外伝3_ユウシャ・パラドックス
──時は封印の地に異形の怪物が出現する数日前に遡る。
空の楽園、スカイロフト。
日当たりの良い空の島では豊富な作物が育ち、人々の生活に恵みと彩りを与えている。畑の手入れをする農家の主人を見るに、そろそろ収穫の時期を迎えるのだろう。
収穫された野菜の一部は騎士学校に卸され、生徒たちの活力の源となる。だからスカイロフトの騎士は、自然と農作物の収穫の時期を覚えてしまうのであった。
──そう思ってたのに、そんな時期になっていたなんて気づかなかった。
リンクは一人感慨に耽りながら、スカイロフトの田園風景を眺めていた。
ラネールでの一件を終えた後、怪我の治療と物資の調達のために帰ってきた空の島。
久々の生まれ故郷は当然のように平和そのもので、大地で経験した数々の出来事が全て夢だったんじゃないかとすら思えてしまう。
しかし、そんな現実逃避など許さないと言うように、全身の傷が疼く。一通りの治療は施したものの、完治するまでにはまた長い時間がかかってしまうのだろう。
──本当は、今すぐにでも大地に降りて、ゼルダの手がかりを追いかけたかった。
逸る気持ちに静止を言い渡したのは相棒である剣の精霊ファイだ。彼女は治療をおざなりに大地へ引き返そうとするリンクへ、冷静に却下を言い渡したのだった。
焦りは未だに胸の奥で燻っている。けれど、相棒の判断は正しかった。
治療をしてみれば自分が思った以上に傷は深く、このまま大地に降りたところで魔物の餌食になるだけだと納得した。
結果、時間をかけて療養をしている間、リンクは一度スカイロフトに留まることとなった。
のどかな故郷の風景を見るうちに、切迫していた心が落ち着きを取り戻す感覚がたしかにあった。
一つ気がかりがあるとすれば、最近バドの姿を見かけなくなったという噂を耳にしたことだ。たしかに、ゼルダがいなくなってからひどく気落ちした彼の様子はリンク自身も目にしていた。
一体どこにいってしまったのか。探しにいくべきか否か、少しだけ迷った──けれど、
「────」
そこまで考えて、小さく嘆息する。バドに顔を合わせずに済んだことに安心している自分に嫌気が差した。
それでも、バドを見つけたとしてゼルダのことを問い詰められた時、誤魔化し切れる自信が今の自分には無かった。
『必ず! きっとまた逢えるわ、リンク!』
あの時──ゼルダが時の扉をくぐり、扉が破壊される瞬間。
彼女が残した、未来が見えているような言葉は、今でもはっきりと耳奥に残っている。
彼女の言う通り、本当に再会することが出来るのか。考える前に、自分がやるべきことをしなければ彼女に会うことは叶わないのだ。
──だからこそ、今はしっかりと体を休めなければならない。
治療薬を買おうとモールへ向かっていた足はふと歩みを止める。
踏み出したのはモールとは反対方向。目的を共有しているはずのファイも、それを止める気配はなかった。
「うん、誰もいない」
たどりついたのは、空をはるかに見渡せる場所。──騎士学校のバルコニーだった。
大地に降り立つ前、この学び舎に通っていた頃はよく訪れていた好きな場所の一つだった。
リンクはそこから一望出来る景色を見遣り、ゆったりと肩の力を抜く。
「……少しだけ、懐かしいな」
深呼吸をする。肺を満たすのは暖かな太陽の匂いと、柔らかな草木の匂い。元々は地繋ぎだった場所のはずなのに、空と大地で空気の匂いが全然違う。
大地に降り立ってからそう月日は経っていない。けれどいつの間にか、そのどちらにも愛着が湧いていた。
束の間の穏やかで心地よい安寧の時間。
何を考える訳でもなくそんな時間に浸っていたリンクの耳に、一つの足音が届いた。
「──また随分派手に怪我をしてきたな」
「!」
聞き覚えのある声音にリンクは振り返り、そこにいた人物に目をしばたたかせる。
「アウール先生……」
そこにあったのは恩師──アウールの姿だった。
ここは騎士学校。時間は真っ昼間の休息時間。故に、彼がいるというのは何らおかしなことではないはずだ。それでもあまりに唐突な再会に反応が遅れてしまった。
「帰ってきていたんだな。校長先生から話は聞いていたが、まさかここにいるなんて驚いたよ」
「ああ、少しだけ落ち着ける場所にいたかったから」
「そうか。……私は外した方がいいか?」
