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導入編4_砂漠の糸へ願う



 風の知らせだか不意に働いた直感だかわからないけれど、私はその時目を覚ました。
 生命が息を潜める沈黙の夜。外からは風の音すら聞こえず、自身の呼吸音が耳の奥まで届くほどだった。分厚い雲から申し訳程度に空を照らす月明かりは味気ない部屋の中へ仄かに差し込む。が、室内はそのほとんどを真っ暗闇に覆われたままだ。

 なぜ目が覚めたのか、疑問符が支配する頭をゆっくりと回転させるけれど違和感の正体は影さえも見せてくれない。
 眠る前の記憶を手繰り寄せても、マスターと女神の封印を解くためにあちこち歩き回って疲れて帰ってきて……といつも通りの行動をしただけだ。
 
 そのまま何事もなかったかのように眠ることも出来たけれど、なんとなく胸のつかえる感覚を抱きふらりと部屋の外へ出て行く。目的があるわけではないけれど、自分の足が向かう先はわかっていた。

「…………、」

 私は一つの部屋の前に立ち、深呼吸をしてから扉に手を伸ばす。
 控えめなノックは最低限の礼儀。寝入っている彼をこんな時間に起こすのは自殺行為に等しいから、なるべく音をたてずゆっくりと扉を開け、暗い室内を見回した。もし彼を起こしてしまったのなら待つのはお仕置きかベッド行きだ。

「……マスター?」

 暗い室内を目にした私は違和感を覚え、今度こそその部屋の主を呼ぶ。
 しかし返ってくる声はなく、暗闇に馴染んだ目が捉えたのは空っぽのベッドだった。
 

 * * *


「んー……」

 結論、主人──ギラヒム様はいた。
 本来なら探していた主人がすぐに見つかりホッと一息つくところなのに、私はこの数分間で何度目だかわからない唸り声をあげ身動きが出来ずにいた。

 そこは地上に穿たれた大きな穴のような場所だった。
 分厚い層を成し螺旋階段を思わせる地形、その中心でもある最下層に私の身長の半分にも満たない石で出来た杭が一つ。そして杭から一定の距離を保ち、私の主人は所謂体育座りでそこにいた。

 周囲の気配に敏感な彼でも、数十メートル上からひょっこり様子を窺っている私には気づかず、何らかの思案をしているのか座り込んだままピクリとも動かない。……遠いし後ろ姿しか見えないから何とも言えないけれど、まさかあのまま寝ているわけではあるまい。

 彼が夜一人で外を出歩いていること自体にはなんの問題もない。むしろ魔族は本来闇の中で生きる種族なのだから自然といえば自然だ。

 問題なのは……ギラヒム様が座っているのが、あの杭の前ということ。
 彼に声をかけるべきか否か。崖の淵でうろうろ悩む私は傍から見れば不審者以外の何者でもないだろう。

 しかし先ほど私の目が覚めてから彼を見つけるまで、もしくはその前から彼がここにいたことを考えると“あまり時間の猶予がない”のだ。
 無論主人がそのことを忘れるはずがない。けれど不安は嫌でも付き纏ってしまう。

 ……とりあえず、降りてみよう。
 数パーセントくらいの確率で彼があそこで眠っているということもあり得るのだから。
 無理矢理な根拠で決心をし、私は目の前の螺旋に向けてゆっくりと足を進めた。

 ──瞬間、

『──メ……の……、』

「……?」

 その足取りは数歩で止まる。柔らかく吹いた風に乗せて微かに聞こえたのは誰かの声……もしくは声というにはあまりにも無機質な単音だった。
 それでも直感的に声だと判断したのは、同時に纏わり付く視線を感じたからだ。

 ──誰かに見られている?
 背後に広がる木々を睨みつけながら、呼吸を止めて私以外の生命の気配を探す。その気配の主が誰であれ、私たちに対し好意的である可能性は残念ながらごくわずかであろう。
 動きがあるならば即座に応戦できるように、臨戦態勢をとりながら視線の出所を探る。その沈黙は数十秒、もしくは数分に渡り続いた。


