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導入編12_魔族長と空の少女



 相変わらずの、お日様が見えない空だった。

 それでも健気に心地よい温もりを地上へ注いでくれているのだから、太陽はものすごく頑張ってくれているのだろう。
 そんな呑気なことを考えながら、私は腰に据えた一対の魔剣を抜いた。

「うっ……!」
 
 空気を真っ二つに裂き振り下ろされる刃を片手の魔剣で受け止める。金属同士が当たる甲高い音が耳の奥まで反響し、脳を揺るがせた。
 片腕にのしかかってきた剣圧に逆らうように踏ん張ると微々たる間隙が刹那生まれる。それを逃さず、もう片方の魔剣を横に薙ぎ払う。

 虚しい、空を切る音がした。

「あ」
「撃墜……四、か」

 そこにいたはずの相手の姿を見失い、思わず間抜けな声がこぼれ落ちる。そして隙だらけとなった私の後頭部に、もはや数を数えることすら面倒になった主人の容赦ない貫手突きがかまされた。
 細い指二本で一撃突かれるだけなのに、カツンというたぶん頭から聞こえてはいけない音が響き渡る。私は既に受けた三回分と同じ悲鳴をあげながら、地面に崩れ落ちた。

「で、デコピンと後頭部突きって……両側から効率良く穴を開けようとする作戦ですか……!」
「開けられたくないなら死守することだね。頭も白星も」

 ──シーカー族の墓地から帰還し、数日が経つ。

 私もギラヒム様も、帰ってきた日の翌日から何事も無かったかのように鍛錬や探索、封印の破壊と、これまで通りの日常を準えながら過ごしていた。

 変わったことと言えば、急に模擬戦の頻度が増したくらいだ。
 命懸けのスパルタ訓練を乗り越え、着実に力がついている実感が持てるのは素直に嬉しい。が、一本取られた場合のお仕置きの回数もその分増えているわけなので、よく生きてるな自分としみじみ思う。

「ほら、起きないのなら屍になったと見做して地に埋めるよ」
「立ちたいんですけど、体のあらゆる箇所が悲鳴あげてるんですよ……!」

 手早くお仕置きを済ませた主人は、優雅に白髪を梳き部下の背を踏んづける。そして私の準備が整ったのを見計らい、口を開いた。

「黒星五つで……その場で足を舐めてもらおうか」
「それ四つ目ついたタイミングで言います!?」

 定期的に罵詈雑言を浴びせられながらも奮闘し、ようやく私も両手に握った魔剣を操れるようになってきた。
 その証拠に模擬戦で一本取られず粘る時間も増えてはきた──のだが、相変わらず白星を譲っていただけることはないため、私を震撼させた罰ゲームの結果は推して知るべしだ。


 一切手を抜いてくれない剣技の練習も、彼から与えられる嘲笑も、普段と何も変わらない。主従として彼と過ごしてきた日々と変わらない。

 だからこれは日常の再開なのだと──そう何度か思いかけては、打ち消していた。

「────」

 背中の痛みを堪えながら立ち上がり、手の中の魔剣を握り直す。模擬戦が始まってから数時間握り続けた鋼。そこに宿る熱の感触を確かめるが、その一方であの日女神の泉で感じた冷たさを忘れることが出来ない。

 彼が女神の泉で何を知ったのか、私は未だ知らない。
 しかし、たとえ剣技の練習を普段通りに行っていても、主従のやり取りが何も変わらなくても。私が何を思っても。
 彼があの時口にした言葉は意味を持ち──私たちの目の前に刻々と迫っていた。

 だからその夜は、この日常がずっと続いていくとほんの数瞬信じてしまった自分を、深く深く戒めた。
 

 * * *


「行くよ」

 名前を呼ばれることなく主人にそれだけを言い捨てられたのは、シャワーを浴びた後束の間の自由時間を過ごしていた時だった。
 呼んでおいて待つ素振りを一切見せることなく自室へ向かう主人を、私は慌てて追いかける。

 部屋にたどり着いても何も言わないまま二人眠るには充分な広さのベッドに彼が入り、しばらく待ってから私もお邪魔した。
 私より先にシャワーを浴びていた彼の体からはほんのりと良い香りが漂ってくる。安堵とともに眠気を誘われたが、彼が眠るまで私も起きておくべきだと心の内で自分を叱咤した。

 部下だから、というのはある。
 ──だがそれ以上に、主人は私に何かを話そうとしている。
 彼に付き従ってきた経験が、そのことを容易に悟らせた。

 主人は部下を丸ごと抱きしめ、しばらく為されるがまま私の身体は堪能される。その間、胸の奥で燻る予感は意図的に意識の外へ投げ出すことが出来た。彼の行為に身を委ねるだけでそれは楽に為せた。

