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真影編8_御影



 遠く、遠く無限に続く水面。
 青く、青く透き通って永遠に広がる空。
 雲一つないこんな空を最後に見たのは、気の遠くなるくらい昔の話。

 一面に広がる水は鏡のように、突き抜ける青空を映している。一見すれば、空に一人立ち尽くしているような感覚。

 足首まで浸っている水に温度はない。
 覗き込んでも水の底は見えず、何故ここに立てているのかはわからない。浅くも深くもない透明な舞台だった。

 ここにいつから立っているのか。あるのは、ここへ訪れるのは初めてではないという郷愁にも似た感覚だ。
 以前ここへ来たのは、いつだったのだろう。
 頭の中の記憶の糸を手繰ろうとするが、その片鱗すら掴むことが出来ない。

 ただ少なくとも、自分の戦う世界から蒼穹が奪われる前だったのだろう。
 見慣れてしまった灰色の雲はひと欠片もここに浮かんでいない。

 何もかもが曖昧で、何をする訳でもなく青い世界に佇んでいると、やわらかな風が頬を撫でて誘われるように顔を上げた。

 ──そして目にした光景に、全てが奪われる。

「────」

 視線の先にはただ一つの存在があった。
 それだけの事実が、空漠たる意志の全てを奪い去り、呼吸を止める。
 その存在がいつからいたのか、考える余裕も与えられなかった。

 全身を満たしたのは、哀しくなるほどの喜び。
 何度も何度も瞼の裏に描いた後ろ姿だった。至高の存在。自身が魔族長として、剣の精霊として戦う理由、そのもの。

「──魔王、様?」

 敬称をこぼした唇はそれ以上言葉を紡ぐことはなく、ただ小さく震えるだけだ。得体の知れない、持ったことのない感情に胸が締め付けられる。
 何故、ここに。そう聞いてしまえばたちまちその姿が掻き消えてしまうではないかと、根拠もなく慄然としてしまう。

 あの方がこちらへ振り返る事はない。
 寂寥感に駆られ、堪えきれず再び呼びかけようとしたその時、

「……!」

 一歩ずつ、あの方は足を進め出した。

 途端、その影を再び失う恐怖が身を支配し、衝動的に後を追いかけた。
 蹴り付けた水が飛び散り、足を濡らすが構うことはない。
 誇り高き後ろ姿を追う、懐かしい感覚。濡れる足の不快感すら今は愛おしい。

 あの方がどこへ向かおうとしているのかはわからない。
 それでも、ずっと探していた御影にあと少しでたどり着くという実感に、何もかも放り出してしまいたくなる安息を抱く。

 答えがなくても、顔が見えなくてもいい。
 あの方の影を追うことが出来れば、それで。

 空と水の世界は主従を飲み込み、静かに閉じていく。
 世界は徐々に色彩を失い、いつしか青の光景から見慣れた森の風景へと移り変わる。
 軽快に駆けていたはずの足は、その先に待つ果てに怯えるかのように、竦んだものへと変わっていく。
 どこかから血と火薬の匂いが漂い、無限に広がっていた青空が分厚い雲に覆われ始め、鬱蒼とした木々の向こうに剥き出しになった地面が見えてきた。

 しかし、歩みを止めることはない。
 この先の光景を見たくないと、本能でわかっていたとしても。足は一心不乱にあの方の姿を追い、御影を求めて、動き続ける。

 やがてその果てに、行き着いたのは、

「────」

 底に一つの杭が穿たれた、深い深い穴。

「──……ぁ」

 そこまでたどり着いて、ようやく気付いた。
 あの方の御影が誘うその先に、輝かしい未来は待っていない。これは自身がたどった過去の道のりの、始まりに過ぎなかったのだ。

 幸福な時間は終わりを迎え、空虚な時間を重ね、道標のない道をひたすらに歩む。

 ただ、それだけの。
 長い、長い。無限の砂漠の始まりにすぎなかった。


 あの日と同じ慟哭が、冷たい穴の奥底にまで響き渡った。


 ◆◇◆◇◆◇


 ──後の世界に語り継がれた大戦と呼ばれるべき争いは二つある。

 一つは魔王軍によるラネール陥落。女神と魔族の争いが始まって以来、最も大きく、最も早く決着のついた争いだった。
 この戦争には現地と他地方の騎士団だけでなく、王家直属の近衛騎士たちも加勢し、女神軍の総力をあげて魔族の侵攻に備えた。
 が、一夜にして女神の戦線は壊滅。女神軍の犠牲は数千人にも上り、三大拠点であるラネール地方および時の神殿は呆気なく魔族の手に落ちた。

