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幕間_些細な日常にただいま



「──今日という今日は出たいです」
「却下」

 切実な訴えを申し出る部下を見下ろし、真顔で両断するギラヒム様。
 三日前と寸分違わぬ返答に、私は盛大に顔をしかめる。

「もう、体も元通りですよ? 少なくともマスターにいきなり馬乗りになられても抵抗出来るくらいには」
「一度却下したというのに聞き分けが悪いね? お前の肉体がどういう状態であろうとワタシの許可がない限りここを出てはいけない。それだけだよ」
「そろそろ私もお外に出てお仕事をするべきだと思うんですけど……」
「ふぅん? このワタシの命令に逆らってまで外に出たいと」
「ぎ、ぎぶですマスター……! 抱き締めるならもっと優しく愛情持ってしてください、中身出ちゃう!!」

 無茶苦茶を仰る主人は寝そべる部下に乗っかったまま上半身をお締め上げになる。
 傍から見れば戯れているとも言えなくない光景なのだろうけど、背骨や関節から聞こえちゃいけない音が聞こえてきた頃にようやく解放された。理不尽だ。

「……マスターだってもう外に出てるじゃないですか。なんで私だけ出ちゃいけないんですか」
「へえ? お前とこのワタシを同じ天秤にかけるなんてね? 部下のくせに頭が高いことこの上ないね?」
「むぎゅ、あ、頭踏まないで下さい……!!」

 部下の体に乗っかったまま器用に片足を使って頭を踏みつけるギラヒム様。ここ最近、やたらと肉体的接触を図ったお戯れが増えてきたように思えた。
 本人は部下の世話を焼いてあげているだけと言っているけれど、以前に比べて明らかに頻度が増している。詰まるところ──、

「……甘えたいだけのくせに」

 ささやかな反抗のつもりでぼそりと呟く。
 ギラヒム様はちらりと艶やかな視線を寄越し、薄い唇が弧を描いた。
 その美しい様に、冷たい悪寒が駆け巡って──、

「リシャナ」
「は、はい?」
「肩を寄越せ」
「……へ?」

 ──それが今日という日の朝の話。


 * * *


 彩りのない曇天の空に、一羽の小鳥が羽ばたいている。
 小さな翼を懸命に扇ぎ、やがて何かを見つけたのか地面へと降り立つ。ぴょこぴょこと地面を跳ね回った後、何の前触れもなく翼を広げ、再び飛び立っていった。

 ……そういえば、大地に来たばかりの頃はあんな小鳥にも怯えていた気がする。
 小さくても鳥は鳥。ロフトバードほどの鋭い爪やクチバシを持っていなかったとしても、無意識に距離を取ってしまっていた。
 あの小鳥たちが私を襲うことはないと納得出来たのは、大地に降りてから少なくない月日が経ってからだったと思う。

 きっかけは何だったのか、ある日私は自ら小鳥に手を伸ばしてみた。
 人間という生き物に馴染みがなく、警戒心のない彼らはすんなりと私の指先に頭を撫でられてくれた。

 初めて痛みを伴わずに触れ合えた、柔らかな羽毛の感触。私にも触れ合える鳥がいたのだと、すぐにでもその感動を伝えたい気持ちに駆られて──それは胸の内に秘めておくことにした。
 そのことを伝えたい対象が愛する主人ではなく、空から落ちた時に一生の離別をしたはずの人物だったからだ。

「…………」

 意図的に思い出すことを避けていた人物が脳裏に過ぎって、私は手にしたクッキーをもう一齧りする。

 拠点の裏手に広がる、緑に恵まれた平原。穏やかな風が耳を撫でて、暖かな心地が身を包む。
 せっかく念願の外に脱出してこんなにのどかな時間を過ごしているのだから、仄暗い気持ちは仕舞っておくべきだろう。

「まーた食ってやがる」
「んむ?」

 そうして頭の内から雑念を追い出していた私の耳に、聞き慣れた声が入ってくる。
 声の主の方へ視線を寄越せば、予想通りの姿が片手を上げていた。

「やっと復活したみてェだな。呑気にンなモン食いやがって」
「ふふん、主従ともどもお世話をしてくれた偉大な先輩のおかげです」
「お前が胸張ることじゃ一切ねェかンな」

 黄色く大きな目で私を睨みつけるその人物は、やはりリザルだった。
 数匹のリザルフォスが背後に控えているところを見るに、森の見回りから帰ってきたばかりなのだろう。彼らに先に戻るように指示し、リザルは私の元へと歩み寄った。
 こうして自室以外で彼と会うのは、あの日──魔王様が異形の姿で復活して以来初めてだ。

「本当に感謝してます。砂漠から生きて帰って来られたのも、こうして外を出歩けるようになったのも、リザル先輩のおかげです」
「そう言うならお前にもとっとと働いて欲しいモンだけどなァ。どうせ直近三日間くらいはご主人様に離してもらえなかったンだろーケド」
「……なんでわかったの」