「ううん、むしろ誰かと話したい気分だった。先生が聞いてくれるなら、助かるよ」
口元を緩めるリンクにアウールは苦笑を返した。
そうしてバルコニーに並ぶ二人の間を暖かな風が吹き抜けていく。交わされる他愛もない会話は束の間『勇者』としての責務を忘れさせた。
一頻りリンクの話を聞き終えたアウールは、ふっと端整な顔を曇らせる。
「お前にばかり辛い思いをさせてすまない。本当なら、我々大人がお前のような役割を担うべきなのに」
「……仕方ないよ。ゼルダを助けたい気持ちはみんな一緒のはずだ。その役目がたまたま与えられただけさ」
「────」
口を噤むアウールに、リンクは精一杯の平静を装ってみせる。
リンクが雲海を越えた大地に降り立ったという事実を知っているのは一部の大人だけだ。そして彼らが大地に降りることは騎士学校長ゲポラに許されていない。
無理もないことだろう。たとえそれがスカイロフトの騎士だとしても、あの凶悪な魔物たちと対峙させるわけにはいかない。
苦い心地に駆られるリンクの表情を見遣り、アウールは軽く顎を引く。
「お前がしなくてはならない、ということはわかっている。……ただ、月並みなことしか言えないけれど、無茶はするなよ」
「ありがとう。……先生」
恩師の言葉に、リンクは口元を緩める。言い方は違えど、それは相棒にも言われた言葉だ。
そんなふうに見守ってくれる人が身近にいるというだけで、リンクは胸の奥に仄かな熱が灯る感覚を抱いた。
アウールはリンクに笑いかけ、やがてその視線を空へと移す。
「なあ、リンク」
「ん?」
「一つだけ……聞いてもいいか」
不意に向けられた問いかけに、リンクはそれまでの和やかな空気が緊張味を帯びたことを察した。
空色の瞳に映った恩師は苦悶の表情を一瞬だけ見せて、口を開く。
「大地に、リシャナはいなかったか?」
「────、」
半ば予想していた質問に、喉奥がぐっとつかえる感覚がした。
答えを紡ぎ出す前に、リンクは頬の強張りを隠すことが出来なかった。
──数年前。リシャナが突如発生した竜巻に呑まれて雲海の下に落ちてしまったあの日から、アウールが己を責め続けていることは知っていた。
何も知らなかったなら、大地であの頃のまま生きるリシャナに出会えていたなら、すぐにでも彼女の無事伝えたかった。けれど、
「……まだ、会えてない」
明らかな嘘。同時に胸中がひび割れるような痛みが走る。
リシャナは生きている。ただし、スカイロフトの人間としての生き方を捨てて、魔族として。ゼルダを引き摺り落とした魔族長の部下として。
そんな事実を伝える勇気は、まだなかった。
「──そうか」
長い息を吐きながら、アウールは何かの感情を抑え込むように間を置き、それだけを呟く。
「ありがとう」
やがて絞り出された彼の言葉に、リンクは強く歯を噛み締める。
……つい数ヶ月前まで、教えを受けていた恩師だ。自分が吐いた嘘なんて、言葉を返す前に見透かされていたのかもしれない。
沈黙の時間が二人の間に満ちる。押し出そうとした言葉は喉を震わせず、吹き付ける風が攫っていった。
今日は風が強い。こんな日に思い出してしまう記憶は、二つ。
一つは数年前の嵐の翌日。沈鬱な表情をしたホーネルから、旧友の行方不明を知らされた時のこと。
もう一つは、自分に何かを告げようとした幼馴染が、巨大な竜巻に呑み込まれた時のこと。
記憶に残るあの竜巻は、どちらも魔族長ギラヒムが作り出したものだ。ゼルダが呑み込まれたあの光景を目にした瞬間、かつてスカイロフトを襲った竜巻と同じものだとわかった。
そしてギラヒムがゼルダを落としたと口にした瞬間、リシャナもこいつに落とされたのだという可能性は頭を過っていた。
まさか魔族長の部下になっていたなんて。大地に降り立ってからずっと、彼女はギラヒムの元で生きていたのだろう。
「────」
しかしどうして、と考える前にリンクはあまりにもリシャナのことを知らなすぎた。
ロフトバードを持たず、アウールの被後見人である、騎士学校の旧友。それだけだ。
彼女が何を思いスカイロフトで暮らしていたのか、リンクは何も知らない。だから──、
「……今さらなんだけどさ」
「ん?」
「先生は、リシャナにロフトバードがいなかった理由、知ってるのか?」
「…………、」