「────、」

 武器においた手を私が緩めたのは数度目の風が吹き抜けた時だった。先ほど感じた気配は薄く残っているもののそれは一向にこちらへ動き出さない。動物か何かがその場にいるだけ、なのかもしれない。
 ピンと張っていた警戒の糸をほんの少しだけ緩めるが、見せた隙に食らいつく獣は現れない。

 やっぱり気のせいだったのかもしれない。私は最小限に留めていた息を一度深くついた。……その時、

『──女神の子』

「へ」

 間抜けな声をあげたのは他でもない、自分自身だった。
 私を呆然とさせたのは無機質な声が発したその言葉と──今まさに立っていた足場が崩れ、数十メートルはあろう螺旋の底へ真っ逆さまに落下している状況だった。

 見えない敵から急襲を受けたわけではない。単純に自ら足を滑らせて、ノーガードで頭から落ちて負傷……なんてマスターに知られたら呆れを通り越して一生に渡って罵られる……!

「──!!」

 そんな場違いな心配事を巡らせたのは時間にしてみれば数秒の出来事だったことだろう。所謂走馬灯、というやつだったのかもしれない。
 咄嗟に身を捻って少しでも人体の急所から痛みを遠ざけようとした私の体には、いつまでもそれは訪れなかった。

「…………?」

 本能的にぎゅっと瞑った瞼を静かに持ち上げると、そこには美しさを保ちながらも私の背筋を凍らせる──つまりやや苛立ちなさっているギラヒム様の姿があった。

「……覗き見だけでなく俺の思案の邪魔までするとは随分威勢がいいな、リシャナ?」
「ま、マスター……」

 ……私は最悪なタイミングで最悪な助けられ方をしてしまったらしい。
 主人に抱きかかえられたまま崖の上を見上げるけれど、距離が離れてしまったこともあり先ほどの視線、もしくは声の主が追ってくる気配もない。本当にその主がいたとしても、標的がいきなり自滅したのだからさぞや驚いていることだろう。

 主人への言い訳と、やはり覗いていたことがバレていたという自身の浅はかさが脳内を巡って口を噤んでいる私へ、ギラヒム様は舌打ちを一つ漏らす。
 しかし罵られることもお仕置きを受けることもなく私は地面へと下ろされた。ご機嫌は下向き加減だけれど、恐れていた罰はどうやら与えられずに済んだみたいだ。

 螺旋の上にまだいるかもしれないあの気配の主のことが気になりはしたけれど、再び杭と向き合い座り込んだ彼を放ってはおけず、ひとまずその隣に腰を下ろす。

 私がここへ来た理由は言わずとも察されているのだろう。私へ何かを問うことはなく、彼は唇を引き結んだまま双眸へ古びた杭を映した。


「──マスター」

 静寂はどれほど長いものだったのかわからない。そしてそれを破ることは罪深いことだったのかもしれない。
 だが彼の怒りに触れてしまう覚悟を乗り越え、私は口を開いた。

 彼は何も言わないまま視線だけをこちらへ寄越す。私は自身の膝を抱えていた手のひらをぎゅっと握った。

「……さっき、素、出てました」

 ギラヒム様はその言葉にほんの少しだけ目を見開く。
 やはり無意識だったのだろう。……というより、気にする余裕がなかったのかもしれない。

 主人の口調も所作も、本来のモノではないと私が知ったのは決して少なくない時間を共にしてからだった。
 魔王様にとって至高の存在でなくてはならない。……それはいかなる時でも。
 その義務感は魔王様が封印された今でも彼の中に顕在しており、隠された素を見せるのはごく稀のことだった。

 だから私が指摘してしまった事実も、口に出すのは賭けだった。主人の内側に自らの手で触れることは本来ならば部下の身である私には許されないことなのだから。
 ……ただ、傷だらけになったとしてもその手を伸ばすべきだと、この時ばかりは思ってしまった。

 彼の逡巡はわずかながらも私に伝わる。しかしその双眸に拒絶の色が灯ることはなかった。

「……このワタシが、迷う訳がないだろう」

 それだけを返し再び彼の視線は憐憫と寂寥感を滲ませ、静かに佇む杭へと戻る。
 否、その目が見つめるのは──そこに封印された彼自身の主だ。

 ここはかつての聖戦における決着の地。
 そしてあの杭は──魔王様の魂を縛り付けた封印の石柱だ。
 ギラヒム様にとってここに来ることはつまり、自らの主に逢いに来ることと同義だった。