 もう一つは女神軍と魔王軍の聖地をかけた最後の戦争。
 互いの身命を賭した戦いの果て、人間は切り離された聖地とともに魔族の手が及ばない空の世界へと逃げ延びる。そして女神と『勇者』の手により、魔王はかつて聖地が存在した跡である大穴の底に封印された。

 これら二つの戦争は、空の世界では遠い過去の神話として、大地では歴史に刻まれた分水嶺として語り継がれていた。

 その歴史の裏側で、大地では三つ目の戦争が起きていた。
 聖地を空へと手放し、人間のいなくなった地で行われた亜人族と魔族の争い。魔王軍の残党を消し去り、魔族を殲滅させるための戦争だ。

 魔王という絶対的な存在を失った魔物たちは統率に欠け、抵抗及ばず亜人たちの手により掃討される。
 上位兵による死の間際の号令に従い、魔物たちは指先の一本が動かなくなるその時まで戦い続けたが、そのほとんどがラネールの地下墓地へと葬られたのだ。

 大地に残った者にとっては、これが女神と魔族の争いの、本当の終焉だった。


 ──その最中。魔王を失ったギラヒムが、第三の戦争に姿を現すことはなかった。
 彼は聖戦で『勇者』に敗れてから数十年、歴史の表舞台から姿を消していたのだ。

 彼が聖戦の際に女神軍から受けた傷は深く、魔王の力を使わず癒すにはあまりにも長い時間が必要だった。そんな彼が亜人族の前に姿を現せば、間違いなく地下墓地へと葬られてしまう。……主の最後の願いを、叶えられなくなってしまう。
 故に、一人取り残された彼は封印の地を見守りながら、封印を解くための手がかりを探し続けた。

 気の遠くなる時間だった。自身の傷を癒やしながら、封印を見張りながら、細く長く続く空虚な日々。
 それはいつしか、かつての聖戦で武器を持った亜人の戦士たちが寿命を迎え、魔王と女神の物語が過去の逸話──あるいは御伽噺として語り継がれる頃にまで続いた。

 三度目の大戦の際にほとんどが失われた同族たちも、その頃には数を増やしつつあった。だがそれらは魔王の存在を直接的に知らず、種族としての血に刻まれた生存本能に従うためのただの獣でしかなかった。
 それでも、魔王の封印を解くためには力が必要だった。ギラヒムは獣たちを力で支配し、懐柔させ、再び軍を成した。ただ、魔王を復活させるために。

 しかし、魔王という記号を失った魔族にかつての勢力は宿らない。
 封印の地では、水龍フィローネが女神から授かった力を使って巨大な氷柱を立てていた。
 ギラヒムは集めた魔物たちを率いて、氷柱を壊すためにフィローネに立ち向かうが、歯が立たぬまま返り討ちにされた。

 ならば、と彼は自身の魔力と何千もの魔物の命を犠牲にし、魔王復活の魔術を使おうとした。
 だがその結果に残ったのは魔王とは似ても似つかない不完全な生命体。そして魂を食われ亡骸のなった夥しい数の同族だった。

 そんな悪あがきとしか言いようのない行為を何度繰り返したのか、何年続けたのか、わからない。
 いつしか魔物たちは魔王という存在にすら興味を失い、その存在を嘲笑いながら魔王軍から離反した。

 その行為を、旅路を、願いを、何度も否定された。
 魔物たちの記憶から、大地から、世界から。魔王という存在が失われていく。
 砂漠に落ちた糸を手繰り寄せて、見失いかけて、傷だらけになりながら守り続けて。

 何度足掻いても、変わらなかった。
 ──それが『運命』だからだ。

 だから、

「────」

 いつしかギラヒムが訪れたのは、深い深い大穴の淵だった。

 ……これはいつの記憶だっただろうか。
 あの日、魔王様が封印された光景を目にした時と同じようで、少しだけ違う。あの日あった戦争の影はここにはなく、ただ、穴だけがそこに存在していた。

 もしかすると、これは過去ではなく今、なのかもしれない。
 あの時、あの穴の中に落ちていれば良かった。そんな後悔を具現化したかのような。

 空は四方の彼方までを分厚い灰色の雲に覆われている。穴の周りには木々の一本すら生えていない。
 そしてゆっくりと穴を見下ろせば、そこにあるのは封印の石柱ではなく──永遠の闇が続く、奈落だった。

