髪ってゲームすんの? なんか詳しくね?」
「チェスや将棋あたりの盤上ゲームは好きですけど、平腹さんが好きそうなテレビゲームはしませんよ。他の方にやらせてもらったことはありますが」
「へー。上手い?」
「さあ。普通じゃないですか」
心底どうでもよさそうに言う賀髪にほーん、と相槌を打つ。
テレビゲームをする賀髪。あまりにもミスマッチだ。何だかおかしな光景になっていそうで逆に気になってくる。
谷裂は先程よりも苛立っているのかひどく尖った瞳になっていた。
「そんな遊戯の腕より実技を磨け」
「オレ強いし、もう十分じゃね?」
「平腹さんが強いか弱いかはともかく……」
「つえーって!」
「谷裂さんは携帯機器を振り回してサイトにログインできると信じていた機械音痴ですから、ゲームの楽しさなんて分からないと思いますけど」
「肋角さんはできていたぞ」
「あー、あれすごかったよなー」
全く原理は分からないが、肋角が機器を振ったら何故かログイン状態になっていた。あれから斬島谷裂平腹で試してみたが何にもならず、腹立たしくなって危うく壊すところだった。
谷裂と平腹の言葉に、賀髪は懐疑的な視線を送る。
「は? 変な嘘をつかないでください……と、言いたいところですが、肋角さんならありえそうですね……」
一人で勝手に納得した。肋角さんという信憑性の高さである。本当にできないことなど何もないのではないかとすら思う。
「そーいや田噛とか佐疫も詳しーけど、賀髪も機械得意だよなー」
「私が得意というより、斬島さんや谷裂さんが知らな過ぎるだけでしょう」
谷裂は鼻を鳴らして言う。
「使えなくとも任務に支障はない」
「多少なりとも人間の文化に知っておいた方がいいこともありますよ。現世の移り変わりは激しいですし、任務に関係あるかもしれませんから」
「ゲームめっちゃ面白れーもんな!」
「肋角さんだって使えているのにまさか無駄なんて言ったりしませんよね?」
また無視された。
賀髪の口は引き結ばれているものの、どこか冗談めいているようなからかいと嘲りが顔に乗っていた。谷裂の眉がぴくりと動く。
無視された怒りが湧いてくるが、それよりも早く谷裂の分厚く大きな手が平腹へ差し出された。
「……平腹、それを貸せ」
「んー、どうしよっかなー」
田噛は寝てるし、確かに一緒にゲームをする相手は欲しい。でもまだゲームは終わってない。
そうやって逡巡していると、賀髪がぽつりと呟いた。
「谷裂さんに渡したらきっと壊されますよ」
「え! じゃあやだ!」
「誰が壊すか!」
「ぜってー壊すじゃん! やだ!」
大声で拒絶し、平腹はゲーム機を抱えて逃げ出した。
ゲームは高いのだ。しかも新作で出たばかり、人気でなかなか売られていなかったところを運良く買えたのである。クリアもしてないのに壊されたらたまったものではない。
「待て平腹!」
谷裂が俊敏に追いかけてくる音がする。平腹の足は速いが谷裂も速い。絶対捕まりたくない。
何となく、すでに遠くの賀髪が冷え冷えとした表情で見つめているような気がした。
己の目と同じ橙があたりに広がる。一時間もすれば黒に染まっていくだろう。小さな風が通り過ぎてほんの少し体が冷える。田噛はあくびを噛み殺し、この世を歩く。日中は春の陽気が漂って気持ち良く寝たいところだった。ただ怠けすぎると罰も与えられるのである程度は仕事をしなければならない。要領よく怠けるのは得意だ。獄卒も面倒だがこの世はもっと働き詰めの人間もいるし、休みも報酬もある獄卒の方がましかと思う。過労なんて言葉など田噛には縁のないものだ。
既に任務も終わったし、報告したら食べて寝るか。そう思いながらふらふら歩く。厄介なことに巻き込まれなければいいが。
「――――田噛さん」
そう思った途端に面倒な奴に会ってしまった。無視してもそれ以上絡んでこないだろうが、したらしたで後程響いてきそうだ。田噛はゆっくりと振り向いた。
声の主は相変わらず感情の起伏がなさそうな顔面で、いつもの制服とは違う恰好をしていた。手に持った袋は私服と同じように洒落ている。きっと中身も装飾が凝っていそうなものなのだろう。
「何だよ。仕事はしたぞ」
「別に仕事しているか聞くために声をかけたわけではありませんが……」
「お前からの話なんて大抵そんなもんだろ」
「貴方が仕事せずに怠けていればそうしているだけです。それ以外は貴方がギターを弾いていようが寝ていようが穴に落ちていようが何もしません」
確かに説教と谷裂と喧嘩の売り買いをしているとき以外は静かだ。田噛にとってはその二点が鬱陶しくてたまらないのが。
「荷物持てとかなら断る」
「他人に自分の荷物を持たせませんよ。特に平腹さんと田噛さんなんて放り投げて捨てそうですし」
「賢明な判断だな」