 返事の代わりに注がれたのは、私の肩──に残る、魔族長様の噛み跡への視線だ。相変わらず目敏い先輩に引き攣った苦笑がこぼれてしまう。

 ストレス発散なのか、魔物ならではの愛情表現なのかわからないけれど、全身に残る主人の噛み跡は今もズキズキと痛んでいた。最初は珍しく私の体を心配(と、本人は決して認めなかったけれど)してくれていたと思っていたのに。

 ただ、主人に執着されるのも致し方のないことなのかもしれない。つい最近まで私は魔力を使い果たした反動に襲われ、血に塗れながら生死の境を彷徨っていたのだから。
 なんとか目を覚ました後も、立って動けるようになるまでは数日という時間を要してしまった。

「ま、働くつッても、今は情報収集くらいしか出来ることがねェからな。そーゆーのは俺ら下っ端に任せて存分にイチャついておけや」
「い、いちゃついてはないから……! 離してもらえないだけだから……!!」
「それをイチャつくッて言うンだよ」

 主従が動けずにいる間はリザルが魔物たちの指揮を取り、砂漠で傷ついた魔物たちの手当てや『勇者』と時の扉の情報収集に回っていてくれた。
 本音を言えば、怪我人なのだから彼にも安静にしていて欲しかった。けれど「腕一本無くなったくらいで仕事が減るわけじゃねェし」と労働環境に疑問符が浮かぶ返答をし、粛々と通常通りの任務にあたってくれていた。そういう性分なのだろう。

 一人納得し、クッキーの最後の一口を頬張る。と、呆れ混じりの視線が注がれた。

「そンなにうめェのかよ、ソレ」
「うめぇと思うよ、たぶん」
「ンだよたぶンッて」

 飲み下し、ごちそうさまでしたと一度手を合わせて、うーんと伸びをする。大地特有の豊かな土と草の香りが全身に満ちて、それだけで病み上がりの心が癒される気がした。

「やっぱり久しぶりのお外とリザルは落ち着くなぁー」
「ちょっと前まで死にかけてたクセに、お気楽なこッて」
「死にかけてたからこそ、こういう日常がありがたいんです」

 地元の子二人と衝撃的な再会を果たして、親しい先輩は再会出来たと思ったら右腕が無くなっていて、挙句の果てにはつい最近まで死者の世界に招かれかけていたのだから、こんなふうにのんびりとした時間を久しぶりに感じるのも無理はないはずだ。
 それに、まさか魔力が切れた結果あんなに壮絶な体験をすることになるなんて思ってもいなかったのだから。

 ──そこまで考えてあることに思い至り、私はリザルに向き直る。

「ねぇ、リザル」
「ンあ?」
「私が死ななかった理由。……たぶん、あのカタコンベにいた魔物のおかげなんだよね」
「…………は?」

 唐突な発言にリザルが怪訝な目を向ける。何を根拠に、と問いかける黄色い視線に、私は説明のための言葉を選びながら続ける。

「私、本当ならあの時に死んじゃってたんだと思う。……意識が暗い水の底に落ちていくあの感覚は、たぶん、本物の死の感覚だった」
「……だろうな」

 主人と出会ってからこれまで、幾度となく危険な経験はしてきた。けれど、真の意味で“死にかけた”経験は今回が初めてだと言えるだろう。
 同等の危険は水龍フィローネに氷結の呪いをかけられた時にも経験したけれど、その時ですらそんな感覚を得ることはなかった。

「ンで、それがなンであそこにいた魔物と繋がるンだ?」

 思案げな眼差しを向けながら、リザルが続きを促す。

「ラネールに追われながらカタコンベに向かってる時、魔物の声が聞こえたって話したでしょ。その声が魔力を使い果たして眠ってる時にも聞こえてきたの」
「なンでそいつがその魔物だってわかンだよ」
「……『まだ死なせてやらない』って、同じことを言ってたから」

 暗い、冷たい水の底に沈んだ、その先。その声音が私の意識を引き上げた。
 優しさも温かさもない、冷徹な声音だった。おそらく、半端者である私が魔物の在り方を宣ったことにひどく怒っていたのだろう。──しかし、

「ぼんやりとだけど、昔の戦争の光景も見たの。たぶん、その魔物が見てた光景。……空に女神の島が浮かんでいく瞬間」
「────」
「私、その魔物に生意気だって思われてたみたい。でも、地獄に落ちるのもまだ早いって言われた。だから、方法はわからないけど……助けてもらっちゃった」 

 同調したのか、幻を見せられたのか。あの魔物にとっての絶望の瞬間を、私は直接叩きつけられた。
 地獄から救う代わりに覚悟を決めろと言われたのかもしれない。目覚めた後の現実で、私は彼にとっての絶望と同等──もしくはそれ以上の結末を迎える可能性だってあるのだから。

 そう結論づけた私に、リザルは「なるほどな」と一言置いて、

「たしかに、大先輩方の前で大見得切った挙句に時空石で叩き起こしたンだからな。呪いの一つや二つかけたくなるだろ」
「え、呪われてるの? 私」
「ある意味そーだろ」
「ええ……」

