アキは小さな手で拳を作る。お化けから逃げていたらはぐれてしまった姉を探さなければ。
「行かなきゃ」
絞りだした声は震えていた。
夜の山は想像以上に何も見えず、一歩一歩進むたびに自分がどこにいるか何をしているかさえ分からなくなる。数時間前は姉と公園で遊んで帰っていただけなのに。何でいつの間に山にいたんだろう。アキには何も分からない。
パパ、ママ。大好きな両親に呼びかけようと口を開いた。が、すぐに現れてくれるわけもない。もう何度もやったことだ。
怖い。おうちに帰りたい。恐怖と寂寞がアキの胸を占める。
そこで、姉の優しい微笑みがよぎった。遊んでくれる姉。喧嘩して仲直りの印にクッキーを焼いてくれる姉。似顔絵を描いたら下手だなあと言いながら喜んでくれる姉。探しに行きたいのに。足が動かない。
「あ、」
そんな風に考えていたら、恐ろしいお化けが宙に浮いていた。たくさんある目、ぼこぼこの体、ぎしゃぎしゃと鳴く声。アニメや映画で見たことがある風貌のはずなのに、生々しさがある分怖くてたまらない。
捕まっちゃう。そう思ったがもう走れない。
お化けはぎしゃ! と一鳴きし、アキに向かってまっすぐ飛んできた。アキは目をつむる。逃げようとするも足が滑って倒れてしまった。
お姉ちゃん。願う。せめて痛くありませんように。祈る。
――――そこで、お化けの声がアキの耳をつんざいた。
……何?
アキはゆっくり目を開く。お化けは血のような青い液体を流して死んでいる。しかし、それよりももっと驚くものがあった。
――――きれい。
目を奪われるほど美しい女が、そこにはいた。
女の背と同じくらいの銀髪が小さな風にさらさらなびいている。切れ長の目は海みたいに深く、吸い込まれてしまいそうだ。人形のように整った顔は何の感情も浮かぶことがなさそうに見える。体の線がはっきり分かるような服は女によく似合っていた。深いスリットから見える脚は長い。芸能人とかモデルとか、そんな類のものとは比べ物にならない。まるで月の光を浴びて帰っていくかぐや姫。そう錯覚しそうになるほど、夢のように美しい女だった。女を目にしたアキの瞳も、きらきら輝く銀髪にあてられて光を灯す。
きれい。ほう、と熱い息をこぼしそうになる。女を見るたび、さっきまでアキの中にあった恐怖が薄れていく。
「怪我はありませんか」
やっぱりこれは夢なのかな? アキは呆けていたが、氷柱のように冷たい声で我に返った。こつこつとヒールの音を立てて女が近づいてくる。
「は、い」
音になった声はどこか外れてしまった。アキと目線を合わすように女は腰を下ろし、手を差し出した。同時に豊かすぎる胸が揺れる。おっきい。あまりのインパクトに、アキの視線がついそちらに行ってしまう。
「立てますか?」
「え、と」
声をかけられて女へ目を戻す。疲れ果て、そして驚きで腰が抜けて立てない。口をもごもご動かすアキに女の目が少し細くなる。女の顔は最低限しか動かず、怒っているのかそうでないのか判断しづらい。
どうしよう。忘れかけた涙が再び浮かんでくる。
「いたか、賀髪」
唐突に聞こえた不機嫌そうな低音がアキの心臓を跳ねさせた。後ろを振り向くと、今度は大きな男がいた。父よりもずっと高い背丈。女と似たような服に立派な体を包んでいる。何もかも視線でねじ伏せそうな鋭い目が帽子のつばから覗いていた。手には鬼が持っていそうな金棒がある。アキは小学三年生だが、金棒なんて普通は見ることがないことくらい分かっている。
