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導入編11_「戦争が、始まる」



 白いローブの中から溢れるように積もる灰に紛れ、細身の魔剣が横たわっていた。
 私は屈んでそれを拾い上げ、一振りする。刀身に纏わりついた灰は落ち、刃が空気を裂く鋭い音は墓の間を縫うように高く響いた。

 結界を破壊されたことにより、灰となった白装束。よく見ると白いローブには大きな一つ目から涙を流した紋章が刻まれていた。
 空で漁った資料の中に見覚えがある。たしかこれはシーカー族のシンボルだ。どうやらここはシーカー族の墓地で間違いなかったらしい。つまり灰になった白装束は墓の守り人か、あるいは過去の聖戦後、魔族を滅ぼすため大地に残った者の末裔だったのだろう。
 どちらにせよ魔族にとって厄介な種族に目をつけられてしまったらしい。私はゆっくり立ち上がり、自省の意味を込め深いため息をこぼした。

 気を取り直して、半壊した聖堂へと振り返る。見るも無残に破壊されたステンドグラス。砕けたガラス片が散乱する中心に、我が主人は佇んでいた。
 その姿は漆黒の魔剣──剣の精霊というギラヒム様本来の姿から、通常の姿へと戻っており、私はガラスを踏みしめその元へと向かう。

「マスター、お身体何ともないですか?」
「当然」

 一言で返事を済ませ、主人は自らの赤いマントを手で払う。言われるまでもなく擦り傷一つ無いようだ。
 束の間の身だしなみチェックが完了すると彼はその白髪を一度梳き、改めて部下へ視線を寄越す。何故か呆れと嘲笑が混じった目をしていて、私は本能で嫌な気配を悟る。そして、

「封印の地からお前にかけられていた幻覚も完全に解けたようだしね」
「…………はい?」

 その口から予想もしていなかった言葉を告げられ、私は思わず聞き返してしまう。
 幻覚がかけられていた。封印の地から。……私に。

「魚が夢中になるまで餌を垂らしておくつもりだったが、まさか本当に食われる寸前まで気づかないとはね」
「…………」

 要するに、封印の地へ出向いた夜には既に、彼は敵の存在をうっすら認識していたと。相手から何らかの接触をされる可能性も織り込み済みで。
 さらに私の見た景色がどこからどこまで幻覚だったのかは不明だが、少なくとも彼はそれに気づいていたと。
 ……諸々を踏まえて主人が後追いでここに来た理由をようやく悟り、自分の頭の回転の遅さに泣きたくなった。

「……どうせ脳みそ空の私はマスターの釣り餌です……イモムシ並みの……」
「自覚しているなら早い段階で気づくんだね。……まあ、本格的に幻覚の作用が出たのはこの地に来てからではあったが」

 遠回しなフォローを珍しく入れながら、不意にギラヒム様がいじけた私の腕をつかみ、体ごと自身のもとへと引き寄せた。

「いっ……!」

 瞬間、肩に走る鋭い痛み。突き刺さったナイフは取り除いたものの、そこは服ごと赤に染まり見るからに痛々しい見た目をしていた。主人の視線も同様にその場所へ注がれる。

「じっとしていろ」
「……!」

 嘲笑が消え、真顔になった彼がその赤色に向け綺麗な手を広げる。すると、魔族らしからぬ温かな光がその手から生まれ、出血した部分を包み込んだ。

 眼前の光景に、私は思わず閉口してしまう。
 魔族の長であり、戦闘中は攻撃的な一面を見せることもある主人は……意外なことに治癒魔法も使える。
 本来、それはめったに使われることはない。にもかかわらず、軽度の傷に貴重な魔力を費やしてもらえたのはささやかなご褒美というべきなのだろうか。

「……マスター」

 私は肩から伝わる温かな幸福感に身を委ねながら口を開く。彼の返事はなかったが、遮る一声もなかった。

「久しぶりに見た本当の姿のマスター、かっこよかったです」

 ……いつかぶりの主人の本来の姿は、鮮明な記憶として刻まれるほど脳裏に焼き付いていた。

 私も片手で数えられる程度しか見たことがない、彼の魔剣としての姿。
 ──ギラヒム様が、魔王様の剣として共に戦場を駆けていた時の姿。

 本来ならば、ずっとその姿でいたいはずだろう。魔王様と共に。
 だからこそ、彼は今回のような局面でない限りその姿を見せない。魔王様の前でなければと己を律するように。
 その忠誠心は、主人の生き方そのものでもあった。

 彼は渦巻く私の思考を遮るように、「当たり前だろう」と得意げに返す。

「誰の目にも鮮明に残る美しさだからね。本当のワタシは」

 そう言いきり、治療の終わりを告げるように私の肩から彼の手が離れ赤いマントが翻された。肩の痛みは綺麗に消えていて、恐らく跡も残っていない。
 じっとそこを眺めていると、ギラヒム様は割れたガラスを踏みしめ一人歩き出した。

「いくぞ」
「は、はい」

 私はガラス片に埋もれて横たわる、ステンドグラスへ投げつけたもう一振りの魔剣を拾い上げその背を追う。
 前を行く主人にどこへ、とは聞かない。彼も私も、この地に残った女神の気配を感じ取っていたからだ。
 割れたステンドグラス。──その奥に繋がっていた通路の方から。

「隠し通路……」

 砕けたステンドグラスの先には、石造りの無機質な通路が伸びていた。聖堂の外観に比べ劣化や損傷はそう激しく見られない。かつてここを通った人間はほんの一握りだったのだろう。
 特に何の感想も述べずそこに踏み入る主人の背を私は追う。

