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真影編12_真影



 ──誰かが泣いている。

 その人は全てを恨んでいた。全てを嘆いていた。
 無関心で無感情で、使命にのみその身を捧げていた訳では決してなかった。
 ただ、心の奥底で澱んでいた黒い黒い感情たちがついにこの時まで顕れることがなかったという、それだけの話。

 そうまでしてなお、呪いの言葉としてそれらを舌に乗せることはしない。
 長い時間流さなかった涙を留めることなく、無力感に苛まれながら呆然とするだけ。
 その人は涙の流し方を知らなかったのかもしれない。

 私の意識は姿形を成さず、そこに在った。

 その人の涙が落ちる。
 落ちた瞬間は温かいのに、肌を撫でて伝うと痛みを感じるほどに冷たい。
 露わになった黒い感情は、愛する者に向けているのか、憎む存在に向けているのか。伝った涙からは読み取れない。

 震える指先が濡れた私の頬を撫でる。
 柔らかいけれど、ところどころ固くて、おそらく何度も剣を振るった指。
 眠る私は四肢を動かすことは出来ないけれど、その指がまつ毛を掠めるとぴくりと瞼が揺れた。

 たったそれだけのことにひどく驚いたようで、その人は再び涙を落とした。
 心地よい指先はゆっくりと私から離れていく。

 そして、その人は喉を締め付けながら、小さく唇を震わせる。

『ごめんなさい』

 何故か私も、悲しいと想った。


 * * *


 ゆるく瞼を開き、最初に飛び込んできたのは一面真っ白な世界だった。比喩でもなんでもなく、ひたすらに白い。
 今度は一体どこに連れてこられたんだろうと少しだけうんざりしたけれど、視覚以外で──たとえば肌で感じる仄かな温かさは決して嫌なものではない。むしろ心地よいと思ってしまう。

 ならばきっと悪い場所ではないはす。なんて根拠も理屈もない安心感に包まれていると、ぼやけていた白色は唐突に何者かに奪い取られた。

「リシャナ」

 名前を呼ばれて数度まばたきをし、徐々に色を取り戻した先にあったのは──どこか懐かしさを感じる、愛しい主人の顔だった。

「……ますたー」

 主人の敬称を一音ずつ舌で確かめるように口にして、私の頭はようやく状況を理解し始める。

 周囲の景色や漂う魔力から察するに、私たちはあの精神世界から元のフィローネの森へと帰って来られたようだ。
 さっきまでの真っ白だった視界は、現実世界でずっと両眼を覆い隠していた包帯によるもので、主人の手でそれは取り去られたらしい。
 体はずっと眠ったままだったはずなのに、疲弊した精神と呪いに振り回された体は鉛のように重い。

 そして最後に気が付いたのは、私の両眼に視力が戻っている、ということだった。
 ダークリンクにかけられた呪いは精神世界で網膜を貫くことにより、解くことが出来たようだ。

 たった数十時間だったけれど、その間の視界は一方的に誰かから与えられるものだったため、いまいち実感が湧かない。
 ただ、ぼんやりとした視界で一つわかることがある。

「……綺麗なお顔ですね」

 脳を介さず呟いた私の言葉に、ギラヒム様はわずかに目を見開き、呆れたように苦笑を返した。
 主人の細い指は私の前髪を払い、そのまま頬を通って顎を伝う。そうして真っ向から交わった彼の視線は、今まで見えなかった分、とても愛おしく感じる。

「今まで見なかった分のお仕置きは、帰ってからにしてあげるよ」

 それだけを告げ、主人は抱いていた私の体を地に下ろした。

 ギラヒム様の姿はサイレンに入る前と変わっていない。
 しかしあれだけ魔力を使い、精神を揺さぶられたのだ。外見以上に体は消耗しているはずだ。早く帰って処置をしなければならない。

 ──そうして主人に視線を送っていると、背後から深い呼吸音が聞こえて私は振り返った。

「ッ……ふざけんな、」
「……!」

 荒い吐息混じりに吐き出された呪詛。
 そこにあるのは、視力を取り戻して初めて見るダークリンクの姿だった。

 呪いが解かれた反動なのか、外傷がないのに口の端からは血が流れ、地面を濡らしている。
 歪んだ赤い目は苦痛に塗れながらも憎悪に満ちて、敵意を宿した視線を向けていた。

 しかし私はもう、その目に恐れを抱くことはない。
 あるのは、自覚を超えた先にあった彼への理解。そして、皮肉にも深まった同族意識だった。

 ギラヒム様が何も言わないまま前へと出る。
 音もなく抜いた魔剣は精神世界で使っていたものとは違う、正真正銘の鋼の刃だ。
 私の目の前で掲げられた刀身は、手出しをするなと声もなく告げている。