同じ人間みたいだけど、もしかしてこの女の人も男の人もお化け? びくびくしているアキをよそに、綺麗な女――――賀髪が言う。
「谷裂さん、この子立てないみたいなのでおぶってあげてください」
谷裂と呼ばれた男が思い切り顔をしかめた。それだけでアキの心臓がきゅっと縮む。こんな怖い人におぶってもらうなんて無理だ。
「何故俺が」
「貴方力しか取り柄がないでしょう」
「そんなわけあるか! 魍魎共の対処はどうするつもりだ」
「道中の雑魚は私が薙ぎ払うつもりでいますが……まさか、日頃鍛えているくせに子供を守りながら戦えもしないんですか?」
賀髪が見下すように鼻で笑う。賀髪の煽りに谷裂のこめかみがひくついた。
「それくらいできる!」
谷裂がそう言い切った途端、アキの体が浮いた。子犬か子猫を乱暴に持ち上げているような扱いだ。賀髪もそう感じたのか、眉間に皺を寄せて苦言を呈する。
「女の子なんですからそんな扱いやめてあげてください。それとも、傷でもつけて肋角さんに怒られたいんですか?」
「……」
また怒鳴るんじゃないかと不安になったが、谷裂は黙ってアキを一旦下ろし、背中に乗れと言わんばかりに座り込む。立てるかな。ぐっと足に力を込めてみるが、やはり立てない。もう一度試そうとすると、賀髪がアキの手を軽く引っ張って立たせてくれた。礼を言う前に谷裂の背へ移動させられる。おそるおそる頑丈そうな肩を掴めば谷裂が立ち上がった。高い。いつもと違う視点の高さに首がすくむ。手を離したら頭から落ちそうだ。
そういえば。アキが小さい頃、よく父親がこうしておぶってくれたことを思い出す。パパ。父のことを思い返し、視界が滲む。
そこで、少し冷たい手がアキの頭を撫でた。
「もう大丈夫ですよ」
あくまで表情は固まったままなのに、撫でた手つきはひどく優しい。まるではぐれてしまった姉のようだ。アキはうん、と小さく頷く。悲しみが少し引っ込んだ。
「……まだ名乗っていませんでしたね。私は賀髪と申します。この般若顔の阿呆が谷裂さんです」
「誰が般若面の阿呆だ」
「私たちは人間ではなく獄都に住む獄卒というものなのですが」
谷裂を無視して賀髪が続けた。さらにおいと谷裂が詰め寄るも、賀髪は視線すら向けずアキを見つめている。
お姉ちゃんたち、いつもこうなのかな。アキは怯えながらも賀髪に疑問を投げかける。
「お姉ちゃんたちは人間じゃないの? さっきのお化けと同じ?」
「幅広く括ればそうなりますね。私たちはいわゆる鬼です」
鬼。鬼と聞いて、アキの頭に肌が赤く強面で角が生えた大男が浮かんだ。谷裂は肌が赤くもなくむしろ青白いし角もないが、鬼と言われれば納得する。だが、賀髪は鬼というより天女とか雪女とか言われた方がしっくりくる風貌だ。
「この世にいる亡者……死んでしまった人をあの世へ送ったり、この世で暴れている妖怪を退治したりするのが私たちの仕事です。それで、山に住む妖怪が人を攫うと聞いてここにやって来たのですが、他に誰か見ていませんか?」
首を振る。他の人は誰も見ていないし、悲鳴を聞いたこともない。アキが逃げるのに必死だったせいで見落としたかもしれないが。
そうですか、と落胆もせず賀髪は頷く。続けてアキへ問う。
「貴方はどうしてここに?」
「……あたし、お姉ちゃんと一緒に帰ってて……でも、お姉ちゃんいつの間にかいなくなっちゃって……お姉ちゃんを探して、さっきみたいなお化けがいっぱいで……怖くて……」
不可思議すぎる出来事が起こり続けているせいで上手く言葉にできない。谷裂の肩を掴む力が強まった。姉は無事だろうか。不安と焦りで体が震える。