 暗がりの廊下には役目を終え煤けた燭台だけが壁に沿って並んでいる。石壁の隙間から漏れ出る陽光がなければ、一本道だというのに暗い森に迷い込んだような感覚に陥っていただろう。

 だが、数分もしないうちに通路は終わりを迎える。
 そこで待っていたのは、女神の紋章が刻まれた石の扉だった。

「先にあるものがわかってても、隠し部屋ってわくわくしますね」
「呑気なこと言っていないでさっさと仕事をして来い」
「かしこまりましたー……」

 束の間の甘やかしてくれる時間は既に終了してしまったらしい。
 淡白な反応に一つため息をこぼし、その扉の前に一人立つ。そして冷たい石の側面へ、片手を添えた。

「……っ」

 ──途端。ぞわりと見えぬ何かの手に心臓を撫でつけられる。
 心臓が、胃が、内臓がまさぐられ不快な感触が巡る。私の中の魔族の血が激しい拒絶を訴え、女神の血は必死に受容を主張する。二人分の内臓を持ち、それらが相反し合うような、気持ちの悪い脈動。

 数秒、もしかしたら数分。ぐるぐると体内の血が争い続け、やがて石の扉は音もたてず消えていった。
 いつまでも慣れない感覚に伝った冷や汗を拭い、主人の方へと振り返る。

「いってきます」

 返事はなかったが、一度交わされた視線に安堵の笑みがこぼれる。それだけで抱く仄かな温かさに促され、私はその奥へと足を進めた。


「────、」

 一度落ち着いたはずの体内の血が巡る感覚は奥へ向かうにつれて再び疼き始めてくる。酔ってしまうような、吐き気しか抱かない聖域の空気。
 先ほど私が開けたのは、女神の封印が眠る聖域を守るための扉だ。表面に刻まれた印が示す通り、ここは女神の血──つまり空の人間たちと同じ血を持つ者にしか立ち入れない。この先の女神の封印を壊すため、魔族を拒絶する扉を開くのは私の仕事だった。

 しばらく薄暗い廊下を歩けば、その果てには口を開けた闇へと続く下り階段が待っていた。私は壁に手を這わせ、慎重にそこを下っていく。

 暗闇は視覚をはじめ徐々に生きた感覚を狂わせていく。闇に呑まれ巨大な生き物の体内を進んでいるような錯覚を抱き始めた頃、私は光がわずかに漏れ出している扉にまでたどり着いた。
 ゆっくりとその扉を開き、暗闇に慣れた視界が光に馴染むまで目を凝らす。

「…………」

 ──そこにあったのは、澄んだ空気の漂う泉だった。
 屋内であるはずなのに太陽が昇っているように温かな空気が満ちており、外の荒れ果てた墓地や聖堂とは別世界に来たようだった。

 光源となっている火の魔石に囲まれ、中央には小さな女神像が佇んでいる。女神の眼前には翼を広げた紋章を象る石像が浮かんでおり、視線を巡らせれば天井には文字なのか記号なのか判別し難い文様がびっしりと刻まれていた。

 ──ここは神の言葉を聞くための泉、らしい。
 その昔、多くの巡礼者や騎士、賢者がここで神の声を聞きその知恵を借りていたという。おそらく今でもその機能は残っているのだろう。……いつか来る、“その知恵が必要とされる時”に向けて。

「……早く帰ろっと」

 当然、私が神に借りる知恵はない。それよりも、そろそろこの陰鬱な地から主人と引き上げたい。
 一つ呟きを落とし、私はこの地に残る最後の女神の力を掻き消すため魔剣を振り上げる。そして一拍置いて、躊躇なく一閃を放った。

「────」

 何の音も、抵抗もなく。慈愛の微笑みをたたえた女神像と紋章を象った石像は、真っ二つに切り裂かれた。
 泉に満ちていた清らかな空気と温かな光が失われていき、同時に私の中でざわめいていた血と血の争いが治っていく感覚を抱いた。

「……ふぅ」

 ようやく訪れた安息の瞬間に、胸に手を当てて息をつく。女神の気配が消え、残された火の魔石のみが照らす空間は少しだけ仄暗く見えた。

「──!」

 体が完全に落ち着きを取り戻した頃、ふと背後に人の気配を感じ私は振り返る。
 そこにいたのは予想通り、封印が解けたことでこの場に立ち入れるようになった主人の姿だった。

「マスター、終わりまし……た……」

 ほんの少しだけお褒めを期待し告げようとした言葉は、彼の表情を目にした瞬間急速に萎びていく。
 振り返り見た主人のその表情に、これまで見たことがない程の驚きが満ちていたからだ。
 見開かれた瞳が見つめる先は、朽ち果てた女神像のさらに向こう──壁面に描かれた文字の羅列。

 ようやく、私は思い出す。
 かつてここで神の声を聞き、“翻訳”の役割を担っていたのは剣の精霊──つまりギラヒム様と同じ存在だったということに。

「リシャナ……」

 半ば放心状態の彼が、ゆっくりと薄い唇を開き私の名を呼ぶ。私は何も言えないまま、その表情を見つめ返事を待つ。

「よくやった」
「────」

 期待していたはずの賞賛がもたらしたのは──驚きと、体の奥底でざわめく小さな予感だ。
 そして抱いたその感情は、次に浮かんだ彼の表情により大きくその存在を変えていく。

「……見つけた」

 それは喜び、安堵、幸福を始め……狂気、欲望、あるいは悲愴感すら感じさせる。複雑で、何故か胸の締め付けられる──笑みだった。


「戦争が、始まる」


 低く、しかし興奮を隠せず彼が口にしたその言葉が、いつまでも耳の奥から離れなかった。