 その闇を眺めていると、闇と同じ色をした影が告げた言葉が頭の中で蘇る。

『お前が従ってるのは魔王と『運命』、どっちなんだろうな……?』
「……っ、」

 誰に従っているか、そんなこと、聞かれなくともわかっているはずだ。
 なのに、膿んだ傷のように一度抱いた疑念は剥がれてくれない。

 抱いた疑念はこう告げる。
 たった今見せられたのは過去の再現であり未来に起こりうる光景。自分もあの方も、『運命』から逃れられない。

 あの方が封印されることは、神が定めた『運命』だったのではないか。
 自分が再びたどるのは、神に決められた道なのではないか。──と。

 そんな予感がいつしか生まれて、それは『勇者』の登場により色濃いものへ変わっていったのだ。
 そう、魔族の前へ立ち塞がった『勇者』の存在は──あの方が迎えた結末の再演のように思えた。

 あの方の復活のための戦いはすでに折り返しを迎えている。復活の手立てが尽きた訳ではない。拮抗した力の天秤が極端に傾いている訳でもない。
 ただそれは、たった今見てきた過去を準えているような不快な既視感を抱かせた。

 もしこれが決まった筋書きで、この戦いの果てに、再び無限の砂漠に放り出されてしまうのなら、

「……ならば、このまま、」

 ここで繰り返しあの方の影に巡り逢いながら、過去を追い続けてもいいのではないだろうか。
 決められた『運命』だけが待つのであれば、いっそここで記憶の海を漂っていたい。

「────、」

 ふと気づくと、立ち尽くしたギラヒムの目の前に、一つの光が浮かんでいた。
 両手で包めるほどの大きさの、消えてしまいそうな弱々しい灯火。それは穴の上で淡い光を放ち、触れずとも仄かな温かさが伝わってくる。

 それが主との美しき記憶の旅路の入り口で──それに触れれば、自身がこの穴の奥底に落ちてしまうことは、すぐにわかった。

 ギラヒムは小さく息を呑み、記憶を繰り返すために手を伸ばす。

 もう一度、あの方に会うために。甘く、輝かしい、再生を。

 もう一度。いや、何度でも──。

 光へ手を伸ばそうとした、その瞬間。

「……!!」

 追憶の入り口に立ったギラヒムの手を、誰かの両手が受け止めた。


 ◆◇◆◇◆◇


 誰かに受け止められた手は、朧気な熱を帯びたまま包み込むように握られる。
 無礼で不敬な手だと思った。何故、止められなければならない。何故、これ以上の記憶の再生を許してくれない。お前に何が、わかるのか。

 ……そこまで怨言が出るのに、振り払うことのできない、縋りたくなる手だった。
 この手の持ち主の名前など、知らないのに。

 ギラヒムがそう迷っていることを手の主が理解したのかどうかは定かではない。しかし触れた肌には仄かな熱が宿り、さらに強く手を握られる。

 この手の持ち主も、何かに縋っているのかもしれない。自分が見下ろすこの大穴で、助けを求めていた哀れな存在なのかもしれない。

 だとするなら、自分がこの手を引き上げる理由はないはずだ。
 こいつを助ける理由などない。この手をすぐに振り払って、早く、早くあの方の記憶に浸ってしまいたい。

 そう、思ったはずなのに。
 その声音はギラヒムの耳に鮮明に届いて、

『──ギラヒム様』
「────」

 名前を、呼ばれた。
 耳に馴染む声音。その音色に呼び起こされる、自分よりずっと小さな体の感触と、温かな体温。

 知らない、はずだ。こんな存在は自身の記憶の階層に落ちていないはずだった。
 あの方の記憶の全てを覚えている。だから、その中で存在していない声音に、こんなにも熱を帯びる感覚を抱くはずがないのに。

 そのはず、なのに。

『──マスター』

 手の主が、そう呼び掛けた。
 告げられた敬称は、この世界において、永遠の主従として全てを尽くす者へ向けた誓いを意味する。
 かつては自身が口にしていた、自分の存在意義を表す誇らしい敬称だった。
 それを初めて自分に向けられた時、長年凍り付いていた感情の奥底に熱が灯る感触を覚えた。そう、覚えたんだ。