「なるほど。分かりました。そのお姉さんも探しましょう」
賀髪の返事に谷裂は顔をしかめた。
「面倒事を増やしおって。俺は手伝わんぞ」
「見捨てることもないでしょう。亡者であれば連れて行かないといけませんし。貴方は本当に目的だけしか見えてないんですね」
賀髪は心底呆れたと言わんばかりに侮蔑の目を向けた。自分に向けられていないと分かっているつもりだが、それでも賀髪の目は圧がある。アキには見えていないはずの谷裂の目つきがさらに鋭利なものになったような気がした。
「……ひとまず人間を攫う妖怪とやらを探すぞ」
「貴方に言われなくても分かっています」
二人は迷いなく暗闇に向かって歩き出す。
やっぱり夢でも見てるのかな? 夢にしては背中や肩から感じる体温が少し冷たく、妙に現実的だった。
賀髪と谷裂と名乗った獄卒に出会ってからは随分恐怖が軽減された。人間ではないというが、誰か自分を守ってくれる存在がいること、恐ろしいお化けと遭遇しようがすぐに消えてしまうこと。これだけでかなり違った。実際消えているというよりは二人が殺しているので、賀髪や谷裂に対する恐怖はむしろ少し増したのだが。
きしゃあ! 金切り声を上げる魍魎がまた三人へ突っ込んでくる。先頭を歩いていた賀髪は顔色ひとつ変えず、何かを引っ張った。それだけの動作なのに真っ二つに魍魎が切断され、地に落ちて動かなくなった。落ちた肉は中身が見えてなかなかグロテスクなことになっている。アキはそれ以上見たくなくてぎゅっと目を閉じた。道中何度か「怪我はありませんか」「体調はどうですか」と賀髪がアキを気遣ってくれるのだが、後々のトラウマまでは配慮がないらしい。ちなみに谷裂への心配は一切ない。信じているのか、どうでもいいのか。
そこで谷裂が舌打ちした。それだけなのに迫力があり、アキの肩が震えてしまう。
「一匹ずつ来るのはなかなかに鬱陶しいな。まとめて来ればいいものを」
「元凶が寄越しているのかもしれませんね」
「それならいつものようにその絡新婦の糸で周りを一掃しろ。その方が楽だ」
「じょろうぐも?」
じょろうぐも。蜘蛛のことだろうか。気になってつい疑問がこぼれた。賀髪がアキへ視線を寄越す。会話に入り込んだせいか。
謝ろうとするよりも先に、するり賀髪の細い指が宙をなぞる。すると青白い人差し指から赤い血が垂れた。鬼でも赤い血なんだ。少し驚いたが、血によって何か糸のようなものからが見える。
「絡新婦という蜘蛛の妖怪です。この糸を使って先程から魍魎を切っているんですよ。切らずに重さに耐えられるくらいの強度にもできます。ただ、今周りに張ってる糸は触れたらすぐ切れるので、貴方は谷裂さんから離れていけませんよ」
つまり、真っ二つになるということだ。アキはこくこく首を上下に振った。
「これで一掃したいのは山々なんですが、元凶に辿り着いたときに無くなっていては困るので」
「鋏はともかく、その糸は消耗品というわけでもあるまい」
「糸もほとんど使い切りみたいなものですよ。無暗に使いたくないです。それくらい分からないんですか? 少しくらい頭を使ってください。……ああ、その頭は飾りでしたね。すみません」
「貴様……! 無駄口しか叩けんのか? その糸で口を縫っておいたらどうだ」
「嫌に決まっているでしょう。馬鹿も休み休み言ってください」
歩いている間こればかりである。賀髪が谷裂を馬鹿にし、谷裂がそれに苛立って喧嘩が加速する。ただでさえ山の空気は張り詰めているのに、こんなところでもぴりぴりされてはたまったものではない。アキは体も心も疲労が溜まっているのだ。