「今日私が夕食当番なので、まだ仕事なら取っておいてあげようと思っただけです」
自分が当番の日に限るが、賀髪は連絡がなければいない獄卒の分の夕食を残す。遊んで帰ってきたなら「連絡してください」と刺々しく言われるが、仕事なら労わりの言葉とともに残してあると伝えてくれる。普段怒られている平腹でも田噛でも罵倒し合っている谷裂でも対応は変わらない。やることをやれば相応の態度を返す女だ。
とはいえ、田噛の中に一生懸命の四文字はないため改める気はない。
「もう帰る。この世の金も持ってないしな」
「そうですか」
相槌を打つと、賀髪は田噛ではなく目線を別の方へ向けた。何か見つけたのだろうか。何だと視線を辿れば、スーツを着た男の背後に短髪の女の亡者がついている。
十中八九男に未練がある女だ。今のところ悪意は感じないものの、もしかしたら怨霊になるかもしれない。当然任務として言い渡されていないし、面倒だ。だがここで放っておけばいつか特務室に回ってくるだろう。
そもそも自分がやらなくても賀髪が連れて行くか。期待してちらりと賀髪を横目で見る。その瞬間驚きで田噛の顔が歪んだ。
賀髪は亡者へ動き出すかと思えば、無視してこの世とあの世の境へ歩き出していたのである。何も見なかったかのように迷わずまっすぐ歩いて行く様はいっそ清々しい。
予想と反した行動に田噛はつい声をかけてしまった。
「賀髪、あれ連れて行かねえのかよ」
引き留められた賀髪が田噛に視線を投げる。相変わらず冷然とした碧色だ。そして、女らしくふっくらとした唇が動く。
「私は今日仕事ではありませんから」
田噛の眠たげな目が一瞬開かれた。いつも真面目に働かない田噛に苦言を呈し、呆れと蔑みの目を向け、体が切れないようにした絡新婦の糸で捕えて引きずって仕事に向かわせたことすらあるあの賀髪が。まさか面倒だからともとれる発言をするとは予想だにしなかった。
輝く鉱物から感情は読み取りにくい。もしかして、同じ女だから男と添い遂げられなかった女の気持ちが分かるなんて理由なのか。しかし、この獄卒は人間の色恋に絆されるような奴でもないはずだし、亡者を慮っての発言とは決して思えなかった。
「……放っておいたら怨霊化するんじゃないかとか言わねえんだな」
「見たところ恋人か想い人についているようなのでその可能性は大きいですけど。そんなに気になるのであれば田噛さんが話しかけたらどうですか?」
「俺が頼まれてもいない事をやるような勤勉な奴に見えるか?」
「全く見えないですね」
即答された。別に傷つきはしない。無言の田噛に賀髪が結論を出す。
「ということで、見なかったことにしましょう」
「だな」
賀髪にしては不真面目な決断である。田噛にとっては利口な判断だ。
「賀髪」
「何ですか?」
艶めいた髪が動きに合わせてなびく。じっとこちらの言葉を待っている。急かしてはいないがいつまでも待っているほど優しくはない目だった。
「……何でもねえ」
柄でもない気がして言葉をひっこめた。賀髪は不審そうに見るでもため息をつくでもなく、波ひとつ立たない碧の瞳を向けたまま、
「私はちゃんと面倒なことは面倒とは思いますよ」
田噛の心を見透かしたような言葉が返した。
そういえばそういう女だ。仕事は真面目にこなすが、斬島や谷裂のように鍛錬するほど熱心でもない。誰かを手伝っていることもあるが、いつでも手伝っているほどお人よしでもない。
そもそも割とすぐに暴力を行使する奴がお人よしであるはずがなかった。斬島平腹谷裂の三人を脳筋などと罵っているが、賀髪も大概だ。口にしたらそのあたりの気に鋏で磔にされそうなのでやめておく。
そんなことを考えられているとは思っていないであろう賀髪は会話を続ける。
「田噛さんも休日が楽しく終わろうとしているのに突然仕事なんて嫌でしょう」
「そりゃそうだ」
それ以上賀髪は話しかけてこなかった。田噛も話題はないし話す必要性を感じないので口を閉ざす。
この世とあの世の境目から、二人は一定の距離を置いて歩いていく。沈黙のみが二人の間に存在していた。ここに平腹がいたら田噛と賀髪を足して倍にしても負けるくらいの音量になるのだろう。この沈黙は不快ではないものの、心地いいかと問われると異を唱えたい。
賀髪の後ろにいるせいでさらさら流れる銀髪が嫌でも目に入る。枝毛など一本もなさそうなほどまっすぐで細やかな髪は本人をよく表していた。それは今でも変わらない。
変わらない、のだが。
――――佐疫ほど優等生じゃねえんだな。
何をもってして優等生とするのかは分からないしどうでもいいが、面倒だからと亡者を放る獄卒が優等生とは言い切れないだろう。
認識が変わっただけで好感を持ったりなどしない。だけども、その認識は大きいとは思うのだった。