 ギラヒムは静かに瞼を閉じ、そこに焼きつく姿を映す。
 この手の主──主人の手をいつも煩わせる部下の姿が、そこにあった。

 続くのは、いつかその声音が告げた言葉。

『──ギラヒム様が大切な人の助けになれるって、信じているからです』

 ああ、そうだ。
 あの部下は、これだけ主人の内側を滅茶苦茶に掻き回しておきながら、主人を救わないと、この道の果てにあるものを信じると言った。
 生意気で、無礼で、残酷で。そんな存在の手が、言葉が──ギラヒムを、主の面影の幻想から引き摺り上げたのだ。

「──リシャナ」

 彼女の名前を呼んだ。

 瞬間、その手は淡い熱を残したまま砂のように砕けて消える。温かな声音で主人を呼んだ部下からの返事はない。

 知っていた。自身を引き摺り上げたその手はたった今伸ばされたものではない。
 彼女が影に連れ去られる前。一度目の再生の狭間で掴まれた、記憶の中の手だった。

 リシャナはここにいない。部下のくせに、名を呼んだのに答えない。気の向くまますぐに何処かへ行こうとする。
 それでも、主人の背中に立つと言ったあの言葉に嘘偽りがないことは、あの時繋いだ手の感触が証明している。

 だから、連れ戻さなくてはならない。
 もう、夢は終わりだ。

 ああ腹立たしい。夢を見る権利すら与えられない。
 思い知らせたい。この鬱憤を、鬱積を。

 ああ腹立たしい。再び見せつけられた主の結末が。
 立ち向かうべき現実が。こんな『運命』を強いた世界が。

 ああ腹立たしい。
 ──今再び失おうとしている自分自身が。

「……胸糞、悪いんだよ」

 呪詛を舌に乗せて呟くと、大穴の世界に一筋の亀裂が走る。巨大な硝子に覆われていた幻想の世界が終わりを迎えようとしている。
 ひび割れ、細かな破片となり、崩れ落ちた壁の向こうで待っていたのは──色彩が反転した森と、巨大な二つの鎌を携えた死神のような姿の守護者。
 この不愉快で吐き気を覚え、ほんの数瞬の安寧を抱く夢幻を見せた元凶。

 両手の中で、魔力の火花が散る。そこに守護者どもから逃げ回っていた時のような不安定な波は立たない。昔、あの方と共に闘っていた時と同じ光だ。

 深い呼吸と共に顔を上げ、目の前の敵を睨む。──そして、

「これ以上──俺のモノを、とられてたまるかッ!!」

 叫びを伴い、覚醒した。

 こちらを認識し、正面から向かってくる守護者に対し、召喚する短刀は一本のみ。魔力を込めて放たれたそれは、赤い光の軌跡を描きながら守護者の体を絡めとる。
 あの巨体を縛り付けた糸は、鎌を振るって抵抗されれば簡単に切れてしまうほどに細い。しかしそこに魔力を注ぎ、守護者の四肢を完全に拘束する枷とする。

 魔力の鳴動を背に、ギラヒムが糸を手繰り寄せながら高く飛ぶと──重力に逆らい、守護者の体が引き摺られるように持ち上がる。そのまま獲物を逃さぬようギラヒムが空へ腕を振り上げ、守護者の拘束が強められた。

「っ……!」

 同時に肩から肘にかけて裂けるようなヒビが入り、精霊としての本体が隙間から覗く。しかしそれに構うことはなく糸を引く手を翻しながら、守護者の真下にある地面へ魔力を集める。

 そして勢いを殺さぬまま──守護者を地面へと叩きつけた。

 重力操作。剣として使われるための力ではなく、魔王を復活させるため、願いを叶えるために戦った世界でギラヒムが身につけた力だった。

 轟音と共に地に叩き落された守護者は双眸から光を失い、世界が崩れ始める。
 ハリボテだった光景へ、何処からかやわらかな風が吹き抜けていく。

 ふと視線を感じて、誘われるように振り返ると、

「……!」

 視界の先。崩壊する空の下には──魔王が、佇んでいた。

 ようやく見られたその表情から感情は読み取れない。無関心にも、呆れにも、嘲りにも見える。

 全身を満たす寂寥感を抑えるように手を握りしめ、ギラヒムがその姿を見据えた後。
 彼は片手を前に添えて低頭し、懐かしき忠誠を示した。

 あの方の言葉は未だ希望であり、呪いでもある。
 一度全てを失ってしまった自分のことはまだ赦せないままだ。……それでも、

「ワタシは、もう一度戦います」

 全てを見透かしたような御影は何かを告げるように大きく歪み──崩れ、霧散した。


 色彩のない森に、どこか寂しげな敬称がぽつりと落ちて、消えていった。



(231103改稿)