こんなに仲が悪いのに、何で一緒なんだろう。不思議で仕方ない。まともに答えてくれるのか不安だが、あまりにもひどいので尋ねることにした。
「あの……お姉ちゃんたち、何で一緒なの? 喧嘩ばっかりだから仲悪い、んだよね?」
アキが問い掛けてから、賀髪が大袈裟すぎるほどのため息をついた。ただでさえ冷ややかなエメラルドグリーンの光が何段階も凍っていくのが分かる。
「最悪ですよ。上司の命令で組まされているので仕方なく一緒に仕事しているだけです。正直今すぐ頭でも勝ち割られて死んでほしいのですが」
「貴様が臓物ごと食われて死んでおけ」
「嫌です。そんな間抜けな殺され方、恥でしかありません」
臓物が何だか不明だが、頭への返しからして体の一部だろう。ひどい言葉の応酬だ。
仕事だからとはいえ、こんなに仲悪くってできるものなのかな? 学校の授業で組まされるグループだって、あまり好きじゃない男子とかと一緒だと嫌になるし、上手くできない。この綺麗なお姉ちゃんと怖いお兄ちゃんは大人だからできるのかな。そう納得するしかない。
また罵詈雑言を投げ合う二人に巻き込まれぬよう、アキは顔を逸らした。
それにしても。アキは息を吐く。白い息はすぐに宙へ消えた。山は天気が変わりやすいとか、夜は冷えるとか聞いたことがある。だからといってここまで寒いものだろうか。奥へ進むたびに体温が下がっていく気がする。霊やお化けがいると、レイキがどうのこうの、アニメや本で説明があったけど、そのせいなのか。それに、けたけた何かが笑う声がする。笑い声が聞こえるたびに頭が痛い。
――――お姉ちゃんも怖いんだもん。頑張らなきゃ。
目をつむって、アキは唇を結んだ。
もうしばらく山を登ったところで、広けた場所に出た。奥には小さな神社のようなものが見える。正確には神社だった場所のようだ。もう長いこと誰も来ていないのか、屋根も神社も崩れて残骸に成り果て、賽銭箱ももはや木屑になり、すでに廃屋と化している。
賀髪が少し離れて周囲を見回す。そこで何かを投げる。話していた絡新婦の糸でいろいろ確かめているようだ。
アキも頭をぐるぐる動かしてみるが、姉らしき人物はいない。そもそも人間は誰もいないし、さっきまでいたお化けもいない。
『――――おいで、おいで』
突然。きぃんと頭に直接声が響いた。今まで聞こえていた不気味な笑い声と同じ音。地の底から這ってくるようなねっとりとした音。
「誰……?」
「何だ。何か見つけたか?」
「声が、聞こえて」
「声? 何も聞こえんが……。賀髪、貴様は聞こえるか?」
「いえ、私も何も聞こえませんね。犯人が呼んでいるんでしょうか」
二人には聞こえていない。じゃあ、これは何? 一人でいたときの恐怖が湧き上がる。怖い。怖い。怖い。谷裂の肩に頭を埋める。聞きたくない。
『――――アキ。こっちにおいで。私だよ』
そこではっと意識がひとつに集中する。姉の声だ。顔を上げると、探していた姉が廃屋の前に立っていた。
「お姉ちゃん?」
良かった。無事だったんだね。感動の呼び掛けをするよりも先に、疑念の声が上がる。
確かに姿形は姉そのものだが、笑っているはずの口元は歪んでいて、目には光がない。それに姉らしき者は黒い影に包み込まれていた。
あれはお姉ちゃんじゃない。お姉ちゃんのフリをした何かだ。賀髪が言っていた人を攫う妖怪、だろうか。
突如現れた存在を警戒し、谷裂は手にしていた金棒を強く握り、賀髪も鋏をくるくる回している。
