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長編4-11_黄金色の波はやがて凪いで



「わあ……」

 小高い丘をどこまでも彩る黄金色。柔らかな風が吹くたび、それは音もなく揺らめき、寄せては引いて、波打って。
 黄金の海を作り出しているのは俯く黄色い花々。その花弁は大きな蕾の中に秘められていて、来たる開花の時を待ち望んでいるかのようだ。

 地平線へと視線を移したなら、太陽の影がどこまでも続く雲の壁を赤く染めていた。もしこの大地に陽光が戻ってきたのなら、この花畑も一面満開になるのだろう。
 蕾のままでもこれだけ圧巻の光景が広がっているのだから、きっとその時には美しい世界が誕生するはずだ。

「こんな場所があったんですね……」
「単純なお前のことだ。未完成の光景でも、このワタシと見られたのなら尻尾を振って喜ぶと思ってね」
「はい。……すごく嬉しいです」

 相変わらずの皮肉めいた言い回しだけれど、ギラヒム様の言う通りだ。この数日間であれだけたくさんの絶景を見たはずなのに、眼前に広がる光景が一番綺麗で、胸の奥が熱く、ドキドキする。
 ……何より、彼がこの光景を私に見せたいと思ってくれたことが、すごくすごく愛おしい。

 ──詩島跡地の探索を終えた私たちは、渓谷を後にし、再び数日をかけて拠点への帰路をたどっていた。
 結局、行きと同じく主人が連れて行ってあげるといった場所についての詳細は何も聞かされないままだった。

 正直、半信半疑の気持ちはあった。マスターが連れて行ってくれるとっておきの場所。それこそ普段ならば、“でぇと”をしてあげた対価を支払わせるため谷底に放り込まれて、そこから這い上がってこいと命じられてもおかしくはなかった。

 けれどその予想は幸運にも外れ、主従揃ってもと来た道をなぞって歩き、ついにはフィローネ地方にまで戻ってきてしまった。
 もしかしたらあの発言は何かのきまぐれで、数日経った今では忘れてしまっているのかもしれないと思った頃──主人に導かれ、たどり着いたのがこの花畑だった。

「私、きっと一生この光景は忘れないです。……マスターと一緒に見た景色は、全部忘れていないですけど」
「このワタシが傍らにいてあげたのだから当然だろう。無論、どのような景色もワタシの美しさに敵うことはないけれどね」

 拠点から少し離れているとは言え、見慣れたフィローネの森の外れにこんな場所があったなんて知りもしなかったし、何よりこの地を主人が知っていたことにも二重に驚いてしまった。
 胸を張って告げられる言葉はいつも通りだけれど、長く生きてきた彼が選んだのだから、記憶に焼きついた場所なのだろう。

 ──それにしても、

「何か言いたげじゃないか」
「あ、えと……」

 目先の光景に捉われ、感動とは違う感情を抱いていた私をギラヒム様が目ざとく指摘する。
 当てはまる言葉を探して一度区切り、私は胸の内にある光景を浮かべながら黄金の花畑を見つめて、

「……前に、私がマスターにしたおまじない。あのお話に出てきた場所にすごく似てるなって」
「……ふぅん」

 今となっては随分昔のことに感じる、この戦いの始まり。既視感の正体は、その時私がギラヒム様へ送った、昔話に沿ったおまじないだった。
 遥か昔、どこかの世界で。名無しの従者が主への祈りと誓いをたてた。その舞台である花畑に似ている気がしたのだ。
 もしかしたら何か関係があるのかもしれない。なんて根拠のない予想を立ててみるけれど、真相は闇の中だ。

「この場所があったなら、ここであのおまじない、すれば良かったですね」
「別に、場所がどこであれ変わりはしないだろう。人間共の陳腐な祈りなんて」
「気持ちの問題ですよ。物語の舞台で同じことをしてみるって、ちょっと憧れます」
「ッフン、物好きなものだね。馬鹿部下のくせに」

 整った横顔は少しだけ呆れているようで、心なしか優しげに見えた。

 その言葉を最後に、私もギラヒム様も、唇を結んだまま風にゆらめく花畑に見入っていた。茜色の雲が雲海の下をゆったりと泳いでいて、時間の流れすらも緩やかに感じる。
 主人も穏やかな眼差しを花畑に向けていて、こんな時間がずっと続けばいいと、心から願ってしまった。

「────」

 ──しかしその反面、一つの疑問が胸の内で存在を主張し、私は無言で息を詰めた。
 それはこの旅に出る前から心の奥底で抱いていたもの。きっと、これを問うことはとても無粋な行為なのかもしれない。
 けれど部下として、彼に聞かなければならないということは何となくわかっていた。それを聞くことが出来るのは、今この瞬間しかない。

