series


真影編10_倒影



 守護者の手を真っ二つに断ち切った閃音は、最後の戦いの始まりを告げる。

 その手から解放され、跪いたリシャナの前に立ったのは、大剣を片手にした魔族長、ギラヒム。
 地面に巨大な刃を突き立てた彼は、鋭い敵意を影へと向けた。

「……魔力でつくった剣、か」

 余裕を見せていたはずのダークリンクの、驚きを隠しきれていない呟きがリシャナの耳に入る。
 ダークリンクが口にした通り、ギラヒムの手にあるのは実際の武器ではなく魔力を結晶化してつくった刃。命を削った、精霊としての力だった。

 ダークリンクは剣呑な空気を纏ったまま、嘲笑うように鼻を鳴らす。

「まさかあそこから出てこられるとはなァ。随分と傷だらけの姿になったみてぇだが」
「……ああ、良い悪夢だったよ」

 赤色の挑発的な視線を真っ向から受けたギラヒムは、それに対し低い声で返す。
 彼は片手で大剣を引き抜き、その切っ先を影へと向けて、

「お前ごと、この空間をぶち壊してやりたいくらいにね」

 冷静な声色に紛れ、煮え滾る怒りを滲ませた魔力が周囲の者の肌を焦がす。
 そしてリシャナは理解する。主人が今、離れる前とは比べ物にならない魔力を解放していることに。

「マスター……!」

 堪えられず、その後ろ姿に向かってリシャナが呼びかける。ギラヒムは何も言わずに振り返り、一拍置いて部下の元へと歩み寄って、

「だいじょ……ぶぇッ!?」

 唐突に部下の首根っこを掴んで地面へうつ伏せに転がしたと思えば、容赦なく足でその背を踏んづけた。
 踏まれたリシャナの背骨から、嫌な音が聞こえた。

「な、な、何でですか!?」
「勝手に主人から離れて手を煩わせた罰に決まっているだろう。これでも足りないくらいだ」
「そんな理不尽な!!」

 足りないとは言うけれどさすがに敵地で、しかも敵対している相手の目の前で踏まれたリシャナの心が折れかける。
 とは言え主人がものすごく苛立っているのもわかるため、反論も抵抗も出来ない。

 片足で踏んづけられ弄ばれ、痛みより羞恥に負けてリシャナが間抜けな悲鳴を上げていると、

「……それから、」

 ギラヒムが薄い唇を震わせた。
 顔を覆っていたリシャナは、主人の声音の変化に誘われるように視線を上げて、

「ワタシを引き摺り上げた、罰だ」
「……?」

 その言葉の真意は、きっとリシャナの目が見えていたとしてもわからないものだっただろう。
 それに対しリシャナが言及をすることはない。ただ、その声音にはどこか寂しげな響きがあるように思えた。

 ようやく主人の足から解放され、リシャナが腰をさすりながら体を起こしていると、主人のものでは無い呆れたようなため息がこぼれる音がした。

「……傷の舐め合い、ってやつか」

 唸るように呟いたのはダークリンクだ。
 影と魔族長、両者の間で殺気を孕んだ視線が交わされる。彼が吐き捨てた皮肉は、ギラヒムにだけ伝わった。

「……つまらない『運命』の妄執に捉われているよりマシだろう」

 低く返し、地面に突き立てられていた大剣をギラヒムが引き抜くと、対するダークリンクは自身の漆黒の剣を抜いた。

 ──今から始まるのは、ただの意地の張り合いだ。
『運命』に抗いながら苦しむのか、誰かのために自身を殺すのか。
 どちらの生き方も正しくて、間違っている。
 だからこの場での正義は、生き残った者に与えられる。

「終わらせてやる」

 そう、影が獣のように唸ったのを皮切りに。
 両者は剣を携え、真っ向からぶつかり合った。

「──!!」

 森へけたたましい金属音が木霊する。一度大きく響いたそれは次いで細かな火花を散らしながら何度もぶつかり合う。
 その中で主人の魔力が何度も弾けているのがリシャナにはわかった。
 瞬間移動を駆使して戦っているギラヒムと、人間を超えた瞬発力でそれを追うダークリンク。あちこちで魔力が破裂しながら、金属同士がかち合う甲高い音が響き渡る。

 傍目に見れば、ギラヒムの一方的な攻勢だった。剣の技術の差もさながら、大剣の重みを全て乗せた剣撃でダークリンクを狙い撃つ。
 ……が、刃が打ち合う度、ギラヒムの魔力が音を立てて塵となっていく。離れる前に比べて安定はしているものの、その減耗の激しさにリシャナは危機感を覚えていた。
 早くこの戦いを終わらせなければ、彼の命そのものが欠けてしまう。