なかなか近づいてこないアキに痺れを切らした何かは、壊れた機械のように繰り返す。
『アキ。アキ。アき。あ、き。早くおいで、おいで、おいでおいでおいでおいでオイでオイデ』
姉らしき声がさっきまで頭に響いていたものと重なる。そして瞬きひとつして、アキの唇から悲鳴が漏れた。
姉の下半身は綺麗に消えていた。目に生気はなく、口はだらしなく開いている。服は血に塗れているものの、上半身からはすでに流れきったか啜られたかで落ちてこない。おぞましいものを見て吐き気がするよりもただただ絶望が降りかかる。
姉だった物を、大きな手が掴んでいる。さらに見上げれば、儀式にでも使う不気味な仮面のような顔だけが浮かんでいた。
「ようやく現れたか」
「早く仕留めましょう」
おぞましい様に屈することなく、冷静に谷裂と賀髪は戦闘態勢に入った。
谷裂が走り出すと大きな左手が襲いかかってくる。難なく谷裂はそれを避ける。走るだけで背負われているアキにも負担がかかるが、そんなことよりアキはまだ目の前の光景を受け入れられなかった。
「お姉ちゃん……お姉ちゃん」
「どう見ても死体にしか見えんぞ」
「彼女のお姉さんが先にあれに掴まってしまったのかもしれませんね」
淡々とアキが否定したい事実を口にする二人。やはり、あれは姉なのだ。
小学三年生でも「死」について分かることがある。死んでしまえば、もう二度と動かないし帰ってこないということだ。
谷裂が妖怪の手に向かって金棒を振り落とす。だが、アキがいるせいか重心が少しずれて上手く当たらない。
「チッ。背負っているせいで上手く動けん……!」
「だからって下ろしたら彼女が食べられてしまいますよ。鍛えてるつもりなら成果を見せてください」
「貴様に言われずともこなしてやる! おい、振り落とされたくなければ掴まっていろ!」
重い鉄が左手を貫く。その刹那を見逃すまいと賀髪が糸で手を切り刻んだ。ばらばらになった手は地へと崩れ落ちる。
『グギギギギ……ごくソつドモ、ジャマ、スルな!』
「何十人も人間を食らう輩を見逃すわけがないでしょう」
「全くだ。少しは大人しくしていれば良かったものを!」
いつの間にか賀髪は宙へ浮いていた。見えないが、木や建物にでも糸をつけて辺りを張り巡らしているようだ。ダンスするように華麗に駆け上っていく。そしてある程度上ったところで目に鋏をいくつか投げた。
『ギャアッ!』
痛みを訴える妖怪に躊躇せず、残った片目にも鋏を投げる。賀髪は地上にいる谷裂へ叫んだ。
「谷裂さん!」
谷裂が糸を伝って妖怪の頭上へと辿り着く。高い。落ちたら本当に死ぬ。心臓が縮みそうになるアキに構わず、谷裂は妖怪の脳天へ金棒を振り落とした。
「これで、終わりだ!」
『!!』
断末魔が嵐のように轟く。分断された妖怪は、左右に分かれた体が倒れきったと思うと、塵となって宙へ舞い消えた。
もう何も怖い声は聞こえない。歯をかちかち鳴らしてしまいそうなくらい寒くもない。恐ろしい妖怪は夢のように消滅した。
けれど――――結局探し求めていた姉はすでに殺されていた。悲しみがぼろぼろ目から零れてくる。もう一緒にテレビを見て笑うことも、父や母にプレゼントを贈ることもないのだ。
泣きじゃくるアキに谷裂が言う。
「俺の背で泣くな! どうせお前も……」
そこで谷裂の言葉が途切れた。谷裂も賀髪も妖怪が倒れた場所へ視線を注いでいる。何だろうと滲んだ視界を拭う。そして目を見開く。
そこには、殺されたはずの姉が微笑んでいた。今度は影どころかぼんやりした光に包まれ、目には喜びを宿している。