 だから、行為が終わり彼の胸の中に顔を埋めた時。私は全身を支配するざわめきに怯えていた。……目を背けていた。

 当然、私の髪を指で弄んでいた主人にそれは見透かされていたのだろう。
 けれどそれを言及することも咎めることもなく、彼はゆっくりと薄い唇を私の耳元へ近づける。

 ──そして主人は、口火を切った。

「……戦争が、始まる」

 耳朶を揺らす低い声音に、無意識に顔が強張る。その言葉を聞くのは二度目だというのに、胸がつかえて喉が凍り付く感覚を抱いてしまう。

 いつかその日が来るとわかっていた。
 そうわかっていながらあの時耳にした彼の言葉が聞き違いであってほしいと、心の何処かで願ってしまっていた。

 私は顔を上げ、主人と視線を交える。感情を伏せ、静謐を保ち向けられる双眸に私を責める色はない。おそらく考えは読まれているのだろうが。

 私は数度喘ぐように吐息をこぼし、やがて掠れた言葉を紡いだ。

「……見つかったんですか?」
「ああ、そうだ」

 何が、とは言わない。言わずともその意味は理解が出来た。
 戦争の始まり。それは主人があの墓地で魔王様復活のための重要な手がかりをつかんだことを意味する。
 そしてそれ以上に──女神陣営との本格的な戦いの始まりを意味する。

 女神と魔族の戦い。すなわち『聖戦』。
 長くなるのか短くなるのかそれすらもわからない。いずれにせよ、流れ行く歴史の節目と成り得る戦いとなる。
 激しい運命の奔流の中で、私たちは剣を持たなければならない。

「────」

 何かを言いたくて、しかし形にならなかった声は苦しげにも聞こえる呼吸となって消える。唇を噛み、顔を上げることすら出来ずに私は彼の固い胸元に沈んだ。
 そうして部下の身に余る行為への罪悪感と自身の脆弱な意志に首を絞められながら、すんなりと私を受け入れた彼の温もりを肌で感じる。

 沈黙は少し、長かったと思う。
 いつもは互いの熱に包まれているうちにどちらからともなく眠ってしまうはずなのに、双方の瞼は開かれたままだ。
 今にも切れてしまいそうな糸が張られた静寂を、彼の呼吸音が破る。

「……空から巫女を落とす」

 私が返せる言葉は何もない。かわりに頭の中で、以前彼に聞かされた話が再生された。

 魔王様の復活のために必要なこと。
 大地の各所にある女神の封印を解き──生贄となる巫女を見つけるということ。
 つまり、彼が見つけたのは最後の鍵そのものだった。

 俯く私の顎を無理やり掬い、彼は唇を重ねた。押しつけ、刻むように時間をかけた長いキスだった。
 その間私が一度も目を開けられなかったのは、彼の顔を見られなかったからだ。喜ぶべきことなのに──胸が、心臓が、存在が、軋む。

「……空の封印が解けるのもあと僅かだ」

 キスを終え、再び逃げるようにうずくまる私の髪を弄びながら主人が言葉を落とす。彼の顔を見られないのと同時に、自身の顔も見せたくないというただの我儘が細い指を通して伝わっている気がした。

「そうすれば巫女を空から引き摺り下ろせる。──魔王様を復活させるための、生贄として」

 彼が自明の道筋をあえて口にした理由は、これがはるか昔の戦争の再演──彼にとって、長い長い戦いの決着を意味するからだ。

 その言葉を最後に、主人も唇を引き結んだ。
 今彼の中に渦巻く感情を言葉にすることはあまりにも無粋だと言えるだろう。
 ずっとずっと、気が遠くなるほど長く手繰り寄せ守り続けてきた糸。その果てが目の前に見えてきたのだ。先に待ち受けているのは私の想像に遥か及ばない、過酷な旅路だ。

 私は小さく深呼吸をし、ゆっくりと顔を上げる。そして眼前の整った顔とその視線に絡めとられるように、求め合った。そうしている間は永久に時間が止まっているような気がしたからだ。

 だが、この甘い幻想が侵す仮初の安寧は、いつか必ず終わる。

「──私は最後のその時まで、ギラヒム様の部下です」

 部下で“いたいです”と言えなかったのは、さすがに我儘が過ぎたと思った。けれどその宣告は、私自身に対する頸木でもあった。

 始まるものは、いつか終わる。
 だから、この戦争が終わった時。魔王様が復活する時。貴方が一番いたい場所に戻る時。──あなたの願いが叶う時。


 ──この主従関係は、終わりを迎える。


 血が滲みそうなほど唇を噛み、瞼を伏せて疼痛に揺られる頭を抑え込む。そうしたまま訪れた静寂は、彼が与えた私の自戒のための時間だったのだろう。

 その終わりに、彼の手が私の後頭部へ回された。そのまま唇が触れそうな距離にまで引き寄せられ、吐息がこぼれる音すら聞きながら言葉を注がれる。

「知っている。……離すつもりもない」

 それは宥めるなんて甘い行為ではない。独占欲を刻みつける、自慰にも似た独白だった。

 ──私も、ギラヒム様も。この世界に存在する全ての命は神が定めた運命に乗せられている。
 女神でも魔王様でもない、残酷な神の手の中に。

 それでも私はその運命を生きなければならない。
 私が生きる意味である主人の悲願の達成を。永遠に続いた時間の果ての、願いの成就を。
 たとえその道筋の中で私の命を使い果たしたとしても。

 ──向かう先に、終わりしか待っていなくても。

 空の少女は一人の魔族長のために、生きていく。
 半端者の少女は『幸せ』のために、生きていく。


 生きていく。



導入編にあたる中編、ひとまず完了です!
今後いろいろ展開していくので、ぜひお付き合いいただけましたら幸いです。