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真影編7_影従



 空色が見えた。

 昼と夜が裏返る、静寂の森。
 一人、緑衣を纏う人間が立ち尽くしていた。

 淡い光が地面に円を描き、その中で守られるようにして彼はここへ招かれた。彼自身の意志だったのか、与えられた使命だったのかはわからない。

 夜の帳が下りたはずの森は来訪者を歓迎するように明るく、対してこの場に必要のない音や生き物は切り取られたかのように存在していなかった。

 代わりに、森のあちこちに巨大な鎧騎士が大槌のような武器を地に下ろし、時が止まったように佇んでいた。
 加え、普段透き通っているはずの水辺は不思議な色彩を放ちながら、反転世界の中に溶け込んでいる。

「…………、」

 彼は空に似た青色の目を見開きながら、辺りを見回す。
 今その世界で動くことを許されているのは彼一人だけ。彼の足元の光は、まるで舞台に上がる演者を示しているかのようだった。

 そして私は、彼のもとから遠く遠く、ぼんやりと再生される映像を眺めるように、遮断された世界にいた。

 きっと声を出しても彼には届かない。今見ているこの光景は既に終わった出来事なのだろう。
 頭の片隅で、根拠もなくそう思った。

『──マスターリンク』
「!」

 不意に、彼でも私でもない声音が余韻を響かせながら名前を呼んだ。
 彼は声の主を探して振り返るが、彼以外の人影は変わらずどこにもない。
 声の主にはそんな彼の様子が見えているのか、構わず話を続けた。

『ファイはそちらへお供することが出来ないため、貴方へ直接語りかけています』

 透き通ったガラスのような声──彼に従う剣の精霊の声が、静かに伝えた。
 耳へ清かに届く心地よい声音だ。どこか無機質にも聞こえる平板な語調は以前に聞いた時と何ら変わらない。

 彼は姿の見えない相手との会話に少しだけぎこちなさを覚えた表情をしながら、彼女へと問う。

「ファイ……ここは?」
『女神の試練、サイレンです』

 彼女は短く答えて一度区切り、この場所について語り出す。
 
 ここは肉体から離れた精神を清め、『勇者』を覚醒へ導くために女神が創り出した地だという。過去の聖戦においても、魔族に対抗するための精神を養う場所として使われたそうだ。

 今から彼がすべきは、追いかけてくる守護者から逃げ切って、しずくと呼ばれる光を集めること。
 剣がないため守護者に立ち向かうことは不可能。そして守護者の攻撃を浴びれば肉体に傷は付かないものの、精神に直接負荷をかけられる。
 ……私たちが経験したことと同じだ、と思った。

「守護者……って、あの大きな鎧の騎士のことだよな」

 空色の目があちこちに佇む鎧騎士を映し、問いかける。
 今は目の光を失い、眠るように静寂を保つ騎士。その体躯は彼の倍程度で、手に持つ武器は見るからに重量感があり、一撃でも食らえば一溜りも無さそうだ。
 それに一体のみならまだしも、目に見える範囲ですら守護者の数は少なくない。

 不安を隠しきれていない主に対し、感情の読み取れない口調で精霊が答える。

『マスターリンクが苦戦を強いられる可能性は89パーセント。しかし、『勇者』としての覚醒に必要不可欠な試練です』

 有無を言わさぬ物言いに、彼は小さく息を呑む。最初から選択肢はなかったのだろう。

 決意をすべく、彼はゆっくりと瞼を閉じる。
 一拍置き、開いた空色の瞳は真っ直ぐに目の前を見据えた。

「やってみせるよ。ゼルダのためにも……必ず」

 強い、意志だった。
 この先の未来を見なくとも、結末はわかってしまう。

 彼はきっと、この試練をやり遂げるのだろう。『勇者』であった彼が成すのでなく、成した彼が『勇者』だったのだと、きっと最後まで見届けたなら、思うのだ。

 そう、彼に対する印象は今も昔も変わらない。

『マスターリンク』

 主の言葉を聞いた精霊が、ふとその名を呼んだ。
 声音も口調も先ほどまでと変わらない。それでもわずかに垣間見えた数秒の沈黙は、彼女にとっての逡巡だったのかもしれない。

『……覚醒を迎えても、貴方は貴方のままです』

 精霊の表情を窺うように彼が顔を上げた。
 しかしそれ以降、彼女の声が聞こえてくることはなかった。

 彼の芯は、精霊が伝えた通りずっと変わらないままだろう。
 折れることなく研ぎ澄まされ、磨きあげられた鋼は、いつかまた私たちの前に立ち塞がる。

 彼は彼のまま、試練を見届ける誰かが“余分”と判断したモノだけをこの森に置いて、光へと向かうのだ。

 そして、 

「────」

 影が、生まれる。


 * * *


「…………」

 リシャナが放り投げられた水辺へ歩み寄る。

 一見浅く見えるはずの水面にはすでに何の気配もない。リシャナの体が沈んだ余韻として、小さな水泡を浮かべるのみだった。
 水には何らかの魔力が溶け込んでいるのか、奇妙な色彩を放ってゆらゆらと揺れている。触れるべきではないと、本能が告げる。