後見人である彼に、聞くべきだと思った。
きっとこの人は知っている。リシャナの中に、何が存在しているのか。スカイロフトにいた頃のリシャナが、何を思い生きていたのか。
注がれる真剣な眼差しに、アウールは数秒口を閉ざし、やがて首を縦に振った。
「知っているよ。……後見人になる前から、知っていた」
「そんなに前から……?」
リンクの言葉に頷き、アウールは青い空を見遣る。
広く、透き通った空では数羽の守護鳥が持ち主と共に羽ばたいている。空の住人に生まれた瞬間与えられた翼。かつてのリシャナが持てなかった翼だ。
ロフトバードが去った青空を見つめたまま、アウールは続ける。
「知っているのは私とホーネル、騎士学校長、そして騎士団の上層部だけだった。だが、町の大人の中にもいくらか知っている者はいるだろうな」
人の口に戸は立てられない。良識ある大人であったとしても、好奇の目を隠し通すことは出来なかったのだろう。
自分が知らなかっただけで、事実を知る者はある程度存在していたのかもしれない。
「……あいつが幼い頃、女神像の下に迷い込んだ事件があったんだ」
「ああ、それならリシャナ本人から聞いたことがあるよ。たしか、女神像の島の下層で倒れていて、記憶がすっぽり抜けてるって」
「そうだ」
その頃のアウールは騎士学校の上級生だった。当時、衛兵と共に朝の見回りをしていた彼は、散歩に出ていた老夫婦に助けを求められたという。
小さな女の子が女神像の島で倒れている、と。
「あいつはあの頃も夜になると寄宿舎から抜け出していたんだ。その日は曇っていて月明かりが無かったから、知らずに女神像の島へ迷い込んで、そのまま気を失ったんだろう」
そういえば、以前リシャナやゼルダ、バドと共に夜の女神像へ近づいた時、リシャナはひどく気分が悪そうにしていた。今となれば、その理由もわかってしまう。
そこまで話したアウールは、意を決したように言葉を継いで、
「本当は、ただ倒れていたんじゃない」
「……え?」
「発見されたリシャナは、複数の魔物に囲まれていたんだ」
「!」
静かに告げられた事実に、リンクは息を呑んだ。
「見たことのない魔物だった。本に載っているような、鬼のような魔物が三体」
ボコブリンだ、とリンクは確信した。
大地ではあらゆる場所で見かけるが、スカイロフトにはまずいない魔物のはずだ。
驚愕に息を詰まらせながら、リンクはアウールの話の続きに耳を傾ける。
「私は……いや、その場にいた全員が怯えてしまったんだ。見たことのない魔物の姿に」
今でこそスカイロフトにはキースやチュチュなど、比較的凶悪性のない魔物が出現するが、数年前はそれすらも見かけることはごく稀だったはずだ。
そんな中で武器を手にした異質な存在を前にすれば、誰だって恐れ慄いてしまうだろう。
「それでもリシャナを見捨てるわけにはいかない。異変を聞きつけた当時の騎士団長がその魔物たちの退治を請け負い、何とかリシャナを救出出来たんだ。……あいつは気絶していたから、自分が魔物に囲まれていたなんて最後まで知らなかったがな」
「……けど、何でそれだけでリシャナにロフトバードがいない理由がわかったんだ?」
口を閉ざすアウールから、即座に答えは返ってこない。
「……教えてくれ、先生」
リンクが促し、数十秒の沈黙を経る。やがて彼は観念するかのように重い口を開き、
「──その魔物が、リシャナのことを守っていたんだ」
何かを抑え込むような声音で、そう続けた。
ファイの分析によれば、魔物の中でもボコブリンは群れ意識が特に強いらしい。確証はないが、魔物の血を持つリシャナを同胞と見做したのかもしれない。
しかし当時の空の人間にそんな事実を知る者は当然ながらいない。見たことのない魔物に守られるリシャナが人々の目に魔物と同じように映っても、仕方のないことなのかもしれない。
「あの後、騎士団長の意向でリシャナの身体検査が行われた。本人にはただの健康診断だと伝えた上で。……そしてわかってしまったんだ。リシャナが魔物に守られていた理由が、あいつの中にあることに」
「────」
魔物の血、と明言しなかったのはアウールの中に残った親心だろう。
それは今でも彼がその関係性を捨てたつもりでないことの証左となった。