 対するダークリンクも、震える手で黒い剣を抜く。
 鈍い光を放つ刃は美しい軌跡を描く。最後に残された抗うための手段を示し、影はたった一言だけ、吐き捨てた。

「──嘘吐き野郎」

 瞬間。その言葉に、呪いから解放されたはずの目の奥が痛んだ気がした。
 嘘を吐いた記憶などなかった。それでも深層心理を弄られるような残響を持った影の声音は、私の奥底に深く刻まれた。

 ダークリンクの剣が持ち上がり、赤色は真っ直ぐに前を見据える。
 対する主人の手の鋼が弧を描き、最後の一閃を迎え撃つため、切っ先を一直線に向ける。

 命を賭した意地の張り合いの幕切れを。
 願いを叶えるための戦いの区切りを。

 全ての音が途絶え、閃光のように二つの剣が交差して、

「────、」

 ダークリンクの鮮血が、宙を舞う。
 耳を微かに撫でるだけの、刃が肉体を裂く音が、戦いの終焉を告げた。

 ダークリンクはその目の色と同じ赤い血を滴らせながら、糸が切れたように地に倒れ伏す。
 その姿を背に、魔族長は血で濡れた魔剣を音もなく収めた。

 命を削って得るものも、心を貫いて失うものもない。
 ただ、心の奥底で抱えていたものを視て、自身の本当の肖像を知る。

 そのための戦いだった。
 そうして、幕を閉じた。


 *


「…………、」

 二つの剣閃の交じり合いを見届けた私は、頬を撫でた森の暖かな風によってようやく思考を取り戻す。

 何も言わず少しだけ考えて、倒れたダークリンクの元へと歩み寄った。
 振り向かないままの主人は、数秒の彼との対峙を許してくれているようだった。

 近づくと、地に横たわったままのダークリンクが赤い視線を寄越す。弱々しい光をたたえる赤い目から、もはや感情は消え失せていた。

「……満足かよ」

 血に濡れた唇を薄く開いて、ダークリンクが問う。
 私はその場に跪き、影が持つ赤色を真正面から覗き込んだ。
 赤の中に映り込む自身の目の奥には、戦いの終焉を迎えて自覚を得た深い影がある。

 ──過去に縋るな、足元を見るな、前だけを見ろ、なんて、私たちにはあまりにも残酷な言葉だ。
 縋るものでもあり目を背けたいものでもある過去の記憶に触れて、足掻いて、やがて自分のための結論を出す。それを愚かだと言う権利など誰にもない。
 その目で視た景色を肯定出来るのも否定出来るのも、結局は自分だけだ。

 過去に対する結論を抱きながら、たとえそれを永遠の寄る辺としても。
 生き続けるのは他でもない自分自身なのだから。

 だから、どこか悲しいこの戦いの結末も忘れない。
 その先に待ち受けるものが誰かの決めた残酷な道筋でも。
 私たちは願うことをやめはしない。

 そして私は、影と赤色を見据えたまま、静かに囁いた。

「──私たちも、幸せになりたいね」

 影に、鏡に、理解をし合う同族に。
『半端者』の、あまりにも些末な願いを。

 ダークリンクは目を見開き、一拍置いて、ほんのわずかに口元を緩める。
 どこか呆れを感じさせる、小さな笑みだった。

「本当に、殺してやりたいくらい……バカなやつ」

 影はそれだけを言い残し、手繰り寄せるようにすぐそばの水溜りへ手を伸ばす。
 水に触れた影の姿は、闇に溶けるように呑まれ、やがて霧散した。

 影が去った後の水溜りは、彼が流した血と泥で濁り、もはや何の像も映さなくなっていた。

「……嘘吐き野郎、か」

 いつまでも耳の奥に居座る言葉を小さく呟く。
 顔を上げない私に向かって、何も言わないまま振り向いた主人の感情は読み取れない。
 それでもその視線に見守られている感覚を微かに抱きながら、私は一つだけ弱音をこぼした。

「……今までで一番、傷ついたかもしれないです」

 ふと、主従の間を一匹の青い蝶が訪れた。
 蝶は淡い光を放ちながら、くるくるとその場を舞う。
 やがて空に向かってふわりと飛び、どこかへ去っていった。

「帰るよ」
「はい、マスター」

 色彩に染まる森へ、木々の合間を縫うように風が吹き抜けた。


(231111改稿)