「良い判断だなァ、魔族長サマ」

 背後から向けられた忌々しい声に、ギラヒムは振り返りはしなかった。
 それも意に介さず、リシャナをここへ投げ入れた張本人であるダークリンクは話を続ける。

「“シラレ”って言ってな。ここに指一本でも触れれば奴らが集まってくる。複数体に囲まれればさすがの魔族長サマも逃げられないだろう?」
「…………」

 その問いに答えは返さない。が、この場合の沈黙は肯定と捉えられるだろう。
 ダークリンクの言葉が事実ならば、腹立たしいがこの水をたどってリシャナを追うことは不可能だ。
 未だ充分に戦える程度の魔力は残っているものの、あの人形どもとの戦闘はなるべく避けなければならない。

 それに、もはやリシャナの足取りはここにはない。あれの行方は影の手の中だ。

 ギラヒムが視線だけを寄越すと、見透かしたような赤い目が歪んでいた。

「あの半端者なら別の場所で回収してるぜ。死んではいねぇが……早く会いたいって言うなら、この水に入れば会わせてやるよ」

 ゆっくりと振り返り、対峙したのは獣のように細くなった瞳孔だった。
 ……この鬱陶しい目にいつまでも弄ばれるのは不愉快だ。

 苛立ちの滲む視線で睨みつけ、ギラヒムが低い声で告げる。

「そこまでの労力を費やす気はない。お前をここで締め上げて、屈伏させれば済む話だ」

 指を鳴らして召喚された無数の短刀は、鋭利な切っ先の全てをダークリンクへ向ける。
 同時に体の内側を見えない手で掴まれるような拘束感を覚え、内心で舌打ちをする。

 ……やはりここで魔力を使うのは負荷がかかる。早々にあの影を仕留めてこの忌々しい空間から出なければならない。
 おそらく、こちらの魔力使用による体力の磨耗も、既に察されているだろう。

「穏やかじゃないなァ。あの半端者に余程ご執心なわけだ」
「そろそろその減らず口は塞いでしまいたいものだね。……永遠に」
「ハッ、やれるもんならやってみればいいさ」

 嗤いながら、ダークリンクは黒い輝きを放つ刀身を音もなく抜き、挑発的にこちらへ向ける。
 そして口角を歪めながら、剣先を天に向けて振り上げて、

「お前がここで生き延びられたら、な」

 ダークリンクが犬歯を見せつけ、指揮者のように剣を振るった瞬間。
 周囲一帯が、鮮烈な光に照らされた。

 反射的に黒の剣先が指す真上を見上げると、淡い光の灯るランプをぶら下げた亡霊のような守護者がいた。
 ウィズローブによく似た姿をしており、全身を覆うローブの隙間から一つ目が獲物を見下ろしている。

 そいつはこちらを一瞥すると何かを誘うようにカラカラとランプを鳴らし始め、その音に共鳴するように森が騒めき出した。

 ──すると、

「……!」

 一つ、二つ。地を揺さぶり、金属音を鳴らす足音が集まってくる。
 暗い森の奥で灯る二つの光はやがてこちらを見据える目となり、鎧騎士の巨大な輪郭を形作る。

 気づけば、複数体の守護者が辺りを取り囲んでいた。

 同時に、先ほどまで対峙していたはずのダークリンクの姿が消えていることに気づく。
 咄嗟に見回すと、視界の端、守護者たちの背後でダークリンクは緩慢な足取りのまま水辺へ向かっていた。
 その姿を追おうと踏み出したギラヒムの一歩は、守護者の壁に阻まれる。

「なァ、魔族長サマ」

 巨体に遮られた視界の向こう、ダークリンクが顔だけをこちらに向けて赤い目を細める。

 その顔に張り付いたような笑みはもはや浮かんでいない。愉悦も嘲りも蔑みも、全て全て消え失せていて、代わりにそこにあるのは冷ややかな憐み。
 その口から紡がれた言葉は、やけに鮮明に鼓膜を震わせて、

「お前が従ってるのは魔王と『運命』、どっちなんだろうな……?」

「──!!」

 その言葉に、ギラヒムの息が止まった。

 反射的に憤怒の感情が全身を支配し、衝動に突き動かされるまま短刀を飛ばす。
 しかし立ち塞がった守護者に短刀は弾き返され、ダークリンクは最後に一つだけ笑みを浮かべて水の中へ消えていった。