「あいつ自身がその事実を知ったのはしばらく後だよ。……大人たちの噂を聞いてしまったんだろうな」
「そう、だったのか……」
自分の中に魔物の血が入っていると知った時、彼女は何を思ったのだろう。それから十年以上、彼女は何を思い続けていたのか。同じ学び舎で笑っていたはずの彼女は、何を。
「あいつはその後、私が後見人になるまでの間、部屋に引き篭もりっぱなしだったんだ。……無理もないだろうな」
「アウール先生がリシャナの後見人になったのって、それが理由なのか?」
その瞬間。アウールの目が小さく見開かれたことにリンクは気づいた。
それが何を意味するのかはわからない。無自覚、驚愕、後悔。どの感情にも見えて、どれでもない。そんな表情だ。
アウールは空の青を両目に映し、ゆっくりと肩を下げて答えを結ぶ。
「そうかもしれない。……一番大きなきっかけは、な」
これ以上、彼の中に踏み入ることは許されない。リンクはそれだけを思い、吹き抜ける風の中に沈黙を委ねた。
「話、聞かせてくれてありがとう。先生」
「もう行くのか?」
「ああ。……やらなくちゃいけないことを思い出したんだ」
ぎこちない感謝を切り出し、背中の剣を担ぎ直して別れの意思表示をする。
思ったよりも長居をしてしまった。予期せぬ出会いに知らなかった事実。意志を固めるつもりがさらに迷うことになってしまった。
が、それと同時に知れて良かったという気持ちもどこかにある。
いずれにせよ、また大地に降りる理由が出来てしまったと、リンクが母校に背を向け歩き出した──その時。
「リンク」
アウールに呼び止められ、リンクは振り返る。
彼は眉を下げながらも柔らかく口角を上げていて、そして、
「私はいつだってあいつの味方だよ。……今も、信じている」
「────」
頷く。頷くことしか、出来なかった。
彼女の帰りを待つ彼に事実を伝えることも、その言葉を彼女に伝えることも、自分にはもう、出来ない。
アウールと別れ、一歩二歩と歩き出し、いつしか逃げ出すように走り出す。『勇者』が知るべきではなかった事実から、逃げ出すように。
「……何が、『勇者』なんだよ」
拳を握り締め、こぼれる言葉はごく小さなもの。
その言葉をはっきりと口にすれば、今自分がしていることを全て否定してしまうような気がしたからだ。
──けれど、
『必ず! きっとまた逢えるわ、リンク!』
『──リシャナも!!』
時の扉が閉じられる瞬間。
ゼルダが続けたその名を聞いて、リシャナが泣き出しそうな表情をしたことは今でも忘れられない。
『勇者』にとっての半端者でしかないと告げたギラヒムに、リシャナは友達だと言い返せなかったあの瞬間は、忘れられない。
忘れては、いけない。
* * *
そして時は移る。
『──そこは女神様より選ばれし者だけが入ることができる精神の世界、サイレン』
昼と夜が、明と暗が、光と影が、反転したかのような世界だった。
白銀の剣の精霊に導かれ、再び訪れた新緑の森。彼女に教え示されるまま、淡い光を放つレリーフに剣を突き立てたことは覚えている。
そうして気づけば、リンクは剣と盾を持たず、この場所に立っていた。
そんな状況で平静を保っていられるのは、どこからともなく響いてきた声音が聞き馴染みのある相棒のものだったからだ。
『マスターの精神は一時肉体を離れ、精神の試練を受けるのです』
「……精神の、試練」
精神、つまり、心の試練。
そう、自分はもう一度幼馴染に会うためにここに来た。
選ばれし者として必要な力を、知恵を、そして勇気を得て、女神の剣を鍛える手がかりを探すためにここへ来たのだ。
──強くなりたい。
それは女神に望まれ、世界に望まれていた強さ。
──強くなりたい。
それは魔を討ち滅ぼし、与えられた『運命』に従うための強さ。
──強く、ならなくちゃいけない。
それは大切なものを失わないための、後悔をしないための強さ。
──何故、強くなりたい?
それは、本当に誰もが幸せになれる強さなのか?
「──っ、」
首を振るって、両手を強く握る。試練はまだ始まっていないというのに、余計なことを考えるべきではない。
深く息を吸い、心を蝕む迷いを断ち切って、リンクは“試練の場”へと足を進める。そして、
『──マスター』
透き通った声音が、敬称を紡ぐ。
それは平板でありながら、何かを案じているようにも聞こえた。