「アキ」
「お姉ちゃん!」
慌てて谷裂の背から飛び降り、姉へと駆け寄る。勢いよく抱きつく。姉は少しバランスを崩しながらもちゃんと受け止めてくれた。
「お姉ちゃん……」
良かった。安堵と歓喜がアキの胸を占める。だが、満面の笑みのアキを姉は悲しそうに見つめて言った。
「……私に触れられるってことは、アキも無事じゃなかったんだね」
「え?」
アキも無事じゃなかったんだね。それは、つまり、姉は元より自分も死んでいるということで。さあっと血の気が引いていく。いや、姉の言うことが本当ならば血はないのかもしれない。
後ろで姉妹を見守っていた谷裂と賀髪は平然としている。むしろ気付いていなかったのかと言いたげな目をアキに向けていた。
「自覚があるものだと思っていたが。賀髪、どう思う」
「そうですね……。私たちがあの子に会うより先に、あの子の死体を見つけたでしょう。魍魎共にやられたのかあれにやられたのかは分かりませんが、あの子はお姉さんとはぐれて未練があったようですから、亡者としてここに留まっていた、と考えるのが自然でしょうね」
「死んだ自覚がなかったのは何故だ?」
「気絶していたところでやられてしまったのでは? それなら納得はできます」
「あ」
賀髪に指摘されてアキは思い出す。
姉と別れてしまってから、怖くて疲れてしまって眠ってしまったこと。あれからの記憶は曖昧だ。あの間に、死んでしまったのか。
「……そっか。そう、なんだ」
自分は死んだ。その事実が、何故かすんなりと頭に入った。夢にしてはリアルで冷たいから。前に見た、仮面をつけて斧を持ったお化けが出てくるホラー映画なんて目じゃないくらい恐ろしい体験をして、普通の人間が生き残れるはずがない。
暗いアキを慰めるようにひと無でしてから、姉は二人へ尋ねた。
「あの……お姉さん、お兄さん。私たち、天国に行くんですか?」
「知らん。天上に行くか地獄に行くかはお前ら次第だ」
谷裂の素っ気ない返事に続けて賀髪が付け加える。
「まあ貴方たちは子供ですから、動物を殺していたとか、盗みを働いていたとか、そういった罪を犯していなければ天に昇っていけるでしょう」
「……天国って、どんなところ?」
おそるおそる女の鬼へ尋ねた。小さな子供の不安げな眼差しに賀髪はゆっくり瞼を閉じる。だが、表情も変えないまますぐに瞳を開いた。
「私も天上にそう何度も行ったわけではないですし、あまり期待させても申し訳ありませんから。何も言わないでおきます」
今から行く場所がどんなところなのかも分からない。今更だが、そもそもこの二人は本当のことを言っているのか怪しい。しかし、顔は怖くても真面目そうな谷裂と賀髪が嘘をつくようにも見えない。
アキは俯く。そんなアキへ姉の柔らかな声が降る。
「アキ。大丈夫だよ。どこでも一緒に行ってあげるから」
「お姉ちゃん……」
そう言った姉の手は少し震えていた。姉もやっぱり怖いようだった。死んだ後が怖いのは、誰だって同じだ。それなのにアキを元気づけようとしてくれている。
アキより少しだけ大きい手を握った。死んでるとは思えないあたたかさが伝わってくる。優しさとぬくもりにアキの顔に再び笑みが戻った。
「……うん。ありがとう」
姉妹の会話が終わる頃を見計らっていたらしい谷裂は相変わらず厳しい顔つきのまま言った。
「話は終わったか。行くぞ」
「谷裂さんって情緒のない人ですね」
「話し込まれても時間の無駄だろうが」
「はあ……結局亡者を連れて行くんだったら、佐疫さんか木舌さんと組みたかったです」