「逃げてばかりで、このワタシに勝てると思うな……ッ!」
「ちぃッ……!」

 一際大きな風切音が高鳴り、遅れて地が巨大な刃に削り取られた。
 宣言通り、ギラヒムはこの地ごと影を刈り取るように剣撃を与えている。
 しかしダークリンクはそれをギリギリのところで躱し、決定打は与えられていない状況だ。

 ダークリンクが押し負けるのが先か、ギラヒムの魔力が尽きるのが先か。
 どちらにせよ、戦いはきっと長くは続かない。

「ッぜぇんだよ……!」

 追撃を即座に切り返し、距離を取ったダークリンクが苛立ちを露わにしながら口を開いた。

「お前も見たんだろう? 過去の聖戦も、今も、同じ道をたどってるってッ!!」

 影の咆哮にも似た言葉にギラヒムが数秒口を噤む。
 ギラヒムは答える前に一度大きく剣を振り、突き穿つように一気に距離を詰めて、

「ああ、見せられたよ。心底不愉快なことにねッ……!」

 重い一撃に、ダークリンクは小さく苦鳴を上げる。が、正面からそれに耐えきり、重圧を掻い潜って刃を弾き返す。

「何故そう知った上で逆らわない? このまま進めば魔王はまた封印されるだけだって言うのに……!」

 ダークリンクがそのまま退いたことにより、睨み合う双方に間合いが生まれる。
 戦闘の間の不穏な静寂。ダークリンクは激情に蓋をした声で、それを破る。

「それだけじゃない」

 続く言葉に、主人を見守る部下は息を呑んで、

「……今度はお前ごと、消えるかもしれないって言うのに」

 ギラヒムはダークリンクのその言葉の意味を理解しながら、何の反応も返さなかった。

 それは主従にとって、心のどこかに押し込んで考えないようにしていた結末だった。
 たとえダークリンクの言う通り、女神と魔王が幾重もの時代で繰り返し争っているということが本当だとしても、その駒たちも同様に輪廻を繰り返すとは限らない。
 つまり、此度の戦いでギラヒムが命を落とす可能性だって、充分にあるのだ。

 彼にとってそれは承知の上なのだろう。再び大剣を持ち上げた声音に動揺はない。

「この戦いの果てに自分の命がどうなるかなんて、そんな興味はとうの昔に捨てた」
「────、」
「ワタシが考えるべきはあの方の復活。唯一、それのみだッ!!」

 ギラヒムの刃が空気を穿つ。猛攻がダークリンクの細い剣を襲い、拮抗した力の差が一方に傾こうとする。もはや、防ぎきれない。

 ──そう思われた、時。

「──ッあ、」

 剣を交える二人から離れた場所にいたはずのリシャナの目に焼けるような痛みが走り、思わず目蓋を覆った。
 両手で目を抑えつけるが、熱は引かない。目の周りだけが意志を持った何者かに焼かれるような感覚。
 そして痛みに跪いたリシャナの前に、小さな足音が落ちて、

「リシャナ」
「……!」

 名を呼ばれるまま、顔を上げる。
 目の前で名を口にしたのは、先程まで離れた位置で戦っていたはずのダークリンクだった。
 いつのまにか目の前に立っていた彼は振り向かぬまま、静かに告げる。

「──俺はお前を、諦めてやらない」

 時間にしてみれば、数瞬だった。
 その言葉が主人に聞こえていたか否かはわからない。しかし、止まった時間が動き出したように、ダークリンクが一直線に獲物に向かって駆ける。

 影の速さと重さを乗せた一閃は、ギラヒムの大剣を凌駕し、攻撃を届かせた。

「──ッ!」
「マスター……!!」

 細く、浅い呼吸音を耳にし、リシャナは目を見開いて主人を呼ぶ。
 ギラヒムは一つ舌打ちをこぼし、瞬時に体勢を立て直してダークリンクの追撃を払う。その動作の間も彼の魔力は不安定に波打っていた。

 やはりここがダークリンクの庭である限り、ギラヒムは充分に動けない。
 影の力を封じるか、ここから出るか。もしくはリシャナ自身が視力を取り戻さなければ。

「…………」

 リシャナは未だ尾を引く痛みを抑えながら、思考を巡らせる。

 主人と初めて戦った時。ダークリンクは水を媒介し、姿を消しながら敵を翻弄していたという。
 大雨の後の水溜りを制すれば攻撃を防げたはずだが、あの時リシャナが合流した瞬間、ダークリンクが姿を現したのはギラヒムが飛ばした短刀からだった。
 そこまでで予想したのは、ダークリンクは水だけでなく短刀のような無機物の中でもくぐり抜けられるということ。

 しかし主従が隔離される前。そして今。
 主人は短刀の召喚をしておらず、探ってみてもリシャナの周囲に水溜りはない。
 なのにダークリンクは二度、リシャナの近くに姿を現した。熱を伴う両眼の痛みと共に。……それならば、とリシャナは思い至る。

 ──ダークリンクは、私の眼の呪いを使って移動している。
 ならば逆に、私が彼を止めることも出来るのではないだろうか……?