 たしかにあれだけの亡骸が積まれた場所に許可無く踏み入るどころか、にぎやかに騒ぎ立ててしまったのだ。昼間のレムリー以上に温厚な魔物だったとしても、呪いくらいはかけたくなるだろう。
 頬を強張らせる私を横目にリザルが続ける。

「そういや聞いたことがあンな。大地のどっかに地獄と繋がってる場所があるッてよ」
「地獄と……?」
「ああ。噂によりャ、瘴気が濃すぎてフツーの魔物じゃ近寄れねェらしい。もしかしたらギラヒム様なら知ってるかもしれねェケド……好き好ンでそンな場所知りたくもねェな」

 付け加えられた彼の言葉に私は顎を引く。
 あの時私を助けてくれた魔物に会ってみたい気持ちももちろんあるけれど、たしかに自ら地獄に行きたいとは思わない。
 それにその場所を知っていたとしても、ギラヒム様が私を連れて行ってくれることはないだろうと、なんとなく思った。

 体ごとさらってしまうような強い風が吹き抜けて、乱れた髪を片手で整える。
 空を仰げば、雲海の下を漂う小さな雲が先を急ぐかのように風に押し流されている。

「今日は風が強いねぇ」
「ここ最近ずっとだぞ。天気が悪いわけでもねェのにな」
「そうなんだ。……空でクジラが泳いでるのかな」
「……また訳わかンねェこと言い出したナ」
「あ、えーと……空の世界を見守る精霊がクジラって名前の生き物に似てるらしくて、それが動くと風が吹き荒れるんだって。だから空の人たちはよく晴れた日の強い風をそうやって呼んでたの」
「ふーン。人間の言葉は訳がわかンねェな」

 私の地元語の説明に肩を竦めながらも律儀に聞いてくれるリザル。
 言ってはみたものの、その精霊とやらが空で泳いでいようと暴れていようと、分厚い雲海を隔てた大地にまで影響を及ぼすなんてことはないのだろう。
 もしかしたら、本物の嵐が近づいているのかもしれない。

「さて……そろそろマスターのところに戻らないと、私が脱走してること、バレちゃう」
「脱走ッて、あの人に言わずに出てきたのかよ、お嬢」
「……昔の癖で、外に出るなって言われたら無性に出たくなっちゃって」
「そーゆーことすッからだぞ、体に生傷が増えンの」

 彼の仰る通りだと思う。けれど私の外へのこだわりは空にいた頃よりも強くなっていた。
 きっと、マスターが帰ってくる前に戻っていれば問題ないはずだ。

 主人の気分が変わってしまっていないことを祈りながら、私とリザルは拠点へと引き返した。


 * * *


 嵐はその夜にやってきてしまった。
 窓の外を見れば凶暴な風が何度も吹き付けて、木々が盛大に煽られている。
 天井を見上げれば明かりを灯す魔石が小さく揺れていて、風でこの建物ごと崩れたりしないか少しだけ心配になってしまう。

 ──が、今の私は建物の心配をする前に、自分の身の心配をすべきなのだろう。

 結局、こっそりと帰ってきた私は予定より早めに外出から帰ってきていたギラヒム様に呆気なく見つかり、朝と同じく馬乗りでお仕置きを受けた。
 歯形まみれになった私の体を膝上に乗せ、ギラヒム様は「ふむ」と鼻を鳴らす。

「たしかに、魔力もほぼ回復をしたことだ。そろそろお前を使って行動を起こさねばなるまいね」
「一頻りお仕置きしてから言います? それ」

 眉根を寄せて主人を睨みつける。が、恨みがましい視線は華麗に無視され、彼は続ける。

「とは言え、こちら側に残された手がかりは無いに等しい。『勇者』も今は空の世界に戻っているようだしね」
「……そうですね。壊れた時の扉も修復出来なさそうですし」

 私たちがラネールから撤退をした後、残った魔物たちによって時の扉の調査がされたけれど、魔術や時空石を使った復元は不可能のようだ。
 つまり、現段階では巫女を追うための手段はなく、魔王様を復活させる方法も見当たらない。八方塞がりと言える状況だ。──けれど、

「あれ以来、封印の石柱にも異変はない。それだけを見るなら状況は膠着状態と言えるが、巫女がただ逃げるために過去へ向かったとは考えにくい。早くに手を打っておくべきだろうね。……まったく、美しく可憐なワタシにはどうしてこうも災難ばかりが降りかかってしまうのだろうね」
「ソデスネ」

 若干ズレた思案をしながら部下の髪をくるくると指で弄ぶギラヒム様。
 状況的には手詰まりなのかもしれない。けれど、彼がいつもの調子に戻ってくれたことは素直に嬉しかった。

 口元が緩む部下の表情には気づかず、ギラヒム様は再び鼻を鳴らして、ぽふ、と私の頭に片手を置く。

「そこで、だ。リシャナ」
「はい」

 流れを断ち切るようにそう区切った彼は薄い唇の端を持ち上げ、妖艶な微笑で私の顔を覗き込み──、

「“でぇと”をしようか」

「はい。…………、……はい?」

 私の思考は、再び吹っ飛んだ。