「……っ、」

 蝕むような騒めきが全身を満たして胸を抑えつけていると、背後に重い足音が近寄ってくる。

 数は多い。意志は感じられないものの、取り囲む無数の目の全てがこちらを見ている。
 兵隊たちは獲物に過去を叩きつけるべく、その手にある武器を持ち上げていた。

 ……相手にすべきではない。自分でそう言ったはずだった。
 だが、もはや逃げる気にはなれなかった。

 誰に従っているかなんて、自明の理でしかないはずだ。──なのに、

「……邪魔だ」

 獲物を狩るべく、武器を携えた守護者がにじり寄ってくる。
 立ち並ぶ無機物たちを鋭く睨み、胸の奥で燻る炎が熱く、黒く、ギラヒムの身を焦がした。

 一度指を鳴らすと、先ほどダークリンクに向けた数倍もの短刀たちが召喚された。
 理性で無謀だと悟っているものの、止められない。

「……目障りだ」

 不安定な魔力が命を緩やかに喰っている感覚。だが、この感情を今すぐにぶつけなければ気が済まない。
 それほどまでにあの影の問いと──ここで見せつけられた映像は、ギラヒムの奥底を揺るがせていた。

 ワタシが誰に従っているのか。
 魔王様だと、わかりきっている。

 一度守護者の攻撃を受けた時に頭を支配した映像は、再生を終えたにも関わらず刻まれるように居座っている。
 時間にしてみればほんの数瞬。しかしその中で見た、懐かしい後ろ姿が離れない。

 その姿が迎えた結末は見せられずとも、自身の目の奥に今も鮮明に焼きついている。

 そして記憶の渦の中。あの影の問いは、一つの疑念を揺り起こした。
 使命感と、理性と、自制心で蓋をしていた一つの黒い憶測が、緩やかに首をもたげたのだ。

「──消えてしまえッ!!」

 守護者が武器を振り上げたと同時に、爆発させた魔力が鋭く鳴いた。
 見えない糸を振り解くように腕を払うと、短刀の切っ先が一斉に守護者へ向けられ、刃の雨を降らせた。

 鼓膜を貫く金属音が、守護者たちを森ごと覆う。
 無闇矢鱈に装甲を掠めるわけではない。鎧騎士を成り立たせている結合部を確実に引き裂いて、四肢の自由を奪うように。
 鋼が打ち鳴らす雨音で、頭に過った予感を隠してしまえればいいと思った。

 動きを封じられた守護者が抗うように大槌を振るって短刀を弾き、声にならない咆哮をあげる。
 それすらも塗り潰すように、新しい刃の雨を何度も何度も降らせた。

 手は緩めない。それらを全て、根絶やしにしてやるまで──。

「っ……く、そが……」

 数分の間短刀に刻まれ続けて、守護者たちはもはや動かなくなった四肢をぶら下げながら、体を引きずっていた。

 対するギラヒムも、魔力を使い続けた反動で擦り切れるような呼吸と悪態をこぼした。
 何より、目の前の守護者たちを狩り尽くしたというのに、胸のざわめきは一向に癒えてくれない。

 深く息を吸って、微かに震える手を握る。叫びたくなる衝動を抑えて、天を仰いだ。

 反転世界の空ですら、雲に覆われている。
 記憶の中のあの方が立つ場所と真逆の光景だ。
 
 束の間見せられた切れ端のような光景だというのに。あの方の記憶は自身の認識の範囲を超えて、こんなにも内側を掻き乱すのかと、他人事のように納得する自分がいた。

 だから、

「────ッぁ、」

 自身の背後で巨大な鎌が振り上げられていることにも、気づくことが出来なかった。

 胴体を真っ二つに分かつように、刃がギラヒムの体を一閃する。
 瞬間、押し開いた目で見た姿は先ほどまで相手にしていたものとは異なる、両手に巨大な鎌を持つ死神のような見た目の守護者。

 体を分かたれた痛みはない。ただ、自身の奥底に意識が引き摺り下ろされるように、目の前が真っ暗に塗りつぶされていく。
 眠るように、ここで存在が消えて無くなるように、急激に落ちていく。

 最後に、ふと思う。

 このまま過去が再生されるならば、せめて結末だけは見たくない。
 頭の片隅で隠されるように在った不穏な予感も自覚したくない。

 あの方の結末も、自身の『運命』も。
 神が決めた道筋に乗せられているなんて。

 あまりにも馬鹿げた行く末を、見せられてたまるか──。


 呪いに似た祈りだけをぽつりと浮かべて、

 銀幕に、その光景が映し出される。



(231019改稿)