 だから私は小さく深呼吸をして、傍らの主人に視線を向けた。

「あの、マスター」
「何」
「……何で、“でぇと”してくれる気になったんですか?」

 私の問いに、彼はほんのわずかに目を見開いた。
 聞くだけならば、あまりにも不躾な質問だ。彼の気まぐれという一言で済むならば、それに越したことはなかったはずだ。

 けれど、ギラヒム様の中で別の目的があるということには早い段階から気づいていた。それが私に関する何かだということも。
 ギラヒム様は少しだけ逡巡した後にフ、と吐息し、視線だけで私を見つめる。

「どうせ、可愛い部下のためを思ってしてあげた、という回答では満足出来ないのだろう?」
「もちろんその回答でもすっごく嬉しいですよ。でも、何か他に理由があるのかなって思いまして」
「フッ……随分と強欲なものだね」

 悠然とした笑みを浮かべ、ギラヒム様は軽く肩を竦める。
 苛立ちの気配が全く感じられないところを見るに、最初から私に聞かれることを予期していたのだろう。

 やがて彼はゆっくりと向き直り、両の目で私を見つめて、

「リシャナ」
「はい」
「……お前の魔力は、あと何回使える」
「────」

 その問いかけに、今度は私が言葉を失った。

 どういう意味なのか、そんな問いが不必要であることは全てを見透かすその目を見ればわかる。言い逃れも誤魔化しも、きっと通用しないのだろう。……隠し事を暴いたはずが、逆に暴かれてしまった、という気分だ。

 私は観念するように長いため息をつき、短く苦笑をこぼして、

「本当に、マスターには隠し事、出来ないですね」
「当然だろう。部下のくせに隠し通せると思うことがそもそも烏滸がましい」
「厳しいなぁ」

 下手くそな笑みを浮かべて、私は腰に眠る銀色の銃を指先で撫でながら続ける。

「たぶん、最大出力が二発くらい。あとは……“削れば”、もう少しくらいいけます」

 淡々と告げた事実に、ギラヒム様は表情を変えず沈黙を返す。見込み通り、といったところだろう。

 ──その感覚は、随分前からあったと思う。
 魔力。それはすなわち、魔族にとっての生命の化身。当然、許容量を超えた力を使えば使うほど、その反動は比例して大きなものとなっていく。
 ラネール砂漠、オルディン火山。……もしかしたらもっと前から。私は無意識のうちに自分の限界を超えた力を使いすぎて、命を削ってしまっていたのだと思う。

 決定打となったのは、黒い怪物となった魔王様に魔力を注ぐギラヒム様へ自身の魔力を渡した時だ。
 あの後、数日をかけて私の魔物としての生命を維持する魔力は回復した。けれどその一方で、武器として使える魔力はほとんどが失われてしまった。
 闘技場で魔銃を使おうとした時、指にどれだけ力を込めても物が掴めないような感覚に陥ったことでその事実を確信した。

 そんな状況で無理矢理魔力を絞り出そうとすれば、自身の体がどうなってしまうかなんて簡単に予想がつく。枯渇した魔力の代わりに何かが犠牲になるということも。

「……正直、こんなに早く使えなくなるとは思ってなかったですけどね。せめてリンク君を倒すまではとっておきたかったです。魔力って難しい」

 茶化すように言うけれど、いつも返ってくるはずの嘲りの気配はない。しかし注がれる視線は何かを非難するかのような、ある種の厳しさを含んだもののように思えた。
 ギラヒム様は数秒唇を結び、やがて吐息と共にそれを解く。

「……どうせお前は、それすらも使うのだろうね。あんな目にあっておきながらも」
「マスターの願いが叶う前に死んじゃうとか暴走しちゃう、とかなら使わなかったですよ? でも、そうはならないってわかるんです。犠牲になるとしたら……もっと別のもの」

 私を死の淵から引き上げたあの魔物の救いを期待しているとか、魔力切れを甘く見ているわけでは決してない。
 ただ、寿命なのか体の機能なのか、私の中の何かが犠牲になるという根拠のない確信だけがある。──それでも、

「そう思っていた矢先に使うべき時が来そうなので、むしろ都合が良かったです」
「……お前」

 不思議と、今の私は恐れを感じていない。大好きな主人とともにここまで生きてこられて、こんなに幸せな時間を過ごせて、私にしか出来ないことを授けられて。充分すぎるとすら思っている。

 そんな本音が私の表情から伝わったのか、ギラヒム様はそれ以上の追及はせず黙り込んだ。
 私は彼の横顔を見つめた後、再び黄金の花畑へと視線を戻す。

 ──柔らかな風が花畑を撫でる。
 黄色の蕾は黄金の海原にたつさざ波のように、揺れて、凪いで、揺蕩って。
 ああ、この花々は、何千年陽の光を待ち続けているのだろう。

「……もしかしたら、この時のために残っててくれたのかなって気もしてます。やっと巡ってきた私だけが出来ること、ですし」

 焦がれ、夢見て、待って、待って、待ち続けて。
 ようやくたどり着いた願いが叶う瞬間に、彼らは美しく咲き誇ることが出来るのだろうか。

「だから、マスター」

 何も失わず、願いを叶えることが出来るのだろうか。


「──空の守り神は、私が落としてきます」