 同時にその行為は本来危険を伴う。聖域を空に移したとはいえ魔王様復活は女神陣営にとって決して許してはならないこと。故にこの封印の地は女神の兵隊──この地の精霊や亜人たちによって今でも監視されており、私たちも長い時間ここにはいられない。私が危惧していたタイムリミットはそれだった。

「じきに戦争が始まれば、ここへ足を運ぶことも容易に出来なくなる。だから今来た。……それだけだ」

 ──戦争が始まれば。
 私たちが今していることはその導火線を燃やしていくことに等しい。遠くない未来、火蓋は切って落とされる。
 そうなればこの地は女神にとっても魔族にとっても火種どころか爆薬そのもの。導火線から昇る煙が濃くなれば、安らぎの地で静かに思いを馳せるなんてこともままならない。

 だからせめて、戦争が始まる前の今くらいは監視の目なんていう雑音のないまま彼がここにいられたらいいのに。……そんな願望は絶対に口には出さない。出してはいけない、気がするからだ。

「──追い求めるだけの時間は、少しばかり長すぎた」

 彼の言葉は独り言なのか、私に向けられたものなのか。どちらにせよ私から返せることは、何もなかった。

 命にも代えがたいヒトが消えて、もたらされた消失感や絶望感。引き換えに、悲しみの海に浸る時間すら許さないよう天から垂らされた一筋の希望という名の糸。

 魔王様はまだいる。封印さえ解ければ──また逢える。

 たった一つの糸のために彼は生きた。無限の砂漠に埋もれた糸を探して、手繰り寄せて、断ち切られてしまわないよう守って。気の遠くなるくらい、頭のおかしくなるくらい、長い長い時の中。
 ギラヒム様にとって天から垂らされた希望の糸は……化けの皮を被った神からの呪いなのではないのだろうか。

 ──そこまで考えてしまった自分を酷く戒める。それはあまりにも残酷で、冒涜的ですらあるからだ。

「────」

 私は言葉の代わりにギラヒム様の白く華奢な指先に触れる。小さく震えた彼の手がそれを拒むことはなく、固く結ばれていたはずのそこは痛みを感じるほどに冷え切っていた。

「マスター、手、冷たいですよ」
「知っている」
「このまま夜が更けてもっと寒くなったら凍え死んじゃいます、魔族でも」
「……そんな間抜けな死に方をするのはお前だけだろう」

 封印の地を吹き抜ける風は早くここから立ち去れと警告するかのように冷たい。
 今ここにある温もりは唯一、彼の手と触れている場所だけだ。

 私はただ一つの温度を離してしまわないよう緩くそこを握り、瞼を閉じる。


「私が死ぬ時はマスターの手にかけられるか、マスターが魔王様と会えた後ですから」


 数瞬、彼の目に微かな驚きが走ったような気がした。しかしそれはほんの刹那の出来事で、その表情にはいつもと同じ嘲笑が浮かぶ。

「……ついさっき足を滑らせて無様に死にかけたくせにね」
「そ、それはノーカウントというか……結果死んでないからセーフというか……」
「屁理屈とは余裕だね。ワタシは帰った後に間抜けな犬へのお仕置きをしなければならないというのに」
「ひっ……」

 やはりそこは見逃してくれないらしい。恐怖で固まる私を置いてギラヒム様は立ち上がる。
 そして彼と、その後ろ姿を追う私も、沈黙を保ち佇む石の杭を振り返ることはなかった。

 ──そこに愛がなくてもいい。
 万が一、兆が一。次の数千年がくるのなら。
 魔術師でも呪術師でもなんでもいいからヒトとしての体を壊してしまって、ギラヒム様と共に生きられる体にでもしてやろう。
 ……そんな冗談か本気か自分でもわからない思考は置いておいて、私は主人の隣に並ぶ。

 私がすべきこと、出来ること。──それはやはりあの場所にある。
 本来なら煌々としているはずの月明かりも、瞬く小さな星も、子どもの意地悪のように隠してしまっている分厚い雲。
 私はその先にある地を、静かに見据えた。