「俺も貴様なんぞよりあいつらの方がましだ」
言い合いは止まらない。アキと姉のことを忘れてないかと心配になる。初めて二人の喧嘩を見た姉は呆気に取られていた。少し顔も引きつっている。強面の谷裂と、綺麗だが圧のある賀髪の諍いは何者も間に入れない。子供のアキと姉には二人を制止するなど無理だ。
しばらくして一段落したのか、賀髪がこちらへ視線をやった。促されて姉がアキへ微笑む。アキが大好きな姉の笑顔だ。
「アキ、行こう」
「うん、ハルお姉ちゃん」
ハルお姉ちゃんといれば、きっとどんなところでも大丈夫だ。
「――――以上で報告を終わります」
「ご苦労」
二人の少女をあの世へ導き、別の部署へ引き渡して谷裂と賀髪の任務は終了した。館へと戻り、今二人は上司である肋角へ一連の仔細を報告していた。
紫煙を煙らせながら肋角は手にしていた資料へ目を通す。
「人間を攫っていた奴の正体だが、山の神だったようだ。信仰が減り続けて神性がなくなり、妖に堕ちて人間を食らっていたらしい。どちらも既に死んでいたとはいえ、食われる前によく助けた」
「いえ、できればもっと早く助けることもできたはずですので」
賀髪が一瞬目を伏せた。長い睫毛に隠れて目に映る感情は何か見えない。
「そう気に病むな。谷裂も賀髪もよくやった。今日はもう休め」
「はっ」
「はい」
谷裂と賀髪の返事か重なる。同時に視線も交じわった。その間には火花が散り、あまりの勢いに爆発でもしそうだった。
肋角はそんな二人に顔色ひとつ変えない。白濁の息を吐き出し、肋角は言う。
「谷裂、賀髪。また反省部屋にでも行きたいか?」
反省部屋。その単語に谷裂の顔に焦りが浮かび、賀髪でもさえも唇を引き結んだ。即座に深く頭を下げる。
「……いえ。申し訳ありません」
「私たちはこれで失礼します」
そして、二人は半ば逃げるように執務室を出た。
「……貴様のせいで俺まで反省部屋に行く羽目になるところだっただろう」
「どうして私のせいになるんですか。貴方が私を睨んできたから睨み返してしまっただけです。貴方の視線が不愉快なので」
「何だと」
執務室から十分遠ざかった場所でまた再開される。そのうち耐え切なかったのか谷裂が胸倉を掴むが、賀髪は美しい顔に嘲りを浮かべるのをやめない。
その喧騒に同僚である獄卒たちが集まってきた。ただ止める気は一切ないようで、巻き込まれぬよう遠巻きに見ているだけだ。
「谷裂と賀髪、また喧嘩してる」
「今度はどっちが勝つだろうか」
「うーん、大体引き分けで終わってるような気がするから、今回もそうなるんじゃないかなあ」
「めんど……さっさと離れるか……」
「嫌いっつってるけどさー、あいつらけっこー一緒じゃね? やっぱ仲いーよな? よく分かんねーけど!」
「あわわ……平腹、それ言っちゃ……」
こそこそと話していた獄卒たちへ谷裂と賀髪の鋭利な視線が向けられる。
「「誰が!」」
たった三文字が綺麗に重なった。二人ともまさに鬼のごとく凄まじい形相だ。谷裂が金棒を、賀髪が鋏を投げた。金棒は失言した獄卒の腹に当たり、鋏は額へ綺麗に突き刺さる。盛大に口と額から血が飛び散り、辺りが悲惨なことになった。
「……平腹さんのせいで掃除しないといけなくなりました」
「……賀髪、貴様はモップを持ってこい。俺は水をくむ」
同僚を犠牲に二人の血の気が収まったようで、先程と打って変わって冷静に掃除の準備をし出した。
「あの二人は変わらないね」
そんな二人の様子に、青緑の目をした大きな獄卒は愉快そうに笑うのだった。