「そろそろ限界かァ? 魔族長サマッ!!」
「ッ……!」

 ダークリンクの黒い刀身が描いた軌跡は真っ直ぐに大剣へ振り落とされて、鮮やかな金属音を鳴らす。
 一度で終わらない。ダークリンクが身を翻し、二度、三度とそれは続く。

「俺はお前たちを、絶対に認めてやらないッ!!」

 感情の全てを叩きつけながら、影は猛攻を浴びせる。
 互いに互いを斬り伏せ、両断し、意志すらも断ち切ろうと二つの剣は交わされる。命を削りながらも、魂に刻み込まれた戦う理由だけは失わないまま。

「……私は、」

 そして戦う二人を前に、リシャナは自分のあまりにも不安定な足元を自覚した。

 ──私はギラヒム様のために生まれたという、与えられた理由に縋って生きている。
 その理由をもし失ったのならば、私はたちまち自分を見失ってしまうだろう。
 対し、ダークリンクは定められた自分の『運命』へ反駁し、自らの意志で生きようとしている。

 だから彼は、私と同じだけど違う。
 本当は抗うべきで、自分が何をすべきか考えなければならない。彼の言う通り、彼の共犯者となり声を上げるべきなのかもしれない。
 そう。私は与えられた『運命』に沿って生きているだけだ。

 私は影を覗いて、弱い自分を知って、鏡写しの自分を見せられたのだ。

「──鏡」

 小さく呟き、リシャナはある存在を思い出してそれを手で探る。
 指で触れると、それはこの精神世界においてもたしかに存在していた。まるで誰かの手によってあらかじめ用意されていたかのように。

 影に対抗するための手段は、もはやこの一つだけだった。

「…………、」

 手の中のそれを握って、ゆっくりと瞼を下ろす。
 視界に変化はないが、代わりに少し前に向き合った赤い目が浮かぶ。

 まだ、少しだけ迷いはある。
 ダークリンクが言った、『神の遺産』を壊して与えられた『運命』をひっくり返す可能性。
 でも、やはり私の答えは変わらない。変えられない。……これは、決意と言うべきなのか、それとも。

「ッぐ──!」

 瞬間、ダークリンクが真横に薙ぎ払った斬撃によってギラヒムの魔力が砕け、霧散する。
 主人の名を叫んでも、今のリシャナには駆け寄ることすら出来ない。視界を取り戻して、なんとも浅く出来た自分を視ない限り。

 覚悟とともに顔を上げたリシャナがケープから取り出し、握ったのは──空で少年から取り上げた、冷たい銀色のナイフだった。


「……リシャナ?」

 ギラヒムの少しだけ驚いたような声が背後から聞こえる。気配と魔力をたどって足を進めた先にいるのは、黙ったままのダークリンクだった。
 リシャナは自身がもたらした静寂を、自ら破る。

「……認める。君が言う狂った存在も、私自身の根底の浅さも」

 リシャナが眼を向ける先で、影の赤い目がどんな感情を浮かべているのかはわからない。
 ただ、これから告げようとしている答えを予期して歪んでいるのだろうと、なんとなく伝わった気がした。

「敷かれた道だけを歩くことが、本当に正しいのか。私にはまだ、胸を張って否定できない。……でも、」

 それでも、自分自身で断ち切らなければならない。呪いを。与えられた泡沫の希望を。

 自分の眼で、この物語の終わりを視るために。

「きっと私には、これしか選べない」

 リシャナは手にしたナイフの切っ先を、自身の眼に向けた。

「私は、マスターのための自分でいたい」

 影と、主人の息を呑む音が聞こえる。
 だが、魅入られたかのように動けるものはいない。

 ダークリンクの能力はおそらく、鏡のように自分が映る場所へ潜り込むというものだ。
 呪いから解放されるには、鏡写しの自分を叩き割るようにそれを壊すしかない。

 呪いをかけられた──彼の姿を映した、網膜を。
 
「マスター」

 リシャナは唄うように、主人の敬称を口にする。
 視えぬまま彼の視線を感じて、小さく笑みを浮かべた。

「すぐに帰ってきます」

 真っ暗で、何もかもが止まった数瞬の世界で、愛しい主人が名を呼ぶために小さく喉を震わせる。
 リシャナはその前に、冷えた金属を握る手に力を込める。

 おそらくこの先もたらされるのは痛みでなく、自己が崩れてしまうほどの過去の渦なのだろう。
 けれど彼方に待つ人がいるというのなら、私はそれすら受け入れる。

 鏡を貫く直前叫ばれた名前は、どちらの声だかわからなかった。


 そして彼女は手にしたナイフを、



(231105改稿)